京城あかつきの会刊
絵 |
/東洋聖画の最高権威 | 野生司香雪 先生 |
文 | /京城帝国大学教授 | 白井成充 先生 |
推薦 | /朝鮮総督府学務局 | 鳩山一郎 閣下 |
下村寿一 閣下 | ||
芝田徹心 閣下 |
京城あかつきの会
前文部政務次官 衆議院議員 安藤正純
現代の吾等が、遠大の理想と、甚深の注意とをもって深く考慮を廻らすべきは、実に我が国民教育の上に懸かっている。今や内外の状勢は一日も苟安を容さず、速やかに之が改善を要すべき岐路に立っているといわねばならぬ。而してその最も喫緊に属することは、国民教育の根柢に敬虔中正なる信念を啓培し、以て堅忍不動の精神を確立し、悠久なる国運の進展に資するにあると信ずる。京城あかつきの会編纂にかかる「ひじりのみあと」はこの意味において最も適切にして且つ貴重なる教授資料であり、また実に吾人の久しく待望して已まなかった所の唯一の教育聖画である。幸いに教育家諸氏が、広く之を活用して国民徳化の実を揚げられんことを切望するものである。
印度の国カピラ城の郊外にルンビニ園という離宮がありました。園には蓮池があって、白い蓮や青い蓮が時を得顔に咲き満ちている。花の間には美しい白鳥が三つ二つうちつれて、楽しげに浮かんでいる。丘には無憂樹(アソカ)の花が枝もたわわに咲き匂うて、豊かな花房をたれている。樹間を飛びかうインコの声もほがらかに聞こえてくる。このうららかな内苑(おにわ)を美しい侍女(じじょ)たちにかしづかれ、もの静かに歩みこられる貴婦人があります。これぞカピラ城主浄飯(じょうぼん)大王の妃摩耶(マーヤ)夫人であって、王子さまのお誕生も間近にせまっている重きおん身を、この離宮に養いたまうのでありました。
さて、うららかな花の春も今たけなわなる4月8日のことでありました。吹く風も和やかな真昼方、このルンビニの花園に、不思議な光が大きな虹のようにかがやいて、何ともいえぬ香が遠くまで流れてくるのでした。おりしも雪山(せっせん:ヒマラーヤ山)にあって閑寂(しずか)な瞑想の生活にふけっていたアシタ仙人は、たまたまこの奇瑞(めでたきしるし)に驚いて、
「これはきっと聖太子がお生まれなされたのであろう。」
といって、仙弟ナラダを伴い、はるばる王宮に訪ねてまいりました。果たして太子悉達多(シッダルタ)さまがお誕生になったのでありました。
仙人は仰ぐもかがやかしいような太子さまの聖相(尊いお姿)を見て涙に沈むのでした。そして王さまに申し上げるには、
「太子さまは王位にお即(つ)きになれば理想の聖王となって全世界を治めたまうでありましょう。しかし太子はきっと出家なされて仏陀(ほとけ)となり、あまねく人類をさとりの道にお導きくださるでありましょう。」
「それにまた、どうしてそなたは涙に沈むのか。」
とのお言葉に対し、
「私は年老いて、このみ仏の尊い教えを聞くまでながらえることができません。それを悲しむのでございます。」
とお答えしたということであります。
この太子さまがアシタ仙人の予言の通り、後に、人の世の太陽として全世界を照らし、2500年の後までも教えの親として仰がれたまうお釈迦さまとなられたのであります。
こういうわけで4月8日は、国のへだてなくどこへ行っても賑やかな花祭りをして太子さまのお誕生をお祝い申し上げています。朝鮮ではこの日を観燈会(かんとうえ)といって戸毎に八角の燈篭を吊るし、とこしえに消えない教の光を仰いで、聖誕を祝するならわしになっています。
誕生7日にしておん母マーヤ夫人はお隠れになったので、その妹パジャーパティさまが代わって太子をお育てになりました。太子はいとも聡明に成長なされ、7歳にして言語、算術、天文、弓術から馬術に至るまで、それぞれすぐれた師について学ばれましたが、しばしば大人も及ばぬ質問を発せられては、師を驚かせたまうのでした。
だんだん成長なされるにつれて、見るもの聞くものにつけ、深く考え込まれる日がつづきました。
或る時は畑にある小虫を鳥が啄ばみ食べるのを見て、深く心を悩まし、
「生類は何故こんなに互いに食(は)みあわねばならぬのか、これがほんとの世のありさまなのか。」
と、思いに沈まれたのであります。
父王は太子の聡明をお喜びになりながらも、さきのアシタ仙人の言葉を思い出されて、将来が心配になり出しました。そこで美しい妃ヤショダラー王女を迎え、目もまばゆい御殿に住まわせ、また国の政治にも與(あづか)らせて、出家の心を引きとめようとなさいました。
しかし、太子は城外に出遊される毎に、痩せ衰えた老人や、息苦しく倒れ伏している病人、さては野辺に送られていく死者を目のあたりご覧になって、
「誰でも皆老いねばならぬ、病まねばならぬ、そして死なねばならぬ。この老病死を私はどうしよう。」
という痛ましい感じを深め、心鬱々として、そのまま宮中にお帰りになりました。その後、また城門を出られた時に、路に一人の行者を見、気高いその姿に心引かれて、出家の意味を尋ね、
「老病死の苦をのがれて心の自由を得、慈悲心をもって生類を救う。」
と答える行者のおごそかな声に、太子は、
「ここにこそ人間の真実の道がある。」
と感じて、且つは喜び、且つは深く心に決するところがありました。宮中にお帰りになると、心王子ラーフラさまがお生れなされたというので、殿中は慶びの声にあふれていましたが、世嗣ぎを得た太子はいよいよ出家の決心を固められました。
ちょうど初夏の満月の夜のことでありました。
「時は今ぞ。」
と、安らかに眠れるラーフラとヤショダラーとをあとに残し、ひとり愛馬カンタカにまたがって、疾風の如く都門を出て雪山さして急がれました。
太子は途中馬を下り、なおも後を慕う御者(ぎょしゃ)チャンナに言い含め、今まで見につけていた衣冠を脱いで父王や妃へのかたみとして持たせ、カンタカとともにお城へおかえしになりました。かくして太子は、自ら髪を切り仙人の衣に身をやつして、ひとりさびしく、仙人の森、学者の居をめぐり訪ねて、ひとえに道を学びたまうのでありました。
太子は雪山の麓やウルビンラの林で、6年の永い間、あらんかぎりの苦をなめて、一心にさとりを求められました。そのために、身は痩せ衰え、眼はくぼみ骨はあらわれ、見るも痛わしいお姿になってしまわれましたが、それでもまださとりの光はあらわれませんでした。
ある日のこと、村の乙女が、
「絃(いと)が強けりゃ強くて切れる、絃が弱けりゃ弱くて鳴らぬ。」
と謡うて通るのを耳にせられた太子は、
「ああそうだ、自分は光明の世界を求めるとて、先には五欲の家を捨てて仙林に入った。しかし悩みはやはり除かれなかった。今度は、はりつめた心で絶えず自分の身を苦しめてきた。しかし迷いは去らないで、ただ疲労と衰弱のあまり、心の絃も切れそうである。これらは真に道を求める所以ではなかった。もとより五欲に捉われた享楽の生活もまちがっているが、このように強いて身体を損ない精神を苦しめる極端な苦行も誤っている。迷いを離れてさとりにすすむ道は、思うにこの二つの極端を離れた中道にあらねばなるまい。今はただ、早く身を養い、静かに心を整えて、はっきり中道を見る眼を開こう。」
とお考えになりました。
かくて太子はまず尼連禅河に入りて身を清め、村の娘スジャータのささげた乳糜を受けてすっかり元気を回復し、仏陀伽耶の大菩提樹の蔭に、村の少年シュバスティカのささげた草をしいて座を作り、
「我れもしさとりを得なければ断じてこの座を立つまい。」
と固く心に誓って静かに思いをこらされました。
これを見た欲界の大魔王は、
「今こそ魔界の危機が来た、どこまでも太子の成道を妨げねばならぬ。」
と、まず3人の魔女を遣わして太子の心を惑わそうとしましたが、太子の心は少しも動きませんでした。かくてはと魔王は、雷鳴、雷光、雨風すさまじく大地を揺り動かし、1億8千の軍勢を叱咤して、前後左右から押し寄せましたが、もはや悟りの座は微動だにもいたしませぬ。そしてみ座を中心に光の輪がだんだん輝きをますのみでありました。
すべての邪魔にうち克って心の平和を保ち続けた太子の心は、夜の闇が暁の光に代わるように、迷いの雲が綺麗にはれて、智慧の光が朗らかに照りわたりました。そして、まず自己の前世を知り、次いで生類の生死のありさまを知り、遂に人の迷いと、その迷いをとり除く道とをさとり、ここに全く光明かがやく大覚位に登り、円けき御智慧、完たき御慈悲にみちみちたまえるこの上もなき尊き仏陀となり、釈迦牟尼世尊と仰がれる御身となりたもうたのであります。
時に太子御年30歳(35歳という伝もある)12月8日のことでありました。
現に朝鮮慶州石窟庵に奉安せられてある新羅時代の大石像は、現にこの暁のお姿をあらわしたものであります。
釈尊は数日の間、自ら開きえたさとりの喜びを一人で楽しんでおいでになりましたが、その間に何とかしてこの道を伝えて、迷い苦しんでいるすべての人々を救いたいという慈悲の心が、胸の中に火のように燃えそめました。
それで更に5週間を菩提樹の下でお過ごしになり、
「今さとり得たこの道を、どう説いたならば人に解るであろうか、またこの世に実際行うにはどうすればよいか。」
について深くお考えになり、いよいよさとりのみ座を起(た)って、教化の旅に出られることになりました。
まずその手始めとして、前に苦行をともにした5人の友をベナレスの郊外に訪ね、
「耳あらば聞けよ、我れ不死の道を説かん。」
とて人の世のあさましい迷いの姿と、それを引き起こすわけと、そしてその迷いのなくなったさとりの境と、それに至るべき道とをお宣(の)べになりました。その道は即ち楽しみに耽らず、苦に悩まされず、必ず常に正しきに住する中道理想の生活をなすべきもので、実に次のような思し召しに伺われます。
汝等、自らの眼を捨てて、仏の教えに従えよ、智慧の眼が自然に開けるであろう。
汝等、自らの小さき心を捨てて、仏の心を受けよ、やがて慈悲の行を辿り得るようになるであろう。
この智慧の眼と慈悲の足とは、汝の言行を正し、汝の生活を誤りなからしめるであろう。
しかし、ゆるみがちなのは心である。常に鞭(むちう)って、この正しい生活に雄々しく精進しなければならぬ。
汝等、専ら仏の教えを念い、邪念妄想をはなれて、心を平らかに静かにたもてよ。
この心にこそ智慧の光がうつり、慈悲の露がやどるであろう。
これは実にさとりに至るの聖道(尊い道)である。
このみ教えを聞いて5人の友はたちどころに仙行を捨てて仏道に入りました。ついでベナレスの聖人の子ヤシヤも出家しました。これを追うて来たその父も母も若き妻も、そしてその友54人も、ともに信仰に入りました。
ついでウルビンラ村にカーシヤパ三兄弟をその1000人の弟子とともに感化し、王舎城にマガタ国王のために教えを説き、舎利弗、目蓮らを導き、更に故郷のカピラバストに帰って、父王とその一族を教化なされ、妃ヤシヨーダラも王子ラーフラも、異母弟ナンダも従弟アーナンダ等もみ教えに従ってお弟子となりました。
かくて貴族も賤民も沙門も兇族(悪者)もさては学者も農商も、階級や職業や男女の差別なく、すべて平等に同じ教えを蒙って、無上の道を喜びました。
釈尊は毎年夏の雨の多い期間、一処に弟子達を集めて、専ら道を修めしめ、それが過ぎると遠く諸方に旅をしつつ広く教えを伝えられましたが、到る所国王大臣から乞食貧女に至るまで、皆喜んで争い迎え、寺を献じ衣食を供えて教えを請いました。ここに驕れる者は遜り、悲しめるものは慰められ、悩めるものは安穏を得、狂える者は醒め、一声でも教えを聞き得た者は不死の甘露を飲んだように、新たな生命を恵まれ、永しえのさとりへと赴くようになりました。その御徳の奇しき潤いは、争える国々をも和らげ、言葉を解せぬ鳥獣までも相愛せしめました。
かくして席あたたまるにいとまなく、次から次へと道を伝えて最後までお休みなさいませんでした。
釈尊は自ら「世間の燈炬なり」と仰せられたことがありますが、今にしてこれを思ってみると、実に釈尊のご一生は自らの心の中に輝いた智慧の燈火を深い慈悲のお心から、世間の人々に分けて歩かれたのでした。否、今なお歩いていらっしゃるのであります。
そして釈尊の教えを聞くすべての人が、この智慧の燈火をいただくのであります。「われ不死の道を説かん」とおっしゃったが、実にその燈火は一度ついたら消えることのない不滅の燈火で、釈尊はお隠れになってすでに2500年にもなりますが、この智慧の燈火はそれからそれへと伝えられ、ますます多くの人々の心の中に輝いて、迷いの闇路を照らしているのであります。
この光の中に私どもは釈尊の尊い慈悲のお姿を拝むことができ、それと同時に、私共のいのちを世間一切の有情のいのちと共に、永しえに大いなる和(やわらぎ)の中に生きさせていただきのであります。