樹心講座のページに「喚鐘(かんしょう)を打ち忘れたこと」を書いたのだが、それで一言。しかし、これはあくまで後日談である。後日談と断っておかなければ、「講義中にこんなことを考えていたのか」と誤解されれば、いよいよ住職としての見識が問われるので、あえて断っておくのである。ゆめゆめ誤解のないように。
まず、お寺の鐘についてであるが、この「喚鐘」は「行事鐘(ぎょうじしょう)」ともいう。法要などの始まりを知らせるもので、行事鐘は法要開始のときに、大鐘つまり梵鐘(ぼんしょう)は開始の1時間前に打つことになっている。けれども、法座の時は色々準備があったりして、住職一人で何もかもやるというのはけっこう大変なので、瑞光寺では、梵鐘は法座の日の11時に、喚鐘はお勤め開始の30分前に打つことにしている。ただ、梵鐘は時々忘れる。これまた面目ない。
普通、お寺の鐘といえば梵鐘のことである。それは時を告げる鐘であり、童謡『夕焼けこやけ』に出てくる「山のお寺の鐘…」もたぶんそれであろう。瑞光寺では春彼岸から秋彼岸(4月から10月)までは夏時間で夕方6時に、冬時間は4時に撞くことにしている。母の里のお寺は年中午前11時に撞いているから決まったものはなく、お寺によって色々と違うのかもしれない。この辺も調べてみると面白いものが出てくるかもしれない。
私などが小さい時には、この梵鐘をつくのは子どもの仕事でしたが、その後一時期は、母と二人の時があり、この時間帯は留守がちになることが多くて、撞いたり撞かなかったり、撞かない時が続いたりと、実にいい加減なことをやって過ぎておりました。いよいよ穴があったら入りたい。
が、「撞いてもいない鐘の音が聞こえる」というのは変な表現ですが、実際にあるんですね。聞こえるはずのない鐘の音が聞こえていたのです。というのは、かれこれ十数年前、すなわち坊守が嫁いできてから数日たったある日、いつも畑仕事に精を出しておられる古老から、「鐘の音が聞かれんのは淋しい」と言われたと。畑や田んぼ、山仕事に精を出しながら、「今日も鐘の音がきこえんなぁ」と聞こえていたんですね。以来、坊守が一生懸命撞いております。子どもたちが小学生の時は手伝っていましたが、中学生になってからは帰りが遅くなりがちで、また元の鞘(さや)に納まっております。
瑞光寺の鐘の音は、余韻が長くて、ちょっと低音がしぶくて、結構いい音をしていると思います。「この界隈では一番じゃないか」と、自画自賛。風向き次第で届かなかったりすることもあるようですが、聞こえてますでしょうか。ゆっくり手を休めて聞いてみてください。
それからもうひとつ。梵鐘といえば、大晦日(おおみそか)の「除夜の鐘」もこの梵鐘である。本来ならば煩悩の数だけ、つまり108ほど撞くことになっているのだが、瑞光寺ではお参りになられた皆さんが鐘を撞いてくださるので、かなりオーバーすることがある。煩悩が人並み以上に多いのであろう。