延暦寺側の要請に基づいて書き上げられた交名状には、逮捕すべき専修念仏者として45人の名を挙げているが、『法水分流記』では、法然の教えを受けた人として22名の門弟を挙げている。また『七箇条制誡』を収載する書物で古いのは1257(康元 2)年に成立の『西方指南抄』であるが、これには信空以下22人を書き、最後に、「以上二百余人連署」とあること、「二尊院の原本をよく見ると、最後の向西の直後で料紙が断裁されているから、元はなお一紙が続き、10余人の署名が載せられていたように推察される」とし、200余人以上の門弟がいたとしている。署名者の、「中にグループの代表としての署名者があったとすると、法然の言う門葉はこの何倍かになろう」とも指摘している。
延暦寺側から指名手配された者の中には、指導者と目された隆寛、空阿弥陀仏、幸西、證空も含まれていた。證空は交名状中に自分の名を見出すと直ちに釈明運動に乗り出し、誓状を書いて公家に救いを求めた。
かつて慈円の臨終の善知識を勤めたことが功を奏して処分を免れたものの、他の多くの人たちは処分を受け、洛中洛外にあった専修念仏者のすべての草庵は破壊され、隆寛は陸奥国、空阿弥陀仏は薩摩国、幸西は壱岐国に配流と決まった。この年は聖人が配流されてから20年目に当たっていた。
法然聖人の弟子として、念仏談義僧住信は1257(正嘉1)年7月、常陸国で集記した『私聚百因縁集』に、一念義の祖成覚房幸西、鎮西義の祖聖光房弁長、多念義の祖隆寛、西山義の祖善慧房證空、諸行本願義の覚明房長西の5人を挙げている。
また日蓮は1260(文応1)年に書写した『一代五時図』に、隆寛、善慧、聖光、覚明、成覚、法本(法本房行空)の6流を図示している。
また凝然は1311(応長1)年撰述の『浄土法門源流章』において、幸西、隆寛、證空、聖光、信空、行空、長西の7名を面受の弟子として示し、1378(永和
4)西山深草流の静見が編集した『法水分流記』には、白川門徒信空、嵯峨門徒湛空、紫野門徒源智、大谷門徒親鸞の四門徒と、多念義隆寛、鎮西義弁長、一念義幸西、九品寺義長西、西山義證空の五義を挙げている。
『私聚百因縁集』 | 一念義の祖成覚房幸西 鎮西義の祖聖光房弁長 多念義の祖隆寛 西山義の祖善慧房證空 諸行本願義の覚明房長西 |
『一代五時図』 | 成覚房幸西 聖光房弁長 隆寛 善慧房證空 覚明房長西 法本房行空 |
『浄土法門源流章』 | 成覚房幸西 聖光房弁長 隆寛 善慧房證空 覚明房長西 法本房行空 信空 |
『法水分流記』 | 一念義幸西 鎮西義弁長 多念義隆寛 西山義證空 九品寺義長西 白川門徒信空 嵯峨門徒湛空 紫野門徒源智 大谷門徒親鸞 |
(資料:浅井成海『浄土教入門』)
西山義・証空 | 証入 | 鎮西派・弁長 | 良忠 |
浄音 | 敬蓮社 | ||
証恵 | 教阿 | ||
円空 | / | ||
長楽寺義・隆寛 | 敬日 | 一念義・幸西 | 入真 |
圓満 | 明信 | ||
信瑞 | 勧信 | ||
智慶 | 了智 | ||
信楽 | 薩生 | ||
了圓 | / | ||
九品寺義・長西 | 証忍 | 嵯峨門徒・湛空 | / |
阿弥陀 | 紫野門徒・源智 | / | |
覚心 | 白川門徒・信空 | / | |
道教 | / | / | |
大谷門徒・親鸞 | 如信 | / | / |
善鸞 | / | / | |
性信 | / | / | |
真仏 | / | / | |
順信 | / | / | |
慶西 | / | / | |
善性 | / | / | |
唯円 | / | / | |
常念 | / | / | |
無為子 | / | / |
諸門流のうち聖光、證空、隆寛、幸西、長西は諸伝にその名が見えているが、行空は『一代五時図』と『浄土法門源流章』に、信空は『浄土法門源流章』と『法水分流記』に、湛空、源智、親鸞は『法水分流記』のみにその名を連ねている。
四門徒は白川、嵯峨、紫野、大谷といった地で、法然聖人の教えを体し、門徒と呼ばれる宗団を形成し、あくまでも信仰を中心とした活動をしたのに対し、五義は先習教学をもとに、時代と人々の要求に応じて形成された思想に主点をおいた宗団であった。
法然門下の人々 1
日蓮は『守護国家論』で法然の『選択本願念仏集』について批判し、法然の説教が「上国王より下土民に至るまで」及んでいると言っている。1204(元久元年、法然72歳)11月7日の『七箇条起請文』には190人の弟子が署名している。
また、奈良市興善寺所蔵の阿弥陀如来像胎内文書によると、弟子の正行房が阿弥陀仏の立像を造立しようとした時、その結縁者は1500余人に及んでいる。
また、滋賀県玉桂寺地蔵堂安置の三尺の阿弥陀像立像は胎内納入品によって、本立像は法然の高弟源智が、法然の一周忌を期して造像したものである。造像願文の末尾には、
「建暦2年12月24日 沙門源智敬白」
とある。1212(建暦2)年1月25日に法然は80歳の生涯を閉じたのであるから、この造像願文は法然死去の年の暮れのものである。しかして、この造像結縁者に5万人に近い名が見えている。法然の教えの広がりが大変なものであったことを思わせる。
しかも、これは源智一人でのことである。先の法然72歳における『七箇条起請文』には、源智を含めて190人の弟子がいた。一人の弟子がどれほどの人たちを抱えていたかは明らかでない。親鸞の弟子の場合、例えば大部の中太郎には少なくとも90余人の信者がいた。これから推して、仮に100人の信者がいたとして、190人の弟子で19000人になる。
これは法然72歳の段階での数である。死去の80歳の時までまだ8年ある。その間に弟子たちの数はさらに増加したに相違ない。死去の時点における源智の造像発願に5万人近い人たちが結縁助成したということは、その広がりの大であったことを思わせる。
元久2年より10年も前の頃から法然の京都を中心とし、京都近国、東海、北陸道から鎌倉、関東を経て奥羽にまでその教線が伸びていた。やがて九州まで伸長する。
日蓮が「上国王より、下土民に至るまで」及ぶと言ったのは、いかにも実感が出ていると言うべきだろう。(松野純孝)
法然門下の人々2
法然聖人門下の人たちは有力な門弟を中心に門徒という集団を形成していた。白河門徒、紫野門徒、嵯峨門徒等と呼ばれていたのがそれである。門徒とは同門とか一門ということで、一師の人格を中心に結合されたグループを指している。
法然聖人は念仏聖の一人であり、聖としての生活を送っていた。当時、聖たちは場所と行法を異にしていながらも固く結ばれた横の連絡を保っていたが、一つにつながる教義は持ち合わせていなかった。そこで一つの教義、特に阿弥陀仏を信じ念仏を称える人たちの組織体としての聖集団を作りたい、それには先ず指導者となる聖が必要であると考え、指導的立場に立つ聖の出現を望んでいた。そうした社会状況の中で、教義の体系化を企て、集団の統合を試みたのが法然聖人であった。
聖人自身、比叡山黒谷や西山広谷、あるいは嵯峨に居住したのは聖としての縁であり、ここで信空や遊蓮房、湛空、念仏房といった人たちを知った。こうした人たちに比べ、聖人の勝れてういたのは知識とカリスマ性を持ち、行に勝れ霊証を得ていたことである。これが機縁となり、念仏に心を傾けていた人たちは群れをなし党を結んでいたグループを引きつれ、聖人の参加に集まってきた。
平安時代に貴族間で用いられた、父子兄弟が名前に一字を共有する通字の慣行が僧侶の間でも見られた。僧界で言えば師弟、法兄弟ということになる。
『七箇条制誡』に署名した聖人門下の人たちを法諱の上から親子兄弟通字の慣行をもとに一応分けると、
1 | 空 | 源空 | 信空 | 証空 | 導空 | 綽空 |
念空 | 行空 | ・ | ・ | ・ | ||
2 | 源 | 源蓮 | 源智 | 源雲 | 源海 | 現也 |
3 | 西 | 西縁 | 西意 | 西住 | 西入 | 西観 |
西尊 | 西蓮 | 西源 | 西忍 | 西仏 | ||
西方 | ・ | ・ | ・ | ・ | ||
4 | 西 | 道西 | 寂西 | 尊西 | 行西 | 参西 |
証西 | 弁西 | 昌西 | 欣西 | 遵西 | ||
5 | 蓮 | 蓮恵 | 蓮慶 | 蓮定 | 蓮生 | 蓮仏 |
蓮智 | ・ | ・ | ・ | ・ | ||
6 | 蓮 | 聖蓮 | 親蓮 | 義蓮 | 安蓮 | 善蓮 |
実蓮 | ・ | ・ | ・ | ・ | ||
7 | 仏 | 見仏 | 尊仏 | 念仏 | 西仏 | ・ |
8 | 仏 | 仏心 | 仏真 | ・ | ・ | ・ |
9 | 阿弥陀仏 | 生阿弥陀仏 | 好阿弥陀仏 | 浄阿弥陀仏 | 徳阿弥陀仏 | 証阿弥陀仏 |
法阿弥陀仏 | ・ | ・ | ・ | ・ | ||
10 | 阿 | 大阿 | 西阿 | 惟阿 | ・ | ・ |
というようになる。
こうした法諱による分け方が当を得、一つのグループを形成していたとは限らないが、構成されている人たちの思想と行動から見た時、このように分けても差し支えないようである。
@の空とAの源は源空即ち法然聖人の直接教化を受けた弟子であろう。
Cの西は安楽房遵西または幸西、
Fの仏は大和入道見仏、
Hは阿弥陀仏号を持って世に知られた俊成房重言の流れを汲む人たち。
Iの阿は、阿字観をする真言密教系の僧だったとすれば、そのグループの指導者は傘下の僧や念仏宗を引き連れて聖人のもとに入ってきたのではあるまいか。
こうした異質のグループが念仏というスローガンのもとに集まってきた集団であったから、法然教団は師弟という関係によってのみ支えられていたのではなかった。あくまで行法を同じくし、志を共にするといった同法とか同行といった関係にあった念仏者の集団であった。(大橋俊雄)