六角堂の夢告

親鸞は若き日、比叡山の堂僧を勤めていた。しかし、彼は29歳の時、生死の迷いを断ち切ろうとして、比叡山を降りて京都の六角堂に百日の参籠をした。比叡山における20年間の修行は、結局、彼の悩みを解決してくれなかったのである。その六角堂の参籠の95日目の暁に、親鸞は夢で救世観音のお告げを得た。六角堂は、聖徳太子の創建になるお寺であり、したがって、この救世観音の夢告は、同時に聖徳太子の示現であった。その夢告は、
「行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽。」
であった。〈行者〉とは仏道修行者である。学者の多くは、これを親鸞その人への救世観音の呼びかけだとする。即ち〈そなた〉の意味に受け取っている。しかし、私は、これを〈仏道修行者一般〉だと解釈したい。〈宿報〉とは過去からの制約条件である。仏道修行者は、それぞれ過去に制約されている。だから日本の仏道修行者は印度や中国の人たちとは同じ条件では修行ができない。そこで、
「日本の仏道修行者が、もし女犯、即ち妻帯の道を行こうとするのであれば、私、救世観音が玉女の身になって妻となろう。そして一生の間、伴侶となって臨終に際しては極楽に導いてあげよう。」
そういった夢告である。時に、建仁元年(1201)4月5日であった。
この夢告によって、親鸞は、当時吉水にいた法然に入門する。そして自力の聖道門の仏教を捨てて、法然の教える他力の浄土門の仏教に回心したのであった。親鸞は後に結婚している。親鸞が、いつ結婚したかについては諸説があるが、ともあれ、親鸞に恵信尼という妻がいたことは確実である。救世観音の夢告によって結婚した親鸞であるから、親鸞が妻の恵信尼を観音様の化身と信じていたことは間違いない。そして、その妻の恵信尼も、親鸞を終生、観音様の化身と信じ続けていたのであった。夫は妻を観音の化身と信じ、妻は夫を観音の化身と信ずる。そういう生き方のうちに、日本仏教のあり方があると考えている。(ひろさちや)