妙好人 有福の善太郎さん







善太郎翁は天明2(1782)年の生まれである。
姓は嘉戸、父母は徳次郎とキヨ。下有福(現在浜田市下有福町)の農家で、そこから6キロ離れた千田(現在江津市跡市町千田)の浄光寺の門徒である。父徳次郎は波子(現在
江津市波子町)近くの神主の出身で、若いころ下有福に来たものらしい。翁は、その長男として生まれた。同じ有福の「下手」という農家の娘を嫁として迎えるまでは、恐らく貧しいながらも温かな一家であったと思われる。翁の素直な信仰と天衣無縫な文字は、寺子屋などに行ったこともなく、神主出の父から野良仕事の暇に手をとられて教えられた幼少時代をもったことによるものであろう。
しかし、若いころは相当な悪徒であったらしい。村の人から「毛虫の悪太郎」と嫌われていた。顔つきは肖像で見ると柔和そうに見えるが、伝えるところでは、「口はゆがみ、上下の唇は厚く、一見恐ろしそうな形相」であった。その唇が後年、モグモグ動いて静かに念仏の声が漏れるようになったとき、村の人々はその人柄の変化にびっくりした。しかし、翁が都野津(江津市都野津町)、下有福から6キロほど海岸に出ると、子どもたちは翁の顔を見て「有福の念仏ガニ」が通ると言ったという。
入信の動機は今となっては知るすべもないが、女の子、サト(2歳)、ルイ(2歳)、ノブ(3歳)、そめ(3歳)の4人が次々に早死したことからに違いない。気の強いこの人の上にも大きな不幸がきたのだ。当時、市木(現在瑞穂町市木)の浄泉寺に履善和上、邇摩郡の西田(現在温泉津町西田)には仰誓の高弟、瑞泉寺の自謙和上が、跡市の浄光寺には厚信の詳応師、当時光現寺には履善師に学んだ労謙師がおられた。この方々のよき教化によったものであろうか。
子どもがみな先立ったため、養子兵次郎(近重姓をもってくる)を跡市から、養女シマを姉金(現在浜田市国分町)の「釜ヶ屮家からもらって、家庭はきわめて円満であったらしい。孫の二人には自分が善松、キミと命名したほどであった。一時は貧乏であった家も、近隣の頼母子講(たのもしこう)や家族そろって百姓に励んだことなどから立ち直った。今、その家はひ孫に当たる松太郎氏が継いでいるが、かなり栄えている。
しかし、現在の家は翁が生まれた家ではない。元の家は同じ下有福の「上原田」家の近くにあって、莚(むしろ)3、4枚しかしけないあばら家であったのを、光現寺の鐘の音の聞こえるところへ出たいとの希望から、真向かいの現在の地に移ってきている。当寺から100メートルほど隔てた水田の向こうの小高い丘の上に7〜8軒の農家があり、その中の1軒がそれである。
善太郎さんは生涯のうち9度も京都の本願寺にお参りした。今から130〜140年前、この石見から上京することは「身命をかえりみず」というほどの苦労であったに違いない。しかも、『妙好人伝』には、道中、近いところにお寺があると必ず立ち寄っては礼拝したと伝えている。
安政2(1855)年、74歳の年にも、浄光寺の住職に同道して上京している。しかし、これが最後の参詣であった。その帰途、長旅の疲れが出たものであろうか、和田本郷(現在那賀郡旭町)で発病、しばらくその地の同行の家で療養して自宅に帰り、翌3(1856)年2月8日、幸福な中で静かな死を遂げた。75歳。
善太郎さんは家の人に向かってこう告げていた。
「自分が死んだなら、年頭にはご師匠寺と庄屋さんに挨拶に行け。そしてご師匠寺へは年始包み以外に、白米2升を御開山さまへお仏飯として持参せよ。」
と。現在に至るまで、その子孫はそれを忠実に守り続けている。翁の墓は、当寺の東へ100メートルほど行ったところ、森を背に白壁の塀をつけた小丘にある。近所の4戸の共同墓地の中で大きくひときわ目立ち「釋栄安」と深く刻み込まれたものが、その墓である。この特大の墓石も当寺境内にある頌徳碑と同じ大正2年、村民が追慕して建てたものである。私が当寺に入寺したのは大正11年であった。長い間無住で全くの荒れ寺であったが、境内に高さ3メートルの自然石の碑が建っていた。それを見ると、

妙好人善太郎碑

石見の国那賀郡有福村に妙好人あり。名づけて善太郎という。姓は近重氏。父は徳次郎、農をもって業となす。天明二年十月善太生まる。人となり仁慈篤実にして深く真宗に帰し、常に仏恩を慶ぶ。真に俗に奇特の行ない多し。載するに妙好人伝にあり。安政三年二月八日病没す。享年七十五、法諱を栄安という。村民その徳を追慕すること五十余年。ここに今茲十二月、あい謀って碑を光現寺に建つ。遥かに余に徴して銘せしむ。銘にいわく、

      信楽忘己 仏恩為家(信楽おのれを忘れ、仏恩を家となす)

仁慈愛物 徳香洵遐(仁慈物を愛し、徳香まことにはるかなり)

仏称讃言 分陀利華(仏称讃していわく、分陀利華なりと)

嗟乎善太 果其人耶(ああ善太、果たして、その人なるや)

明治四十四年歳次辛亥十二月 真宗勧学 文学博士 前田慧雲 撰并書



筆者は勧学、文学博士前田慧雲師。聞けば大正2年、前住職僧潭師と村民が翁の徳を追慕して建てたものという。
善太郎翁が亡くなられてから百十数年、跡をしのんで、いまも参詣者が絶えない。香煙立ちのぼり、花もいつしか立て替えられている。ことに春と秋、温泉客はここに足を伸ばし、墓前にぬかずき、帰途に当寺へ立ち寄ってこられる。

遺品は散在していたものを集めて、当寺に相当数保存しているが、その主なものは肩衣、念珠、巾着、本山下付のご印章、そして符牒のような文字の『御和讃』『御文章』『法語』などである。善太郎翁の字はなかなか読めない。誤字、当て字だらけで、時に独特の絵で文章をつないである。しかし、静かに一字一字を判読すれば『法語』の中に点出する「この善太郎は幸せもの」の言葉がそのまま受け取られて、ほのぼのとした宗教的感動に包まれた善太郎さんの念仏の声をじかにこの耳に聞く思いがする。

当光現寺では善太郎翁を追慕し、その喜びの跡をたどろうと、同信の方々とともに毎年『栄安講法要』(栄安は法名)をつとめている。昭和30年の百回忌法要に当たって、本山は善太郎さんの信徳を賞して院号「白蓮院」を追贈された。香り高き分陀利華、白蓮華が咲き続けたのである。



なお師匠寺に当たる跡市の浄光寺には、昭和41年5月、翁の墓地から旧墓石をもらい受け、本堂の傍らに移し、翁の絵像や遺品なども堂内に陳列して遺徳を顕彰しておられる。

          (以上、『妙好人 有福の善太郎』より抄出)




本文挿入写真『阿弥陀如来の・・・』全文

次の書も、『御文章』の一段を繰り返し繰り返し拝読してその心を聞き取り、善太郎的に再表現したもので、すでに善太郎さんの血や肉にまでなりきっている。

      
阿弥陀如来の 法蔵比丘でありしとき

善太郎 仏にならじは

われも仏にならじと誓いたまい

ついにはその願 成就したまいた証拠が
なむあみだぶつに正覚をとりなさりた

なむあみだぶつ なむあみだぶつ

             



『御文章』第4帖第8通

『阿弥陀如来の むかし法蔵比丘たりしとき 「衆生 仏にならずば われも正覚とらじ」と 誓いまします時 その正覚すでに成じたまいしすがたこそ いまの南無阿弥陀仏なりと心得べし』
                                  

善太郎さんは、この『御文章』の一段をよくよく案じたのであろう。そしてついに、「衆生仏にならずば……」ということばを、賜った本願の眼でもって「善太郎仏にならじは……」と読み破ってしまった。ここにいつまでも光を失わない“善太郎法語”が誕生したのである。「……われも仏になれない」と如来をして立ち上がらせたのはいったい誰であったのか。それを「よくよく重ねて重ねて御開山のご意見にとりつめてお聞かせに遇うてみれば」、誰でもない「この善太郎」であった。待ち人は「この善太郎」に他ならなかった。そのとき、「十方衆生よ」という本願の叫びが「汝、善太郎よ」という声となって、魂の耳に響きわたってきたのである。

                                (以上、『妙好人 有福の善太郎』より抄出)