![]() 日本おいては、祖師、高僧の肖像画は古くから写実性が重んじられていたのに対して、俗人の肖像画は写実性よりも一定の形式を重んじた描画に過ぎないと言われる。例えば、絵巻物において引目鉤鼻(ひきめかぎばな)に描かれている人々は貴族であることを示すものであって、顔面の表現は定型化してしまっているのに対して、その周辺に描かれている登場人物の顔は色々であって、写実性に近いものを感じさせる。神護寺所蔵の『源頼朝画像』や『平重盛肖像画』でも、引目鉤鼻に近い描き方がされているのは対看写照に由来するものではなく、貴族であることを示すための表現であったのである。 |
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法然上人肖像画(京都府・二尊院蔵) 鎌倉時代(絹本着色 掛幅装、縦103.5cm、横78.0cm) 法然(1133〜1212)の画像として最も古く在世中の制作と推定されている。 一名、『足引きの御影』といわれる。『二尊院縁起』によれば、入俗後に片足をあらわに出して一休みしていた法然を、九条兼実の命を受けた詫間法眼が物陰から写生したもの。 兼実は、この肖像画を持仏堂に掛け、法然に頼んで開眼供養をしてもらおうとしたところ、自分の姿を恥じた法然が祈念をこらすと、画像の中の法然はたちまち足を引っ込めて普通の姿に戻ったという。 |
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親鸞肖像画(京都府・西本願寺蔵) 鎌倉時代(紙本墨画 掛幅装、縦34.3cm、横33.0cm) 親鸞(1173〜1262)が出家したのは、後の青蓮院門跡の慈円のもとであったというから、青蓮院の里坊、洛東白川房であったろうといわれる。 1309(延慶2)年の内紛の際に御影堂の親鸞木像が破壊されたが、この時、像内から専阿弥陀仏が描いた親鸞の素画が発見された。それが『鏡の御影』と呼ばれるこの画像である。 専阿弥陀仏は似絵(にせえ)の名手、藤原信実の子。親鸞と同時代である。もとは親鸞自筆の賛があったというが、今はこれを塗りつぶして別の賛が書いてある。 |
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一遍上人立像(愛媛県・宝厳寺) 室町時代(木造彩色、像高114.2cm) 頸(くび)の衲衣(のうえ)袈裟に、1475(文明7)年11月19日の命がある。 遊行している一遍の姿を彫ったものである。一遍の画像も室町時代以前のものはないが、藤沢市の清浄光寺にある画像や『一遍上人伝絵』の中に出てくる上人の姿などと比べてみると、しゃくれた顎や面長な顔、裸足に衲衣を膝あたりまでたくし上げた様子は、すべてに共通している。後世、彼の教えを時宗(衆)と呼ぶのは「臨命終時衆」の意味で、毎日の行いが臨終の時であると理解し、念仏を怠らない人々を指すものである。 時宗の開祖一遍は、その出家について『一遍上人語録』に、次のように語っている。「またいわく、念仏の機に三機あり。上根は妻子を帯して家にありながら、著せずして往生す。中根は妻子を捨てるといえども、住処と衣食とを帯して、著せずして往生す。下根は、万事を捨離して往生す。」念仏者の素質に上中下の三クラスがある。もっとも素晴らしい人は、妻子を持ち家にいて、しかも執着しないで往生す。次のクラスは、妻子は捨てるが、衣食住を持って執着しないで往生す。最低のクラスは、全てを捨てて往生する。上は親鸞、中は法然、そして下は一遍自身だという。(ひろさちや) |
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栄西禅師坐像(神奈川県・寿福寺) 鎌倉時代(木造彩色、像高90.5cm) 栄西(1141〜1215)は、鎌倉の寿福寺、京都の建仁寺の開山として有名である。ともに鎌倉幕府の将軍家の本願によって建立された寺院である。このため、鎌倉武士たちが禅宗に早くから帰依したように受け取られがちだが、むしろ、彼は天台宗の密教のうちの葉上流を伝える僧侶として将軍家の尊崇を集めていたものらしい。 この古い木像では天台僧だったかとも言われる栄西が、威儀正しく禅僧の姿をとっている点で注目される。角ばった周囲と頂の平らな形の頭部は栄西頭(あたま)として有名。 |
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道元禅師画像(福井県・宝慶寺) 道元(1200〜1253)の画像はすべて死後に描かれたものだといわれるが、本図はそのうちで最も最古のもの。 上覧には道元50歳の時に自ら作った賛が、永平寺中興の祖・義雲(1253〜1333)の筆とも推定される文字で書き込まれている。その中に「天井をうかがいみるに晧月浮かぶ」の句があるため『月見の像』または『観月画像』と呼ばれている。 |
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日蓮上人画像(千葉県・浄光院) 鎌倉時代(絹本着色 掛幅装、縦64.0cm、横38.0cm) 一名『水鏡の御影』と呼ばれている画像。日蓮(1222〜1282)の画像としては一番有名であり、壮年時代の日蓮を描いたものと信じられている。右上部には赤白に塗った色紙形の地に賛があるが剥離した部分が多く読み取れない。天台宗僧侶としての正装である。 |