平 清盛



平清盛が安芸守に任ぜられたのは29歳、
1146(久安2)年のことであった。その後、保元の乱での戦勝を手始めに家運の栄達、子孫の繁栄があり、ひとえに厳島神社の加護によるものと信ぜられ、帰依を深めていった。平家一門の厳島崇敬は数々の形をとったが、その最たるものが1164(長寛2)年の法華経一具の奉納である。一門の善福や武運に対する報恩を目的として、結縁者のそれぞれが法華経30巻に般若心経と阿弥陀経を加えて1品ずつ分担して書写する、いわゆる一品供養を行った。願文を加えて33巻としたのは、厳島本地の観世音菩薩の三十三応身にちなむためであって、世に言われる「平家納経」がこれである。

当時、一品経としての装飾崩は王朝貴族の間に盛行したが、先行する優品は完好の形では残されていない。繊細優美な装飾経の時代様式を語る上からも、平家納経の価値は特筆に価するものといえよう。
清盛は、1160(永暦1)年8月、宿願の厳島参詣を果たしたが、以来、記録の上からだけでも9回に及ぶ参詣を行っている。太政大臣辞任の直後から社殿の再興に力を注ぎ、これを包む海と山に美しく調和した壮麗な結構を具現させるに至った。海上守護の女神を祀る厳島は、荘厳に満ちた理想境と化した。平家一門は、その繁栄が厳島の加護によるものとひとえに信じたのである。


源 頼朝


伝源頼朝像
京都市・神護寺蔵、
絹本着色、縦139cm、横112cm、
鎌倉時代(12世紀後半)
『神護寺略記』によれば、仙洞院の条に、
「一仙洞院(奉安置後白河法皇)御影一幅、又内大臣重盛卿、右大臣頼朝卿、参議右兵衛督光能卿、左衛門佐業房朝臣影等在之、右京権大夫隆信朝臣一筆奉図之者也」
とあって、これら3幅の肖像画は今は失われてしまっている後白河法皇の御影、平業房(なりふさ)影とともに五幅一具として奉安されていたことが知られる。

後白河法皇は平安末から鎌倉初期において旧政権保持のために強力な政治力を発揮された方であった。藤原光能、平業房は院の加護臣であって、光の右派へ行け追悼の院宣を描き、業房は鹿ケ谷(ししがたに)の謀議に参加し、発覚の後も法皇に救われ、策動した人物である。重盛と頼朝とは、これら二人の人物とは立場を異にするが、鹿ケ谷の謀議が発覚し、清盛が法皇を鳥羽殿に幽閉した時に極力これをいさめたのは重盛であり、法皇も重盛が重病の時、ひそかに小松第を見舞ったことがあったし、頼朝との関係においてはお互いに利用しあった仲といってよいであろう。

即ち、これら一群の人物は後白河法皇を中心に、それぞれの立場において関係をもった人々であったわけである。しかし、これらの肖像がまさしく重盛であり、頼朝であり、光能であるかということについては確証があるわけではなく、特に4人が選ばれている意味は何であるのか明快な解答は出せないが、仙洞院は1188(文治4)年に建てられ、1190(建久1)年以来たびたび御幸があったので、ここに法皇の御影とともに関係深かった4人の肖像が納められるということはありうることであろう。
像はおのおの笏(しゃく)を持ち、剣を帯び束帯(そくたい)をつけた姿である。重盛と光能は右斜め向きに、頼朝は左斜め向きに座している。法皇の御影を中心にして、その左右に懸けられる計画であったのであろう。描写はきわめて写実的で丁寧であり、装束の地紋に至るまで細かに描かれている。人物の構図もピンと張った装束がしっかりとした安定感を生み、そしてそれが幾何学的な構成となって、見る者に生新さを与える。大和絵肖像画として最も完成された様式と技法を示している。

作者と伝えられる藤原隆信(1142〜1205)は似絵(にせえ)の名手として当代に聞こえた人。定家の同母兄弟で、和歌にも才があった。1173(承安3)年最勝光院内の女院御所に常盤光長が行幸図を描いた時、彼は参列の廷臣を描いたが、その容貌が個性的にあからさまに描き分けられていたため、当時の貴族の眉をひそめさせたと伝えられており、彼が写貌の技術に長じていたことが推察されるのである。この肖像画の作者を隆信とする確証はないが、年代的にも彼はすべての人物を描き得る立場にあったし、作風も鎌倉初期をくだらないものとすれば、古伝を一蹴し去ることもできない。隆信、もう少し含みを持たせればその付近の作と考えてよいものと思われる。



鴨 長明

『長明法師画像』(部分)
三重県・神宮文庫:室町時代。紙本着色。掛幅装。
61cm、横38cm

琵琶を脇に置いて座する長明出家後の姿。血色がよく、壮気の感じられる絵である。右上の色紙形に長明の『新古今和歌集』入集歌「秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただわれからの露の夕暮」が記されている。その点および長明の姿形は、伝土佐光秀の肖像と同一で、それの直接または間接の臨模(模写)かと思われる。これらと類似する伝土佐光茂のものもある。

なお、本図の作者と伝える土佐広周(ひろかね)は15世紀中ごろの土佐派の代表的絵師。朝廷、室町幕府に奉仕した。


長明の出自と『方丈記』
長明の出自は鴨社、ちなみにいうならば、当時、上賀茂社を指して「加茂」と書き、下社を指して「鴨」の字を当てて区別している。その鴨社の禰宜の家の出である。長明の父は鴨社の禰宜職で惣官の地位にあったから長明も禰宜職を望んでいた。しかし、一族の者との競望に敗れ、また晩年になっては摂社の一つ河合社禰宜職補任の期待も、やはり一族の者の反対で敗れ、ついに出家することになったという。50歳であった。所領や所職の競望、相論に敗れて出家遁世したりすることは、この頃は珍しいことではない。問題は、その8年後に長明が『方丈記』を書いたことである。定家や頼業は家業に携わりながら、例の一文をしたためたのであるから表面ではどう言おうとも、心の底には眼前の社会に対する関心があったように思う。もちろん『愚管抄』の作者ほどではない。しかし、長明の場合にはそうではなかった。家業を持たなくなった境遇で感じた世界の移り変わりは、そこから無常を感じたとしても、「猛き人ともついには滅びぬ」といった調子の、社会を念頭に置いた無常とはなるまい。長明のいうところの世の不思議だって、長明自身の筆を離れてみると、結構それなりに生々しい社会との関わりがあるように思えるのだが。

長明の生涯
鴨長明は1155(久寿2)年の誕生と推定される。平家が滅んだ1185(元暦2)年は31歳に当たる。彼は62歳まで生きた人物だから、保元、平治の乱から壇ノ浦に至る平家の時代は、その反省とぴったり重なることになる。
彼の父親は鴨長継。正禰宜惣官として下鴨社に君臨する人物であった。年も若く長明との年齢差もわずか16歳と考証されている。下鴨社は周知のように社格も高く莫大な資産を持っていた。そこを裁量する有為の父の子として長明は何一つ不足するところのない幼少年時代を送ったものと思われる。ところが、長明が18歳の時に父長継は病死し、長明の立場は一変した。
彼は後年『方丈記』の中に「父の祖母の家を継いだが、30歳を過ぎて間もなくその家を出た」と記しており、それは彼の結婚とその破局を示すものと思われるが、この出来事も父の死と無関係ではあるまい。明るい未来を思い描けなくなった長明は厭世的になり、時には、

「住みわびぬ/いざさは越えん/死出の山/さてだに親の/跡を踏むべく」(『鴨長明歌集』)

のような穏やかならぬ歌を人に見せることもあった。
二条院中宮の高松院(姝子・しゅし)が亡くなったのは1176(安元2)年、長明22歳の時のことである。政治的にはさしたる重大事ではないが、長明にとっては、父の死に次ぐ打撃であったはずである。彼はこの中宮の叙爵によって7歳の折りに従五位下に任ぜられており、当然院に対して何らかの恩顧を期待する一人だったと思われるからである。
傷心の長明がこの世に踏みとどまったのは和歌という生き甲斐を持ちえたためであろう。父の歌友と思しき勝命(しょうみょう)入道などの手ほどきもあって、長明の天分は徐々に開花した。20代までのその所産は家集『鴨長明衆』に伝わる。1182(寿永1)年成立の賀茂重保撰『月詣(つきもうで)集』には4首、その6年後の1188(文治4)年に奏覧かとされる勅撰集『千載和歌集』には1首採られ、歌合せなどへの出席の機会もあり。歌人長明の名は知られるようになっていくのである。
『千載和歌集』以後十数年、しばらく足跡をたどりえない歌人長明は、突然脚光を浴びる身となった。譲位した若き後鳥羽院が推進した和歌の黄金時代が始まったためである。この頃の歌壇には、俊成、定家の父子を中心とする御子左家関係の歌人群、九条家、六条藤家の名士たちの他に、院に見出されて才質を伸ばすことになった作者が何人か見える。長明もその一人である。
1200(正治2)年に院の下命行われた百首歌の試みは新古今時代の開幕を示す出来事とされるが、46歳になっていた長明は、その第2度の折の作者11人の中に入り、これを端緒として目覚しく活躍を始める。当時、新古今歌人たちは、それぞれの形で精進の成果を華々しく見せつつあり、それに伍して生きていくのは容易ではなかった。現に長明自身、後に『無名抄』の中でその頃の息詰るような思いを、

「この道は、はやはや期もなく、際もなきことになりにけりと、恐ろしくこそ覚えはべりしか」

と告白しているほどである。しかし、年を追って活気を強める歌壇の中で、長明は人に恥じぬ成果を見せ、その非凡さを証明するに至る。
1201(建仁1)年、院の熱意によって和歌所が250年ぶりに再興された。その構成員たる寄人(よりうど)11人が7月に選ばれ、翌8月に地下人(じげにん)の中から長明を含む3人が追認された。11月に勅撰集撰進の院宣が下り、院および寄人の中からよりすぐられた6人の選者、うち寂蓮は間もなく死去、を中核とする撰集の事業が始まった。和歌と頃における長明の精進振りは人目にも際立つものだったようである。開闔(事務主任)として寄人たちを目の当たりに見ていた源家長は、その頃の長明について、回想録の中に、「まかりいづることもなく、夜昼、奉公怠らず」と記している。父や高松院の死以来、出世の糸口を持たない長明は長く有位無官で、奉公などという行為はなじみの薄いものであった。それだけに彼は新鮮な昂揚と緊張で、献身的な日々を生きたようである。
しかし、長明の人生は間もなく再び暗転する。最終段階を迎えた撰集事業をよそに彼は姿を消し、山里の住人となった。そのきっかけは、皮肉なことに長明の精勤ぶりと、それに対する後鳥羽院の好意がもたらしたものである。
たまたまその頃、下鴨社の摂社に当たる河合社(糺社)の禰宜に欠員が生じた。この地位は下鴨社の惣官となる者が必ず経由するものであり、長明の父もかつてこれを務めたことがある。若き日の前記和歌に明らかなように、「親の跡」を踏むことに固執していた長明には格別深い意義があったわけである。それをどの程度おもんぱかってかははっきりしないが、後鳥羽院は、長明をその禰宜にしようとし、その内意を漏れ聞いた長明は感涙した。
ところが、当時の下鴨社惣官輔兼は我が子祐頼を押し、長明の希望をくじいた。祐頼に対して長明ははるかに年長だが、神官としての実績に乏しく、位階も劣っていた。輔頼は従五位以上。長明が頼るのは、自らの熱意と院の厚情だけであったが、祐兼の年来の貢献もあって、院は彼をないがしろにすることはできない。やむを得ず、院は祐兼の言葉を容れ、長明のために一つの氏社を官社に昇格させて、その禰宜職を用意したが、長明はそれに甘んじることなく姿を消し、間もなく出家した。世捨て人としての出発は遅く、しかも他動的であり、動機は不純と評されよう。そのことは長明の明晰さからして自ら意識しないはずはなく、彼は懸命に自己を浄化する道を模索したことであろう。『方丈記』など、晩年の所産はそれを裏付けるものである。
長明の法名は蓮胤(れんいん)。ただし、一般には長明(ながあきら)をそのまま音読して長明(ちょうめい)入道と称されている。出家の時期は1204(元久1)年、50歳の時と推定される。その翌年成立の『新古今和歌集』に、彼の詠歌10首が入選した。
長明はやがて大原に隠棲。5年後に転じて洛南の日野に移った。これに前後して、和歌所での知己、『新古今和歌集』の選者の一人、飛鳥井雅経は、彼を東国の将軍源実朝と会見させるべく斡旋の労をとった。それが実を結んだのは1211(建暦1)年11月のことである。長明は雅経に帯同して鎌倉に下向、実朝と再三にわたって対面した。この旅の意義や目的はあいまいであるが、長明は実朝の和歌、あるいは音楽の師範の座を期待したものかと臆測するのが一般である。ともかく、格別の結果もなく、長明は日野の草案に戻り、翌年の晩春、『方丈記』を書くのである。
長明の晩年は実に多産である。『方丈記』に前後して歌論『無名抄』と仏教説話集『発心集』がある。その前者には歌人としての精進や青春期への回想が、後者には様々な人々の事跡をめぐりつつ行われた自己省察や試行錯誤の跡が示されており、『方丈記』の世界の奥行きを見せてくれる。草庵生活者としての長明の充実振りは多分に美化されているかもしれないが、『方丈記』の中に鮮やかに映し取られている。自然美に包まれた方丈の庵の内外で求道と趣味に生きた彼の姿を行間から遠望する時、多少とも過去の長明を知るものは、世を捨ててからの彼の再生振りに目を見張らざるを得ないであろう。
『方丈記』以後の長明が、なおどのような生き方を続けたかを伝える資料に乏しいが、彼の死が1216(建保4)年閏6月であることは、彼の知友の禅寂の『月講式』の奥書によって確かめられる。享年62歳、残念ながら終焉の様は不明である。




兼好は1283(弘安6)年頃に生まれたとされるから、世代的には鴨長明の約百数十年後輩ということになる。
長明の死から兼好の誕生までの間には、承久の乱による公武の力関係の決定的変化があり文永、弘安の役による東国政権の危機が始まるなど、時代の変質、転換は進んでいた。長明がかすかに見た横超きは加速度的に遠ざかり、南北朝の動乱期は目前に迫っている。そうして時代的条件の差は、個性による二人の生き方の差をなお大きなものにするはずである。



吉田兼好

『兼好法師画像』狩野探幽筆(部分)江戸時代。絹本着色。縦81.8p。横26.5p。神奈川県金沢文庫

書見台を前に頭巾をかぶり脇息(きょうそく)に寄る兼好。彼の強固な意志と明徹な見識が感じられる絵である。


兼好の生涯
兼好は卜部氏の生まれで、父は治部少輔兼顕(じぶのしょうかねあき)、兄弟に大僧正慈遍、民部大輔兼雄(みんぶたゆうかねお)がいる。卜部氏は洛東に今もある吉田神社を預かる神職の家であり、その点で鴨長明と兼好は出自が似るが、兼好の家は祖父兼名の代から分家しており、吉田神社との直接の関わりはなく、中流貴族官僚として生きる慣わしとなっていたようである。したがって、吉田兼好という通称は彼の生前にはなかったものと考えられている。
兼好は成人後、祖父以来、彼の家が帰属していたと思しき久我(こが)家に仕え、堀川内大臣具守(とももり)の諸大夫(しょだいぶ)となり、19歳の時にはったばかりの後二条朝に位蔵人(くらうど)として出仕した。新帝の母は具守の息女の基子(西華門院)であり、したがって兼好の主人は帝の外戚に当たる。兼好の位置は時代の主流の一端ということになる。しかし、皇統が2つに分裂、対立する時代、貴族社会は力関係において不安定を極め、しかも鎌倉幕府の掣肘下(せいちゅうか)にあった。誰もが予断を許さない日常を送っており、それは兼好の場合も例外ではなかった。
蔵人としての6年の任期を大過なく終えた彼は、25歳の時には従五位下左兵衛の佐となり、まず順調な人生のようであったが、その翌年、後二条帝は24歳の若さで崩御し、兼好の環境は一変した。次帝は花園帝、皇位は大覚寺統から持明院統に移った。この代替わりは兼好の遁世と無関係ではなかろうが、兼好を動かした要因を内発的なものに求めるのが一般である。後年の『徒然草』の随所に見える世事万般への関心、それと裏腹に示される出離への意志などをみると、俗と超俗との間にたたずむ20代の兼好の内面の葛藤は、さぞかし深刻、かつ強烈なものだったろうと空想される。その空想をたすける和歌が『兼好歌集』の中にいくつかあり、世捨てへの衝動に耐えつつたゆたう兼好の若き日々を伝える。
兼好の出家がいつ、どのように実行されたか分からない。しかし、遅くも1313(正和2)年9月、兼好の推定年齢31歳にはすでに「卜部兼好(うらへかねよし)」ならぬ「兼好御房」と呼ばれていたこと、沙弥の身、即ち、剃髪はしても特定の寺院に属さず、自由な隠遁生活を送る者であったことが、大徳寺所蔵の関係文書によって確かめられる。
彼がまず隠棲したのは洛北小野、修学院あたりだったことが『兼好家集』所収歌からうかがえる。比叡山西麓、古来多くの隠遁者が迎えられた山里である。後には比叡山北部の修行地横川で過ごしたこともあったらしい。
歌人・兼好の活躍は隠遁生活をかなり続けてから、40歳前後のことである。当時の歌壇は、それを支配する御子左家が分裂し、二条、京極、冷泉の3派が鼎立(ていりつ)して政界の対立、緊張と不可分の形で覇を争っていた。兼好が属したのは二条派で、ついた師は為世(ためよ)、為氏の子、定家のひ孫に当たり、兼好より31歳年長であった。持明院統と共生関係にあった京極派に対し、二条派は大覚寺統と関わりが深かった。1318(文保2)年、花園帝から後醍醐帝に代わった。それは二条派にとって一陽来復の時が巡ってきたことを示す。間もなく為世に勅撰集撰進の勅宣が下り、1320(元応2)年にはそれが『続千載和歌集』となって実現する。兼好はその中に1首入集した。彼は為世門下の草庵歌人の代表を称するらしい和歌四天王の一人とされるが、他の3人のうち、頓阿と浄弁もこの和歌集初出で、いわば勅撰歌人として同期生ということになる。もう一人の慶運は、遅れて『風雅集』に初めて入集する。
40代以後の兼好は、次第に乱世の相を深める時代で、歌人として意欲的になる。旧主の縁につながる東宮邦良(くになが)親王関係の上流の歌合、歌会の中などに彼の動向がたどられ、また、1324(正中1)年には為世から『古今和歌集』関係の家説を伝授されるなどは、その頃の歌人兼好の精進を伝えるものである。
『徒然草』を仮に視野の外に置いても、兼好が隠遁を徹底させる方向に向かわなかったことは、他の伝記資料から確かめられる。元弘の乱後の新時代、政権を取って都に君臨するようになった将軍足利尊氏ら東国武士との関連も知られ、従来親しんできた上流知識人僧俗とも交流を深め、兼好はいよいよ多彩な交友圏を持って生きていった。1316(正和5)年1月下旬に旧主具守が没した時にはその葬儀に列し、翌年には故人を共に知る延政門院一条と歌を交わして哀傷の思いを披瀝するなど、兼好はかつての人脈を温存しつつ求道生活を続けたのである。また。世捨人たちの多くがそうしたように、地方に旅立つこともあった。東海道や木曽路をたどったことが彼の歌から垣間見られるが、その旅の終着地は東国である。兼好の東国通ぶりは『徒然草』にも顕著だが、『兼好家集』の中で、彼は武蔵野金沢(かねさわ)を「ふるさと」と呼び、その地にしばらく在住したことを示している。近代の伝記研究が明らかにしつつあるところに依れば、兼好の東国下向は20代の在俗時にもあり、こうした事実は、もともと父祖以来の東国との関わりによるものである。ことによると、幼少期の兼好は金沢あたりで過ごしたのではないかとする説さえあるほどである。その説の当否は不明にせよ、今も金沢文庫に残る兼好自筆書簡などの文書群は、彼における東国の意義を断片的ではあるが如実に示している。
例えば、『太平記』に紹介された艶書代筆事件なるものがあって、彼は東国人の粗野を極端な形で見せていた武将高師直(こうのもろなお)に頼まれて、恋文をものして不首尾に終わったという。細部に虚構が含まれようが、大筋はその頃の彼をよく反映するものと思われる。その彼と『徒然草』から思い描かれる閑雅な草庵の主人という印象はそぐわないものがあるが、そのいずれも兼好の一面なのであろう。
兼好の死については茫漠としている。1357(正平7)年8月、70歳に達していたと思しき兼好の存命を示す資料『後普光園院殿御百首』があるが、それ以後のことは分からない。あるいは地方で死に、そのために彼の消息が分からないのかも知れず、現に彼の終焉の地は伊賀とも木曾とも言われているが、共に不確かな伝承に過ぎない。また、知己たちの目に触れた形跡のない『徒然草』がどのように世に残り得たのかも、伝承はあるが実証可能な事実は知られない。社交的であり続けた兼好も、いかにも隠遁者にふさわしく、最後はひっそり死に、ひとまずどこかで埋もれたのであろうか。
今日知りえる『徒然草』の最初の読者は、100年後の歌僧正徹である。彼はこれを古典として仰いで書写し、自著の中でも絶賛した。以後一部の教養人は『徒然草』を愛読したが、それが広く一般化するのは近世のことに属する。