天親菩薩の教え@(田中賢誠先生のお話)


天親菩薩は、はじめ小乗仏教の学僧でありましたが、兄の無着菩薩の熱心な誡めによって大乗仏教に転向し、『浄土論』を説いて、私たちに弥陀の浄土を願生するように勧められたのであります。

天親菩薩は自分の救われる道は八万四千の教えの中で、

「世尊よ、我れ一心に、 尽十方無碍光如来に帰命し、 安楽国に生ぜんと願ず。」

と、阿弥陀如来に帰依し、浄土往生を願うことを表白して、『浄土論』を著わしておられます。そして彼の国に生れるための実践法として、礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門を示され、これを修行し自利利他して、涅槃の悟りを成就すると説かれたのです。

親鸞聖人は『浄土論』の観察を『一念多念文意』に、

「観は願心を心に浮かべて見ると申すなり、また知るという意なり。遇は値遇(もうあ)うという、もうあうと申すは、本願力を信ずるなり。」

と説明されてあります。「観」は、如来の私を必ず救わずにはおられぬという願心を思い浮かべ、その深いお慈悲の仏心を知らせていただいたことです。「遇」は、本願力を信ずることであります。

 親鸞聖人によりますと、『浄土論』は、

「信心の一心で阿弥陀如来の浄土に往生する。」

と説くものであり、五念門往生と説いてあるのは、実は法蔵菩薩が、私たちに代わって修められてた自利利他の行動の内容を示されたもので、それが南無阿弥陀仏の御名に収められて私に回向される時、一心の信心となるのであると受け取られたのです。

私が如来の本願力に遇わなければ、私の救いは成立しません。その本願に出遇うとは、信心において言えるのです。浄土真宗の信心とは、すべての衆生を必ず救うという絶対無条件の仏心をいただいて、素直に頭が下がり、信ぜずにはおれない仏さまの心に目覚めていくことです。必ず救うという、法のすべてが、南無阿弥陀仏の名号に成就されてあるのです。名号は、この私が仏になるために必要なすべての徳が完全に備わったもので、その真実を私に恵まんと誓ってくださったのです。

「すべての人よ、我が名を信じ、我が名を称えよ。我れ必ず汝を救わん。」

という誓いこそ、仏さまの衷心からの願いです。この私は、

「疑い深く、計らいが多く、お寺に参らせていただきながらも、なかなか素直に如来の仰せに心より耳を傾けようとしない。」

こんな私に、如来は常に、只今も休むことなく喚びかけていてくださるのです。その喚び声が私に届いたのが信心であり、口に出てくださったのがお念仏です。そのお喚び声に随順した時に、阿弥陀如来に遇ったと言えるのです。

ある先生の高校時代の友人が胃癌で入院され、もう余り長く生きられないと聞いてお見舞いに行かれました。看病しておられた奥さんが慌てて出てこられ、

「主人は癌だとは、まだ知りません。胃潰瘍ということにしてありますので、よろしくお願いします。もう半月位だと医者に言われております。」

と言われました。病室に入りますと、人違いではないかと思うほど痩せておりました。癌の末期ですから。病人は、

「おう、よく来てくれたね。」

と喜びながら、奥さんに、

「すまんが、買い物に行ってくれないか。」

と頼んで、二人きりになりました。

「君、病室に入る時、妻に胃潰瘍と言ってくれと頼まれただろう。お見舞いに来てくれた人が皆、胃潰瘍でよかったですねと言われると、独りぼっちで淋しく思えるよ。でも、よく考えてみると、妻は僕以上に一人で苦しんでいるのではないだろうか。きっと、便所に入っては、声を出して泣いていることだろう。」

と、涙を浮かべながら、

「実はね、この間、癌だと知ってしまったのだよ。その時のショックは言えないよ。癌の宣告受けた者しか、この気持ちは分からないと思うよ。夜も眠れずに、どれほど布団をかぶって泣いたかしれない。独り淋しく苦しんでいる時、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と小さな声でお念仏していたのだ。その声にふと気がついた時に、何か温かい心に触れた気がした。正直に言って、元気な時からお寺にお参りしていて、お念仏は本願招喚の勅命であると聞いてはいたが、心より有り難いなあと思ってお念仏したことがなかった。今初めてお念仏の心がいただけた気がする。」

と言うと、静かにお念仏するのです。

「そうか、君はお念仏の心がいただけたか、幸せじゃないか。」

と、共に喜ばせていただきました。

しかし、病人は自分の病状の悪化を知っているのです。

「君にお願いがある。僕たちには子どもがいないから、僕が死んでから、後に残る妻が可哀想でね。すまんが、妻に言ってほしい。僕は独りで死んだんじゃない。お念仏を喜びながら、如来のみ親と二人連れ。お浄土に還っていったのだと。それから、もう一つ。後に残る妻に、聴聞に命をかけて、心よりお念仏を喜べる信心のお同行となって欲しいと、最後のお願いをしていたと伝えて欲しい。」

「分かった、必ず伝えるよ。」

と言うと、骨と皮に痩せ細っている両手に最後の力を込めて、しっかりと握り締めながら、

「ありがとう。」

と、両目に涙をいっぱいにためていた友は、半月後に病院を訪問した時には、すでにいませんでした。



天親菩薩の教えA(仲野良俊先生のお話)


『正信偈』は一行七文字ずつで整っておるわけですから、十字の名号を七文字にするために、

「帰命無碍光如来」

になっています。しかし、七文字にしさえすればよいなら、

 「帰命尽十方如来」

でもいいわけです。それを尽十方の方を削って無碍光の方にされたのは、一体どういう訳か。仏さまの光はどこにでもいたり届く、これが尽十方です。その尽十方の方を削って無碍光の方を残しておられる。何故、尽十方を削って無碍光の方を残されたかということに、ちょっと疑問を感じるわけです。

それは、どういうことかというと、人間というものは様々な業を抱えて、色々の出来事の中に身を置いているわけですから、どんな状態の人間でもかまわないという、この無碍というところに非常に具体性があるわけです。無碍ということは業と関係する。

「いかなる業を抱えていても、」

ということです。どこにいる人間でもと言うよりも、どんな業を抱えて、どんな出来事の中に身を置いていても、必ずたすけるということが大事なのです。無碍は何に対して無碍か。障りというのは何かというと、結局、これは業です。いかなる悪業煩悩にも妨げられないという、非常に具体的な如来の救いというものを明らかにするためには、無辺光よりも無碍光の方が大事なのです。これが親鸞聖人のご了解であったのではないかと思います。といいますのは、天親菩薩は色々の書物を造っておられますので「千部の論師」と昔から言われておられるのです。本当は千もありません。たいそうな言い方ですけれども「千部の論師」と言われている。非常にものの考え方が綿密な方ので、様々な論をお造りになった。その中に『成業論』というのがあります。これは非常に大事な論です。それから『阿毘達磨倶舎論』というものがある。これも有名な小乗仏教の論ですけれども、これに『業品』というのがあります。天親菩薩という方は、業ということに対してたいそう深い考え方をしておられるわけです。業についての論をもし挙げるならば、天親菩薩以上に業について深く抑えられた人はいないと言ってもいい。非常に深く、綿密に業ということを押えた方なのです。天親菩薩ほど業ということについて深く理解され人はいないし、また業について詳しく述べられた方はいないと言ってもいい。そういう意味で尽十方よりも無碍光の方が天親菩薩にとってはふさわしい。むしろ天親菩薩のお心にかなうお言葉だというので、親鸞聖人はこの尽十方を削り、それでこの大事な無碍光を残して七文字とし、

「帰命無碍光如来」

と仰しゃったのだというふうに受け取れるわけです。



天親菩薩の教えB(桐渓順忍和上のお話)

天親菩薩は『浄土論』をお造りになって、

「世尊我一心、帰命尽十方、無碍光如来、願生安楽国」

        (世尊よ、私は一心に、尽十方無碍光如来に帰依したてまつって、安楽国に往生いたします。)

と説き、また『無量寿経』によって真実を顕し、いかなる凡夫も仏力他力によって速やかに仏になることのできる第十八願の意味を広く説いてくださったのであります。

『浄土論』の内容は偈文(字数を一定にし詩の形式をとるもの)と長行(散文)との二つに別れており、偈文にはまず天親菩薩自身が、

「世尊我一心、帰命尽十方、無碍光如来、願生安楽国」

と示し、自分自身が阿弥陀如来の浄土に往生しようと願うことを説き、では何ゆえに浄土に往生を願うかというに、阿弥陀如来の浄土はこのように勝れておるからであると、国土の勝れたありさまを17種、仏の勝れた相を8種、往生人の勝れた相を4種示しており、これを三種荘厳二十九種といっております。このような勝れた浄土であるから、自分自身も往生を願うが、普く多くの衆生と共に往生したいものであると示しております。

長行には、その浄土へいかにして往生するかということを示して、阿弥陀如来を礼拝し、讃嘆し、作願し、観察し、回向する5種の行が説かれてあります。これを五念門といい、その五念門の行によって浄土の往生すると説いております。

この偈文における一心往生と、長行の五念門往生との矛盾についても色々の問題はありますが、曇鸞大師は五念門で往生と説いてはあるが、実は五念門の行を修して往生するのではなく、阿弥陀如来の願力により、他力によって往生するのであると示しております。

そして、親鸞聖人は『浄土論』は一心で往生、信心の一つで往生と説いたものとみたのであります。親鸞聖人によりますと、『浄土論』は、信心の一心で阿弥陀如来の浄土に往生すると説くものであり、五念門往生と説いてあるのは、その一心が無内容なものではなく、五念門の徳があるのだと、一心の徳を示されたものだと受け取っております。



天親菩薩の教えC(桐渓順忍和上のお話)

この八句は『浄土論』の内容を簡単に示したもので、初めの二句、

 「広由本願力廻向、為度群生彰一心」

は、衆生を救うために他力の一心を顕したもうたことを讃嘆したものです。天親菩薩が、広く一切衆生を救済するために、阿弥陀如来ご廻向の第十八願の無疑の一心のいわれを顕してくださいましたことを讃嘆されたものであります。

親鸞聖人は、天親菩薩が、

「世尊我一心、帰命尽十方、無碍光如来、願生安楽国」

と述べられている言葉に注意して、第十八願に至心・信楽・欲生と三心を誓ってありますが、天親菩薩はその三心を合して一心となしたもうたとみて、一心往生、信心の一心で往生ができると示されたものとみたもうたのであります。

ここに浄土真宗の信心往生、信心こそ浄土往生の正しい因であるという「信心正因説」が確立したのであります。

では、どうして、第十八願に誓われた至心・信楽欲生の三心が一心となるであろうか。

その論理については、親鸞聖人は『教行信証』の『信巻』に三心と一心との関係について問答を設けて示されてあります。その大要は、一つには至心の文字には真・実・誠などの意味があって無疑ということになり、信楽にも多くの意味はあるが、結局は無疑の意味となり、欲生もまた無疑ということになるのであります。至心も信楽も欲生も共に無疑という一つに統一されるものであるから一心であるという論理。

二つには、至心も信楽も欲生も共に衆生の持っていなかったものを、如来が完全に成就して与えてくださったもので、私にとっては、その三心は疑いなく信受する一心でよいのであるから、三心は一心に合するのであるという論理。

三つには、至心も信楽も欲生も、その体をいえば一つの名号に外ならないのであるから、三心が一心になるという、これらの三つの論理によって三心が一心に合するのであると説かれるのであります。

次に廻向ということは、広く仏教一般で用いられておるものでありまして、文字の意味についても色々な解釈がされております。

一般的に言えば、廻転趣向、善根の目的を廻転して他の目的に趣向せしめること、即ち、その善根のもっておる本来の目的を変更して、他の目的のために趣き向かわしめることでありまして、善根の目的を変更することを廻向というのだと理解すべきであります。

何故そんなことを必要とするかというに、仏教では、善根にはそれ自体で目的を持っておると考えられております。例えば、

「不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒の五戒を保つと人間界に生れる。」

「十善を修すれば天上界に生れる。」

というように、一応、定まっておるのであります。そこで仏になろうとする場合、一切の善根を成仏のために用いなくてはならないから、そこに廻向ということが行なわれ、人間に生れる目的の五戒の善根を、仏果を得る目的に変更する必要が生じてくるのであります。

そして、また、廻向の種類については、その変更された目的から大きく分けて、

@    衆生廻向

A    菩提廻向

B    実際廻向

の三種廻向が説かれております。

この中で考えなければならないものは第一の衆生廻向であり、また仏道修業者にとっては第二の菩提廻向が大切なものとなるのであります。衆生廻向といいますのは、広い意味で解釈をいたしますと、自己の積んだ善根の功徳を他の衆生の善根に廻転することであります。他の衆生に廻向するのであるから、これを衆生廻向と名づけるのであります。

普通、自業自得と言いまして、善い事も悪い事も、自分の業は自分でその報いを受けるのが当然であります。自分の積んだ善根は、そのままにしておけば、当然その善根の結果は自分に報いてくるものであるのを、その目的を変更して他の衆生に功徳の結果を与えることを衆生廻向というのであります。

浄土真宗でいう如来廻向も、広い意味で如来も衆生の中に含めてみる場合には、如来廻向というのは、如来が自身の功徳となるべき善根を、他の衆生である私に与えてくださったのでありますから、衆生廻向の一種だとみてよろしいのであります。このように自己の善根の結果を他の衆生に与えることを衆生廻向と申すのであります。

次に菩提廻向というのは、菩提とは仏果のことでありますから、仏道修行者はいかなる善根も結局は仏果を得る因とするのでありますから、一切の善根の目的を仏果菩提に廻転することになり、これを菩提廻向というのであります。そこで、その善根の目的を変更さす力になるものは何かといいますと、それが願力であります。五戒は、そのままで置けば人間の果報を引くのでありますが、それを成仏の因にしたいという願心を発すと、その五戒が成仏の因となるのであります。阿弥陀如来の善根である名号が衆生往生の因となるのも如来の願心によるものであります。

浄土真宗では、如来廻向は説くが、衆生は不廻向だと申しますのは、如来には他の衆生に回向すべき善根もあり、衆生を救済しようとなさる願心もありますが、衆生には回向すべき善根が全く存在しないのであります。

『大経』には、

「かつて一善もなし。」

といわれており、一善も作ったことのない者が善根廻向ということはあり得ないことであります。だから浄土真宗では如来の廻向はあるが、衆生の廻向はあり得ないというのであります。このように、廻向とは、善根の目的を変えることでありますから、必ず善根がなくてはならないのであります。「願」の場合は善根がなくてもよいが、「廻向」の場合には必ず廻向すべき善根がなくてはならないといわれておるのであります。



『浄土論』と『正信偈』(仲野良俊先生のお話)

天親菩薩の『浄土論』の中で、お念仏を通して本願に出遇った時に、功徳が五つ現われるということを言われました。本願に遇うならば五つの功徳の中に入る。だからそれは門であるというような意味で五功徳門と仰しゃった。

まず最初が近門、それから二番目が大会衆門。ここに、

「必獲入大会衆数」

とありますが、これは大会衆門のことを仰しゃっているということが分かります。三番目が宅門、それから四番目が屋門。最後の五番目は園林遊戯地門。

このように念仏を通して本願に目覚めた人の上に功徳が現われてくる。その功徳に入るという意味で門。その門が五つあって、これを「五功徳門」という。これは天親菩薩自らがそう仰しゃったのです。

ところが、その近門は『正信偈』では略してあります。第二の大会衆門は、「必ず大会衆の数の中に入ることを獲。」と、ここに出てきます。これは恐らく近門をここへ含めてしまって、そして大会衆門を代表的にして、ここへ出しておられるのでしょう。次には、逆に屋門が宅門のところへ含めてある。最後の園林遊戯地門は独立しています。

だから、「帰入功徳大宝海」は五功徳門の全体ですけれども、「必獲入大会衆数」は近門と大会衆門。「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」は屋門と宅門、そして園林遊戯地門が「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」です。

一行ずつ、だいたい当てはめてあるのですが、近門を大会衆門に含め、屋門を宅門の中へ包んで、三門でこの五功徳門を表わされた。これがだいたい『正信偈』の趣旨です。



五念門と五功徳門(仲野良俊先生のお話)

この『浄土論』は、前半が『願生偈』という詩になっています。それから、後半は長行といいまして、『願生偈』について解釈をしておられるのです。前半の『願生偈』の方は浄土の荘厳について、後半の長行は、その浄土ができあがった基をおさえて示してある。その浄土がいかにしてできあがったかという、そういう問題を出しておられるわけです。

「浄土は五念門の行によってできあがった。」

ということがそこに書かれてあります。この行というのは、要するに修行ということです。法蔵菩薩が五念門の行を修行して、そしてそこに浄土ができあがった。五念門というのは、礼拝、讃嘆、作願、観察、回向の五つです。これに全部下へ門という字がつく。礼拝門、讃嘆門、作願門、観察門、回向門、それで五念門という。

ところが、修行ということには、必ずそこへ功徳がついてくる。五念門という五つの修行、その修行の結果は必ず功徳になりますから、この結果を五功徳門というのです。五念門の修行は因です。それから因の修行によってもたらされた結果が五功徳門。それが近門、大会衆門、宅門、屋門、それから園林遊戯地門。こういうふうに五つに表わしてあるのです。

礼拝門というものが成就すると近門が生れてくる。讃嘆門が成就すると大会衆門が生れてくる。作願門が成就して宅門が現われる。観察の門が成就すると、屋門が現われてくる。そして回向門が成就すれば、園林遊戯地門という功徳が出てくる。こういうわけで五念門行によって五功徳門というものが成就してくる。

この五念門の行は法蔵菩薩によって修行されたのですけれども、その結果であるところの功徳は衆生に与える。だから南無阿弥陀仏は五念門を通して成就しておる。南無阿弥陀仏が五念門を通して成就しましたから、我々が念仏をいただけば、五念門の功徳の全体が私たちの上にはたらいてくる。こういうのが親鸞聖人のいただかれているお心です。それを、「功徳の大宝海」という。これは天親菩薩のお言葉です。

「功徳の大宝海に帰入すれば…」

これはお念仏をいただけばということ。お念仏というものがどうして成就したかというと、結局この法蔵菩薩の五念門の行を通して成就したのですから、従って、念仏をいただけば、いただいた人間の上にその結果としての功徳の全体が与えられてくる。こういうことであります。

そしてさらに、念仏をいただくということは、天親菩薩の言葉でいうならば、一心です。信心は一心を表わしてある。一心の功徳として、この五つの功徳が与えられてくる。念仏をいただいた、その一心のところに、法蔵菩薩の修行によって成就したところの五つの功徳全体が信心の行者に働いてくる。こういうことを『浄土論』で明らかにされておられるわけです。



五功徳門(仲野良俊先生のお話)

最初の近門というのは、読んで字の如く、何か浄土が近くなったというような意味です。浄土の功徳がその人のところに、だんだん働いてきている、

「浄土が身についてきた。」

と言ってもいいでしょう。浄土が私たちと関係してきた。お念仏をいただくことを通して、多少、浄土がその人を動かし、浄土がその人に関係してきた。そういう意味で「近い」というのです。多少浄土の功徳がその人を動かしてきておるということになってきたので、その状態を近門と言ってあるのです。

今までは愚痴を言いかけたら止まなかった。恨みごとを述べだしたら、なかなか止まなかった。そういう人が、愚痴を言いながら、ハッと、

「愚痴だな。」

ということに気がついてくるのが、これも一つの浄土の徳です。迷っておりながら、迷いを知らない人が、迷いながら、

「あっ、迷っているな。」

と、ハッと気がついてきた。これが近門です。浄土のない人には迷いであるということは分かりません。思い返しなどということは夢にもできない。そういうものです。どこまでもダァーッと行ってしまいます。多少、何かそういう浄土の功徳というものが、その人に働いてきて、愚痴をこぼしたり人を恨んだり、腹を立てたりしているその中に、

「愚痴だな。」

「要らんことだな。」

と気がついてくる。そこで、ホッとしてくるのです。迷いの知れたところだけで、人間というのは助かるのです。迷いの知れないところでは苦しんでいるのです。天井に穴が開いたようなものですから、明るさが出てくる。そういう状態を近門といってある。

大会衆門の場合はどうかというと、浄土には必ず浄土の聖衆といって、菩薩とか声聞とか、いわゆる仏法者がおられるわけです。浄土は誰もいない無人境ではない。そこには賑やかに仏法を讃嘆し、仏法を喜び、仏を中心に色々動いている人がいるわけです。そういう人の仲間入りができるというのが大会衆門。曇鸞大師は、これを『論註』に、念仏をいただくところ、すべての人々が、すべて兄弟であるというような表わし方で示してあります。

それから次に「蓮華蔵世界」ということが出てくる。蓮華というのは仏の証を表わすのです。証というものを象徴したのが蓮華であります。その蓮華の中に包まれているような世界が蓮華蔵世界ですが、これは仏の心の奥深いところにあるというわけです。仏の証の中にあるところの世界、こういうのを自内証という。仏の証の中にしまわれてあるような世界を蓮華蔵世界という。これが、実は本当の意味の涅槃の世界であり、仏の中にある世界が形をとって現われたのが浄土の荘厳なのです。形のない仏の証にしまわれてある形のない世界が、形をとってきたのが荘厳ということであります。それが屋門なのです。

だから『浄土論』では二十九種荘厳というのが出てまいります。それは形のある世界です。「蓮華蔵世界」というのは、本当の形のない世界。法性というのか、真如というのか、親鸞聖人は無上仏と言われる。これ以上の仏様はないというわけです。

「無上仏と申すは、形もなくまします。形のましまさぬゆえに自然とは申すなり。」

こう言っておられる。不可称、不可説、不可思議の仏を無上仏という。その形のない仏が形を取られたのが南無阿弥陀仏です。これは形がある。この本堂のご本尊も形があります。ご本尊の根本は何かと言えば、形のない仏、その形のない仏の世界を蓮華蔵世界という。私たちには、そういう世界に触れるということが非常に大事なことなのです。形に苦しみ、形に迷っている我々の救いは、形のないものに触れる以外にはない。我々は何でもものを実体化して、ギュッと、その形を握っている。現われた形は、形のないものが形だということを知らないものだから、その形が本当にあるにあるものだと、こう握って、それによって迷い悩み、苦しんでいる。そういう我々が、形のないものに触れるということ、形のないものにうなずけるということ。それが私たちが、実体化を破って、非常に広い世界、静かな世界、悩むことも苦しむことも必要のないような、そういう世界に触れる唯一の道なのです。これが分かることによってのみ、我々が何でも握って、掴んで、そして迷っている、その迷い心が本当に破れる。そして苦しみ悩みのない世界から離れていくことができるのです。これが宅門です。

五功徳門の前の四つ、近門、大会衆門、宅門、屋門を天親菩薩は「自利」と仰しゃっています。自利の門です。それから第五の園林遊戯地門は「利他」の門です。さらに、それを言い換えて、自利の方は念仏によって浄土へ入り、そこに浄土の功徳というものが与えられてくるということで、これを「入」と仰しゃる。これに対して第五門は「出」と言われた、これが念仏の功徳であるというふうに示しておられるのです。

「煩悩の林に遊ぶ。」

というと誤解がありそうです。林に遊ぶというと何やら、こう楽しんで、林を散歩でもするかのような受取り方も出てくるでしょうけれども、そうではありません。「遊」という字には、確かに遊ぶという意味もありますが、もう一つ、一生懸命にというような意味もあるのです。これを天親菩薩は園林遊戯地門と言われた。遊戯というと、えらく気楽な遊びのように思うのですけれども、そうではないのです。

例えば大人の遊戯というものは、何かふざけてやってみたり、割り合い不まじめな気分があることが多いのですけれども、それでも麻雀でもやっている時は存外一生懸命やっています。真剣にやっている。遊びだからといって、いい加減にはやっていません。子どもがよく隠れんぼをやっています。これもなかなか真剣です。そうヘラヘラ笑ってやってません。それはもう真剣な顔をして、一生懸命隠れています。そんなわけで遊戯ということは、冗談半分とか、ふざけているとか、そういう意味ではないのです。真剣にやるのが遊戯。遊ぶということにも真剣なという意味があるわけです。「遊」という字には、身を張るというような意味がある。煩悩の林というのは我々のいる場所です。そこへ身を投げ出して、そして仏の功徳というものを現わす。そういう功徳が念仏をいただいた人には与えられてくる。



獲と得(仲野良俊先生のお話)

天親菩薩の『浄土論』では、

「阿弥陀仏を讃歎したてまつりて、名義に随順し、如来の名を称し、如来の光明智相によって修行するをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得。」

と、ここに[得]という字が使ってあります。これは他の所も全部[得]になっているのです。

例えば近門でも、

「阿弥陀仏を礼拝したてまつりて、彼の国に生れんとするをもってのゆえに、安楽世界に生るることを得。」

と、[得]の字がある。第三の宅門もそうです。入第三門とは、

「一心専念にして作願して、彼に生れて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆえに蓮華蔵世界に入ることを得。」

と、やはり[得る]とあります。それから、こんどは第四門が、

「彼の妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修するをもってのゆえに、彼の所に至ることを得て種々の法味愛楽を受用す。」

と、これまた[得]です。

最後の出の第五門は、

「大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。」

と。ここには[得]はありません。これはもう、[得]というようなものではないのです。入第四入第四門までは浄土の功徳を得てくるという意味で[得]という字が使われてある。ところが、『正信偈』には、

「必ず大会衆の数に入ることを獲。」

と、[獲]という字になっています。もとは全部[得]という字です。世間では[獲]という字を[カク]と読みますけれども、仏教読みするとこれを[ギャク]と読むのです。信心獲得[しんじんぎゃくとく]といいます。親鸞聖人は、[獲]と[得]という字を意味によってちゃんと使い分けをしておられます。そういうところが親鸞聖人の厳密さなのです。天親菩薩では、入の第四までは、全部[得]という字を使っておられる。親鸞聖人はそれを、

「得至蓮華蔵世界」

では[得]を使い、

 「必獲入大会衆数」

では[獲]にしておられる。これはどういうことかというと、聖人は現在得たのを[獲]という字を使われる。未来に得るのを[得]といわれる。そういう使い分けがあるのです。蓮華蔵世界などというのは、これは全く仏の世界です。これは、我々が得るには間違いないけれども、これは未来において得るのです。だから、

「真如法性の身を証する。」

とあります。仏になるというのですから、そんなものは現在ではありません。得るに間違いはないけれども、それは現在ではない。現在は、そのことは確信として与えられているのです。間違いなく得られる。それを正定聚という。