4月から、『山陰教区 相談員』という役職を仰せつかった。ということで、5月10日〜11日は1泊2日の「本山研修」。重ねて尼崎のご門徒さんからお参りの要請を受けている。
しかし、翌週17日には『基幹運動推進委員会』の総会が待ち受けているから、そうそうのんびりしたり、浮かれてはいられない。
9日松江泊まり・・・。
10日〜12日京都泊・・・。
13日松江泊まり・・・。
総計一週間にわたる出張である。
9日夜、ようやく総会資料の段取りがついたのは、早11時になろうとしていた。4月からこれで何泊目であろうか。お馴染みになったホテルにチェックインをして、遅まきながらの夕食に出かける。
もう腹ペコで、今にもひっくり返りそう。
「さば定食」を肴に、生ビールが五臓六腑に染み渡る。
労働の後のビールはまた格別。「ウ〜ン満足」と、ささやかな幸福感に浸る・・・。こんなことで幸福とは可愛らしいもんです。
勢い、ネオンの灯りに誘われそうになったが、
「明日は早いので、6時にモーニングコールしてください。」
もう12時近いのでホテルに戻る。
さて、遅くても6時には出かけなくては、昼までに本山に入れない。何ごともなければ飛行機や新幹線という手もあるのだが、ちょっと荷物が多いし、何より「禁煙」が辛い。ということで、自動車で出かける予定だ。風呂に入って、早々に就寝。もう1時に近い。
・・・後でよく考えたら、福光から松江までの約2時間分は不要なので、こんなに早く出かける必要もなかったのでは・・・。習性とは恐ろしいものである・・・。
この誤算が、ひとり旅のプロローグとなるとは・・・。
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午前5時。
目が覚めた。
最近、歳のせいか4〜5時間も寝ると目が覚めてしまう。カーテンの開いた窓から、朝日が射し込んでいる。
「ちょっと早いが・・・」
と思いながらも、二度寝して寝過ごしたら、冗談にもならないので出発することにする。
もちろんモーニングコールはキャンセルである。
さて、山陰道を東にハンドルをとると、朝靄の中に大山の稜線がぼんやりと浮かぶ。
靄のためであろう、朝日が夕陽のように赤くなって昇っている。ちょっと幻想的・・・、これは絶景であった。「早起きは三文の得」ってかと、独り言も飛び出すというものだ。
が、何やら予感をさせるような光景でもあった。
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米子道から、中国道へ、全く順調な滑り出し。
いよいよ兵庫県に入る。
後にも前にも車の姿はない。貸切状態である。
順風満帆、天下和順、日月清明・・・。
滑るように車は走る。快適なること極まりなし。
午前6時30分。
一気に加西サービスエリヤまで来てしまった。あと1時間もあれば京都・・・。
だが、案内板を見ていると、良からぬ思いが横切る。
「ちょっと、速過ぎたかなあ・・・。」
「この調子で行けばラッシュに当たるかもなあ・・・。」
と、案内板に『養父』という地名を見つけた。
途端に古い記憶が蘇る。
4〜5年前、念仏奉仕団の帰途、城崎へ回って、出石に寄った時、
「このあたりに東井義雄(とおい・よしお)先生の記念館ができたそうな・・・。」
という話があったのを思い出したのである。
「養父かあ・・・。」
播但道を通り過ぎてしまったので、舞鶴道からでは遠回りになりそうだが、
「時間はあるし、天気は良いし・・・。」
「それに何より、そうそう行ける所ではなさそうだし・・・。」
「こんな予定変更のできるのも、車で来た余得か・・・。」
一抹の不安はあるものの、寄り道してみることにした。
しかぁ〜し、これがとんでもない「ひとり旅」になろうとは・・・。
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東井義雄記念館・・・。
事前の調査も、なんにもなし。
ほんの気まぐれ・・・、
ほんの思いつき・・・・、
ほんに衝動的・・・。
予備知識は「養父にあるらしい」ということだけ。
所在も分からなければ、電話番号も知らない。
地図もなければ、当然、カーナビもない。
ただ「養父に行けば・・・」だけである。
あれほどの有名人だから、誰か知っとるだろう・・・。
意を決して舞鶴道に路線変更。
行き当たりバッタリの、始まりはじまり。
愛車を駆って30分余り。春日のインターに着く。
「このまま福知山まで行けばいよいよ遠回りになりそうだ・・・。」
「ここらあたりで高速を降りるのがいいだろう・・・。」
と、山勘でハンドルを切る。
いい加減なること、この上もなし・・・。
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料金所のおっちゃんに、
「養父はここで降りて良かったですかね。」
「ようふ?ああ、養父(やぶ)ね。出たところの交差点を和田山へ向って行けばいいですよ。」
養父を「ようふ」と言ったもんだから、ニコニコ笑いながら優しく教えてくれた。
「途中までだけど、これをあげましょう。」
と、『春日インター周辺地図』なるものをくれた。
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途中、コンビニで缶コーヒーとお茶を仕入れようと立ち寄る。
ちょっと可愛らしいお姉さんが店員さんだったので、思わず、
「和田山までは、まだ大分かかりますか。」
と尋ねたら、
「もうここは和田山ですよ。街までは20キロくらいかな。」
と、もう一人に確認してくれた。
「養父に行きたいんだけど、この道でいいんだよね。」
と念押しすると、
「和田山を過ぎたら養父です。」
と丁寧に、そして愛想良く教えてくれた。
コンビニのお姉さんの言葉どおり、道なりに走っていると「養父」の標識が現われる。
さて、
「東井義雄記念館の標識はないかな・・・。」
と、それらしき物を見つけるたびにスピードを落としていると、「養父駅」の標識がある。
だいたい駅というのは街の真ん中辺りにあるのだから市内案内板の一つもあるかもしれない・・・と期待して立ち寄ってみる。
が、無人駅のようで、案内板もなければ、観光パンフも何もない。ウロウロしていたら、自販機の詰め替えをしていたおばちゃんが、
「どうしたの・・・?」
と聞くので、
「東井義雄先生の記念館が養父にあると聞いたから、尋ねて来た・・・。」
と答えると、
「ああ、東井義雄先生・・・、あの教育者の・・・。」
と言うので、
「これはッ!」
と期待していると、
「養父じゃない。」
と言い出す。
「養父だと聞いてきたんですが・・・。」
人の話も聞かずに、おばちゃんは通りかかった散歩姿のおじいさんを捕まえて確認する。
「養父じゃないよね。」
「八鹿じゃなかったか。」
ということで、半信半疑ながら再出発。
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言われるままに、八鹿へ。
市街地やら、バイパスやら、「東井義雄記念館」を探して右へ左へ。
信号待ちをしていて、ふっと脇を見ると、「ヤマザキパン」の看板のお店がある。壁に、何やら案内板がかけてある。どうやら、ご近所の住宅地図のようだ。
「もしや・・・?」
と思って寄ってみたが、「東井義雄記念館」の「記」の字もない。で、お店のおばちゃんに尋ねることにした。
「ああ、あの教育者の・・・。」
さすが有名人、名前だけはみんな知っているようだ。が、肝心要の「記念館」の場所は分からない。
「町役場はどこにありますか、・・・観光課か何かで聞いてみます・・・。」
「市役所ね。合併で市になったのよ・・・、電話番号は・・・。」
親切なおばちゃんであった。わざわざ市役所の電話番号を調べてくれたのである。
ご厚意に感謝して、缶コーヒーを2本も買ってしまった。
「どこから来たの・・・。」
と尋ねられて、
「島根からです。」
と答えたら、そのおばちゃんは、つい最近江津まで来たという。
「ずいぶん遠い所だ・・・。」
と、長旅の疲れを思い出したように話してくれた。
「誰か、東井義雄記念館を知らんか・・・。」
電話の向こうで、他の職員に聞いている。
「うちにそんなのありましたか・・・。」
「うちじゃないよな・・・。」
受話器の向こうの会話に、だんだん不安がこみあげてくる。本当に、『東井義雄記念館』なんてあったのだろうか・・・と。
「但東町じゃないですか・・・・。」
「但東町にあるそうです。」
「ほんまかいな・・・?」
と思いながら、
「今、下小田という所の、線路脇の三叉路にいるのですが、ここからどう行けばいいでしょう。」
「そこからなら、橋を渡っていくと出石で国道に出るから、それを一本道・・・。」
出石の町を抜けて但東町に入った。
「さて、またどこかで道を聞かなくっちゃ・・・。」
と思った矢先、「但東郵便局」という見慣れたデザインの看板が見える。(この看板、全国共通か?)
「おお、所在を聞くならこれに限る・・・。」
我ながら名案とばかりに飛び込んで、
「東井義雄先生の記念館を尋ねて来たのですが・・・」
と、窓口のおばさんに聞いたら、
「記念館なら、この先の信号を過ぎて、すぐ右側です。役場の隣の図書館の中にあります。役場からでも、図書館からでも入れますよ。」
と、丁寧に教えてくださった。
外に出てみると、なんと、信号まで約100メートル。思わず笑ってしまった。
まあ、世の中、こんなもんです。
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喜び勇むあまり、信号を過ぎなくてはいけないのに、建物が見えたものだから、思わず信号を曲がってしまって・・・・Uターン。
おっとどっこい。
ようやく憧れの「東井義雄記念館」、一名様ご到着。
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『東井義雄記念館』は、郵便局のおばちゃんの言うとおり、役場に隣接する図書館の奥まった所にあった。受付に、お姉さんが2人、いつ来るとも分からない利用者を待っている。
「東井先生の記念館はこちらですか。」
と尋ねると、
「ハイ、あちらにあります。」
と奥の一角を指し示してくれたが、それ以上の案内はなかった。
ついでに、
「東井先生の色紙のようなものはありませんか。」
と聞いてみたが、書籍以外は何も販売していないという。
残念に思ったので、内緒でちょっと撮影させてもらうことにする。
ただ、先生の心にしみる言葉を持ち帰りたかったのです。(ゴメンナサイ。)
(照明や、ガラスケースの関係でイマイチ撮れなかったけれど、挿入写真でお土産代わり。)
(東井先生の生涯を、パンフレットから紐解く)
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明治45年(1912)
兵庫県北部(現在の但東町佐々木)の小さな寺(浄土真宗本願寺派・東光寺)の長男として生まれる。
父(義証)の勤めの都合で、3歳までは京都で育つ。
大正7年(1918)
小学校1年生になったばかりの5月、母(初枝33歳)と死別する。
(写真:上『仏説無量寿経』下巻)
『独来独去、無一随者』
「小学校1年生の夏休み、漢文の宿題でこの言葉に出合った」という説明書きがある。
小学1年生で、これを読むのか・・・!
『天才は双葉より芳し』
と、納得する。
大正11年(1922)
寺といっても檀家が10戸余り、不運も重なり食事さえ充分でない貧乏寺。「この貧しさから逃れるには勉強以外にはない」と、うどん箱を机代わりに勉学に励み、小学校5年生で、旧制中学の資格試験に合格したが、貧しさのために父の許しが出ず涙をのむ。
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昭和2年(1927)
どうしても進学の道は捨てきれず、一番安く学べるという理由で師範学校(姫路)に入学。
勉学には優れた力を発揮したが運動が苦手で、マラソン部で「一番より尊いビリがある」と、卒業するまでビリの役を演じたという話は有名である。
昭和7年(1932)
師範学校卒業後、豊岡尋常小学校に着任。以後10年間勤務することになるが、その前半は生活綴方教育に若き情熱を傾け、昭和10年ごろには早くも『兵庫に東井あり』と仲間から認められるまでに成長する。
また、この頃にはプロレタリア文学に魅せられ、病床の父の代役でお経を読みながら無神論が頭を持ち上げ、そのハザマで身もだえするような一時期を過ごす。
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昭和14年(1939)
敬愛する父の死に遭遇する。
前後して教え子の質問に端を発した『ノドチンコ事件』を通して「生きていたつもりが生かされている」ことに気づく。
さらに、愛児の大病に出遭い、生きていることのただごとでないことに気づかされる。こうして急速に「いのちの教育の探究者」へと開眼していく。
昭和17年(1942)
日中戦争から太平洋戦争へと戦火が拡大する。
昭和17年合橋小学校、続いて唐川小学校へと郷里の合橋村で勤務することになる。
この間に教育雑誌『日本の子ども』に「僕等の二千六百年史」、『文芸春秋』に「国史の礼拝」を発表。昭和19年には東井の最初の著書ともいわれる『学童の臣民感覚』を発刊する。
いずれも国史学習の実践記録であるが、戦時における生き方の記録として大きな反響と議論を呼ぶところとなる。
昭和20年(1945)
日本の無条件降伏で敗戦となり教育は大きく転回する。必勝を信じて戦時の教育に徹しただけに、一時は死を覚悟するほど、そのショックは大きく苦悩の日々を過ごす。
昭和22年(1947)
小学校時代の母校相田小学校に勤務。
以後14年間勤務するが、その前半は戦時の教育に責任を感じ、じっと沈黙を守る。
しかし、「ひたすら目の前の子どもの幸せ、村の幸せを願う実践こそ、村の教師の生きる道である」と、新たな決意をして立ち上がる。
そうして、この谷あいの貧しい村で、子どもたちをどまんなかにすえながら、親と教師が一体となって、農民の生き方そのものを問い直していく実践がはじまる。その記録が、学級通信『土生が丘』である。
昭和32年(1957)
戦後12年の沈黙を破って不朽の名著『村を育てる学力』を発刊する。全編316ページのこの著書には東井の子ども、村、土への深い愛情と、村の教育にかける強い信念があふれており、近代化の名のもとに都市指向が進む中で大きな反響を巻き起こした。
こうして東井は再び日本の表舞台へと出て行った。
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昭和34年(1959)
『村を育てる学力』のすぐれた理論と実践に対し、広島大学より『ペスタロッチー賞』を受賞する。以来、日本作文の会より『小砂丘賞』、神戸新聞社より『平和文化賞』等々、多くの受賞に浴する。
特にペスタロッチー賞』受賞以来、東井は「日本のペスタロッチー」の異名で呼ばれるようになる。
なお、子どもと共にありたいと辞退し続けたが、相田小学校で校長に押し上げられる。
昭和39年(1964)
高橋中学校長(3年間)を経て、最後の勤務校となった八鹿小学校長となる。
全国各地から訪れる参観者への対応、講演のための出張、そして管理職としての実務と目のまわるような毎日であったが、まさに東井教育が花開き、日本の東井へと成長した時代であった。
昭和46年(1971)
永年にわたるすぐれた教育実践に対する功績により、文部省より『教育功労賞』を受ける。
昭和47年(1972)
3月31日、数々の功績を残し定年退職、40年間の現職生活を終える。
同年、『東井義雄著作全集』全10巻を発刊する。
退職と同時に本格的な講演行脚の時代に入り、多い年にはその回数が300回を超えたという。
また、昭和48年より姫路学院女子短期大学講師、58年より兵庫教育大学大学院非常勤講師を務めるなど、教職生活を続ける。
昭和52年(1977)
『培其根』復刻版が発刊される。
これは八鹿小学校時代の教員に対する校長としての指導の記録をガリバン刷りそのまま著書とした異色なものであるが、実践家としてのひたむきな東井の姿勢を表す記録、また校長として教員を指導するそのあり方を示す記録として高く評価される。
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昭和62年(1987)
次第に身体の不調を訴えることが多くなり、姫路学院女子短期大学および兵庫教育大学大学院の講師を辞し、昭和7年以来55年にわたる教師生活に終止符を打つ。
昭和63年(1988)
55年の教師生活と、全国を飛びまわっての講演等を通して教育者、仏法者として広く社会に貢献した功績により、全国青少年教化協議会より『正力松太郎賞』を受ける。
平成2年(1990)
NHKテレビ『心の時代』に出演し、『仏の声を聞く』と題して放送し、大きな反響を呼ぶ。このときの放送内容が翌年『仏の声を聞く』として出版され、これが事実上最後の著書となる。
平成3年(1991)
4月18日午前0時4分、豊岡病院にて逝去、79歳の生涯を閉じる。
【主な著書】
『学童の臣民感覚』(日本放送出版)昭19.
『村を育てる学力』(明治図書)昭32.
『子どもを伸ばす条件』(明治図書)昭35.
『授業の探究』(明治図書)昭36.
『東井義雄著作集』全10巻(明治図書)昭47-51.
『培其根』復刻版、昭52.
『根を養えば樹は自ずから育つ』(柏樹社)和51年.
『いのちの芽を育てる』(柏樹社)昭54.
『東井義雄詩集』(探究社)平1.
『仏の声を聞く』(柏樹社)平2.
『東井義雄「いのち」の教え』(佼成出版)平成4.
今回も色々ありましたが、何はともあれ大団円。
ただ、記念館ではDVDが視聴できるようになっておりましたが、これも非売品。
見たかったのですが、
ちょっと回り道が過ぎて・・・、20分ほどの物だったのですが・・・、
残念。
R9、福知山経由で京都入り。
兵庫県民の皆様、大変お騒がせいたしました。
大変お世話になり、有り難うございました。
〒668-0393 兵庫県出石郡但東町出合150(但東町役場隣)
TEL(0796−54−1020)
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(休館日)月曜、年末年始
(開館時間)午前10時〜午後4時
(入館料)無料