文 | /高楠順次郎 |
絵 | /野生司香雪 |
編集 | /沼田 恵範 |
長い間願っていた釈尊絵伝が出来上がってこんなに嬉しいことはない。12枚全部完成してから発表したいと思ったのであるが、急いで7枚だけとりあえず複製することにした。
実は、武蔵野女子学院の鷹谷学長を通じて野生司香雪画伯に彩管をお願いしたのは大分以前のことである。もうかれこれ4、5年にもなろうか。しかし、画伯には他にも画債が数あり、かつはこの絵伝は画伯畢生の大望の作でもあったので、入念な彩筆を振るわれ、ためにこちらが勝手にあせっても無駄であった。その間、学長とともに信州渋温泉の画伯のアトリエをお尋ねして絵の進捗状況を見せていただいたり、また画伯の心境をお聞きしたりして、それとなく催促をしたことも数回であった。
昨年夏ようやく7枚だけ完成を告げたので、早速大塚巧藝社に依頼して複製してもらうことになった。巧藝社としては現代日本の最高の技術をもって色彩その他原画に忠実に複製してくださったのであるが、何といっても大きなサイズのものをその何分の一かに縮小したのであるから、多少原画と異なった感じの出るのはやむをえないことと思う。ここまで出来上がったことは何といっても同社の熱意のたまものである。この企画を行うに当たって御協力くださった野生司画伯、鷹谷学長並びに大塚巧藝社に対し、深く感謝の意を評するとともに、美しい詩を添えてくださった大木惇夫先生にも厚くお礼申し上げる。
この絵が、お寺や、学校や、工場や、また一般家庭などに揚げられ、若い人たちが多少でも仏教と縁を結ぶ仲立ちとなり、併せて、争いと憎しみのない人の世の実現に役立つことができれば幸いである。
昭和35年4月8日
願主 沼田恵範
インドの雪山(ヒマーラヤ)の南の麓にタライの森という森林がありますが、その近くに迦毘羅(カピラ)国という富裕の国がありました。此処には釈迦族という種族が住んでいました。
時の国王浄飯(ジョウボン)大王の妃は藍毘尼(ルンビニ)という本名を持っておられるのでありますが、普通は摩耶(マヤ)夫人と申しております。迦毘羅(カピラ)城の奥御殿の夏の涼しい夜、摩耶夫人は2人の侍女に葉団扇を持って双方からあおがれて、憩(やす)んでおられたのであります。ところが、夜深くになってにわかに驚かれた様子でありまして、ふと声をあげられました。
「どう致しましたか。」
とお尋ねしますと、そこで侍女が何事かと、お顔を拝すると、嫣然(にっこ)と笑っておられたのであります。
「今、六つの牙のある白い象が天から降って来て、そうして自分の胎内に入ったと思って一度は驚き、声をあげたような心持がしたのであるが、その後、何となく快く感じた。」
と、こういうお話でありました。
こときから摩耶夫人は懐妊の身となられたのであります。
ヒマラヤの雪の浄けさ
ゆたかなる
カピラの城の奥ふかく
眠る后の
ほほ笑める顔の安けさ
白き象
天よりくだり
ふしぎにもみ胎にはいると
夢にみてみごもりたまう
慶びの
きざしなりしよ
摩耶夫人の故郷は、隣国拘利(コウリヤ)城というものでありますが、その国境に近い所に離宮があって、それを今は藍毘尼園(ルンビニヴナ)と申しております。そこに産殿を設けて、重き身を養われることになりました。
インドでは昼と晩と2度沐浴をして、身を浄める風習があります。摩耶夫人も御苑の春深き4月8日の真昼近く、藍毘尼園の西南にあります蓮池に入って水浴をなさろうとされ、回廊を過ぎて、石段を下り、花と水と相映じて浄らかに澄みわたっている池の水に入って身体を浄めておられました。
そのうちにわかに産気づかれたのであります。これではならぬと、急いで北の方の産殿に帰ろうとして水から出られたのでありますが、北に向かって僅かに20歩許り行かれますと、もう一歩も動くことができない。
そこで、かたわらにあった、花の咲き乱れている無憂樹(アソーカ)に手をのばし、枝をつかまえられた時に、右の胸から太子が誕生せられたのであります。その時、そこに雌と雄の2匹の象が現れて、温かい水と冷たい水とを双方からそそいで、太子の身体を洗い浄めたのであります。すると、太子は突然立ち上がられて、静かに四方に向かって歩みを運ばれ、東へ7歩、南へ7歩、そうして西へも北へも7歩づつ歩まれ、更に真中に帰られて、右の手は天を指し左の手は地を指して、声高らかに、
「天上天下唯我独尊、三界皆苦我当安之」
を唱えられたというのであります。
月みちて
きさきの摩耶が
アソーカの花咲く枝に
手をのばし
ふれたまう時
たぐいなき
御子(みこ)生(あ)れましぬ
みどり児は
起(た)つとみるまに
天と地を指さしまして
高らかに唱えたまわく
「世に独り 我れぞ尊し」
長ずるにしたがって、深く世の無常を感ずるようになれた太子は、かねて、ひそかに出家の志をもつようになられました。しかし、世継ぎの皇子として、18歳の時、拘利国城主善覚王の女(むすめ)耶輪陀羅(ヤソダラ)姫を妃とせられたのであります。やがて皇子羅候羅(ラゴラ)が誕生せられるのでありますが、その王子の誕生を祝う大饗宴が宮中で行われることになりました。諸般の準備が整って当日になると、色々の催しが夜を日に継いで行われました。終始沈みがちな太子を中心として、宮女は大王の内意を受けて、我れ劣らじと歌い、舞い、天楽の音を湛えて太子を慰めるのであります。然るに、太子の心は一向にこれに惹かるる様子がない。しばらくすると太子は眠りに陥られた。それを見た宮女たちは張合いもなく、一同算を乱してこれも眠りについた。その寝乱れたるさまは天女の楽園もたちまちにして屍体と化したのであります。太子は眼醒めてこれらを見られ、折りもよしと、いよいよ出城の心を堅められ、好機逸すべからずと考えられ、御者車匿(しゃのく、チャンナ)に、
「白馬カンタカを牽(ひ)け。」
と仰せつけられました。その間に、太子は内宮にお帰りになって静かに妃の寝室に入られ、他所ながら永別の心を寄せられたのであります。その時妃は安らかに羅候羅を抱いて寝ておられました。太子は羅候羅を抱き上げて別れを惜しもうとせられたのでありますが、もし子の泣声に宮中が眼を醒ましたならば、永遠に出家の志は遂げられぬであろうと心を鬼にして、カンタカに跨って、石畳の宮門の路を避けて、後方の土塀を乗り越えて城下の市街に出られ、一目散に東方に向かって馳せ去られたのであります。都城の出口には大鉄門が構えられてある。その門をも安全に越えられて、そうして東の郊外に向かって去られました。これが太子19歳の7月の満月の夜であったということであります。
行く末は
王となる身の御子ながら
十九の夏に
無常なるうき世厭いて
去りたまう
カピラの城を
美わしき
女よさらば
王城の
栄華よさらば
やすらいの道を求めて
白馬を駆けさせたまう
城を出られてから、太子は道を求めて激しい苦行の生活に入られました。しかし、6年間の苦行によって、いたずらに肉体を苦しめることが悟りへの道ではないことを経験せられた太子は、ついにその苦行を捨て、苦行の座を立って尼連禅河の綺麗な水に入って身体を浄められました。すると、ほとんど絶食しておられたのであるから、気絶せんとせられた。ようやく木の枝につかまって堤に上がり、石の上に腰をかけておられた。そこを通りかかった村の地主の娘須闍多(スジャータ)のささげる乳の糜(かゆ)を食べられて、太子は気力を回復されたのであります。
やがて、太子は優留頻羅(ウルビーラ)村の迦耶(ガヤー)という小高いところに行かれ、菩提樹の樹下に吉祥草を敷いて、その上に自分の座をかまえられ、
「我れ悟りを開かずんばこの座を去らじ。」
と決心してお坐りになったのであります。
これは後に金剛宝座というのであります。
この有り様を見た魔王は、どうかして菩薩の成道を妨げようとして、色々な手段を用いても遂に菩薩の座を動かすことができず、魔王は苛立って、剣を抜いて宝座の前に擬して、
「汝はこの金剛宝座に値せざる者である。速やかにこの座を去れ。」
と威嚇したのですが、菩薩は静かに声を強めて、
「天上天下、この法座に値するものは唯我れ一人である。我れ悟りを開かずんばこの座を去らじ。」
と仰せられ、坐禅の手を解き、右の手を膝に垂れて、大地を指されたのであります。これは動かざること大地の如しという意味であったと思われます。
魔王のあらゆる妨害にも遂に打ち克った菩薩は、今観念の深みも次第に深まって、初夜に宿命(前世)を知るの明を得、中夜に天眼を得て一切を見るの明を得たまい、後夜には生の従って来るところ、死の趣く所、悉く因縁に基づくものなることを観じ、暁の明星輝く時、遂に大悟徹底して仏(覚者)となられました。仏はここで、
「我が生已に尽き、我が事已に成れり。」
との自覚に達せられたのであります。
長年の苦行の後に
我れ独り
悟りひらくと
菩提樹の陰に坐りて
動かざる
大地の如し
魔物らのいざないしをも
退けて
ついにうち克ち
あかつきの星出ずるとき
目覚めたる者とはなりぬ
仏陀はいよいよ説法の決心を定められて伽耶の御山を出られ、北に向かって歩みを進められ、やがて恒河の北にいたり、ベナレス市の郊外の鹿野苑に行かれますと、そこにはかつて自分の同行であった5人の仙人が修行していました。太子が堕落したというので、太子を捨てて此処に来ているのであります。五仙の方では堕落した太子に会う必要はない、会っても口を利くまいと互いに約束をして相誡めておりました。然るに、仏陀が五仙の住処に近づかれると、そのお姿が光顔巍々(ぎぎ)として犯し難く、安祥にして歩すといって、いかにも安らかに歩みを運ばれるのを見て、その神々しさにひかれて、五仙の長者たるB陳如(カウティンディヌヤ)が先ず頭を下げました。そして、
「友よ、ゴータマよ、その後どうしていたか。」
と話しかけました。ところが仏陀は毅然として、
「汝等は如来に向かって非礼の言葉を遣ってはならぬ。」
と仰せになったのであります。是の如くにして来るというのは、我れは大悟徹底して悟りの世界に入り、今その悟りの世界から出て来たものである。是の如くに悟って来た者に対し昔なじみの友だち扱いをして無礼をしてはならぬという意味であります。この時世尊は、
「汝等はまだ悟りを開かないか。」
とお尋ねになれば、
「悟りとは何か。」
と問わなくてはならぬ。こういう風で、段々に話が進んで遂に5人の仙人は「五群比丘」として、5人一緒に仏門に入って弟子となったのであります。それで、仏自身と仏の説かれた法と、仏の法を奉ずる僧(僧伽)との仏・宝・僧の三宝が成立したわけであります。その時の説法は、最もその要を得たものであり、
「世間には享楽の道があり、享楽の生活をしている者がある。また、苦行の道があり、宗教的に苦行の生活をしている者がある。享楽の生活も苦行の生活も、ともに極端の道である。かかる極端は共に迷いの道である。人の依るべき道でない。この迷いの両辺を超越して、自分の教うるところは中道理想の生活である。」
と説き出され、やがて四諦八正道の説教に至るのであります。これが鹿野苑の初転法輪というのであります。
今は早
御子は御仏
五人の聖者に啓す
永遠の救いの道よ
かんばせは
光となりぬ
苦も楽も
迷いの道ぞ
依るべきは中の道のみ
五人の聖者は
なべて額づきぬ
弟子とはなりぬ
仏陀は成道後約50年、インドの各地をめぐり布教伝道を続けて来られました。御年は80歳でありました。その80歳の冬の11月の半ばの頃、再び足を北方に向けて王舎城を出発せられ、型の如く恒河を渡り、布教しながら北に進まれたのであります。やがて吠舎離を過ぎ、更に北に向かって説教しながら進まれたのであります。
2ヵ月後、即ち翌年の正月に北方の波婆城というところまでお着きになりました。此処に淳陀(チュンダ)という銀細工師がおりましたが、仏陀が城内に御来遊になって、マンゴーの林に滞在しておられることを聞き、お招きしたいと申し出ました。そうして、世尊の一行のために特別のご馳走をして供養を申し上げました。その時に差し上げたものは「野猪の珍味」という栴檀の木に生える菌類でありました。世尊はそれを享けて、仰せられるには、
「これは如来の胃のみが消化し得るものであるから、他の比丘には与えてはならぬ。」
と仰せられたのであります。しかし、それを食せられた世尊自身も遂にこの珍味のために病になられたのでありました。やがて阿難の勧めにより、後に引き返して拘戸那迦羅城に向かわれました。そして拘戸那迦羅城の沙羅という樹の林に入られて、2本並び立っているいわゆる沙羅双樹の間に自分の寝床を作らしめて、頭を北に、面を西に、右の脇を下にして、足と足とを重ねて、恰も獅子が寝ているが如くに安臥せられたのであります。
そこで善賢という老人がやってきて、仏在世の中に仏弟子の一人となりたいとの願いを申し出たのを世尊は聞き入られて、善賢を呼び、最後の得度をお許しになり、その時同時に集まり来たった弟子たちに対して丁寧に教誨をなされたのであります。
「我が滅後に於て師の教なきを悲しんではならぬ。我が説き置きし法戒は以て汝等の師とせよ。汝等もし輾転としてこれを行ぜば法身常に世に住すと謂うべきである。」
と遺教した。その全部を終わられた時、世尊は一層力を籠めて、
「我れ、今、汝等に告ぐ、諸行は無常なり。努力して大成せよ。」
と仰せられた。これが世尊からこの世で聞きえた最後の御声であったのであります。
今まのあたり世尊の涅槃に接し、人天ともに号泣し、遺弟は皆挙措を失っていかんともすることができなかったと伝えられ、太陽は地に堕ち、雪山が逆さまになったような感じがあったといわれています。そして沙羅双樹の花も、時ならざるに白く咲き充ちて悲しみを表したということであります。かくて、御年80歳の2月15日の夜半、仏陀はなすべきすべてのことをなし終え、静かに涅槃にお入りになったのであります。
ああ涅槃
おごそかなりき
告げませり今はの際に
在らずとも我れは在るなり
指し示す法のまにまに
沙羅双樹
花をして手向け
ヒマラヤも
崩れんばかり
歎かいは地に充ちけれど
安らかなる寝姿なりき