【貞観19年】645年
6月丁卯の日、訳経を開始した。この年には『菩薩蔵経』20巻、『仏地経』1巻、『六門陀羅尼経』1巻、『顕揚聖教論』20巻及び『頌』1巻の4部が選ばれた。これらの経典は1日で訳し終わったものもあり、数か月を要したものもあったが、その年の暮れまでにだいたい訳了した。
また、太宗の命により、西域、天竺の地理、情勢の記述が弟子の弁機によって執筆された。
[註]
【菩薩蔵経】(ぼさつぞうきょう)
【仏地経】(ぶつちきょう)
【六門陀羅尼経】(ろくもんだらにきょう)
【顕揚聖教論】(けんようしょうぎょうろん)
【頌】(じゅ)
【貞観20年】646年
『大唐西域記』が完成し、7月13日、これと前年までに訳了された5部58巻の経典に上奏文をつけて上呈する。
太宗(たいそう)は遼東遠征(りょうとうえんせい)から帰り、西京にいた。
また、5月から『瑜伽師地論』の翻訳が始まった。『瑜伽師地論』全100巻の訳了には満2年を要した。
[註]
【瑜伽師地論】(ゆがしじろん)
【貞観21年】647年
前年に引き続き『瑜伽師地論』の翻訳に没頭する。
前年にインドの戒日王(かいにちおう)の元に派遣視された正使・王玄策(おうげんさく)、副使・蒋師仁(しょうしじん)がインドに着いたが、戒日王は既に没し、大臣・アルジュナに王位を奪われ、王玄策らを攻撃した。王玄策はトバンやネパールの力を借り、曲女(きょくじょ)城を攻略してアルジュナを捕え、貞観22年5月に帰国した。
[註]
【瑜伽師地論】(ゆがしじろん)
【貞観22年】648年
王玄策(おうげんさく)らが帰国する。
春、太宗(たいそう)は長安の北600余里にある玉華宮(ぎょくかきゅう)に行幸された。
6月、太宗は勅して玄奘を招いたので、6月、玄奘は玉華宮に着いた。太宗がわざわざ玄奘を招いたのは、再び彼を還俗(げんぞく)させ、政務を補佐させようと思ったからであった。玄奘は誠心誠意5つの理由を挙げ、自分の本分は寺院にいて、釈尊の遺法を明らかにするところにあり、この志はあくまで遂げたいと上奏(じょうそう)した。太宗もその熱意に打たれ、「よろしい、今日からは朕(ちん)も師を助けて仏教を弘(ひろ)めよう」と約されたのであった。
この時玄奘は『瑜伽師地論』を奉呈した。また太宗から『金剛般若経』の新訳を求められたので、玉華宮で翻訳にかかり、10月1日、『能断金剛般若波羅密経』1巻を訳出した。
10月中頃、太宗に従って長安に帰り、宮中の弘法院(こうぼういん)に住み、昼は帝の側近に侍(じ)し、夜は院に帰って訳経した。ここで『摂大乗論』10巻、世親(せしん)の『論』10巻、『縁起聖道経』1巻などが訳経された。
12月22日、皇太子が新たに建立した慈恩寺(じおんじ)の上座(じょうざ)となった。玄奘は病を理由に辞退したが許されず、この日、新たに慈恩寺に入る50人の高僧と弘福寺(こうふくじ)から慈恩寺に入った。この年、太宗から『大唐三蔵聖教序』が下賜(かし)された。
[註]
【玉華宮】後に玉華寺となる。
【瑜伽師地論】(ゆがしじろん)
【金剛般若経】(こんごうはんにゃきょう)
【能断金剛般若波羅密経】(のうだんこんごうはんにゃはらみつきょう)
【大唐三蔵聖教序】(だいとうさんぞうしょうぎょうじょ)
【摂大乗論】(しょうだいじょうろん)
【縁起聖道経】(えんぎしょうどうきょう)
【貞観23年】649年
夏4月、太宗は長安の南50里、終南山(しゅうなんざん)の翠微宮(すいびきゅう)に行幸した。長安を出発する時から少しく健康を害されていたが、5月26日、頭痛を訴え、玄奘を宮中に宿直させたが、翌日52歳で崩御(ほうぎょ)された。しかし、崩御は秘密にして発表せず、京に帰ってから喪(も)を発表し、太極殿(だいぎょくでん)に柩(ひつぎ)を停(と)めた。この日、太極殿で皇太子が即位した。
一方、玄奘は慈恩寺に帰り、専ら翻経に従事して寸陰も無駄にしなかった。すなわち、毎日日課を立て、もし昼間用事があって日課が終わらないと、必ず夜これを続け、予定が終わってから初めて筆を止めて経を集め、仏に礼して経行(ひんきん)し、夜12時頃になってしばらく眠り、夜中の3時にはもう起床して梵文(ぼんもん)原典を読誦(どくじゅ)して朱点を入れ、翌日の翻訳する部分に当てたのだった。
【永徽元年】650年
この年も前年に続き孜々(しし)として訳経に従事した。しかも、午後には4時間ずつ新しい経論の講義をし、諸州から集まった学僧の質問に答えた。
その他、玄奘は慈恩寺の上座(じょうざ)だったので、時々寺務について裁決を行った。さらに諸高僧と西方の諸賢の論義や異端を論じ、少年僧にはインド周遊の話をしてやるなど、声高に激論しても少しも疲れた様子が見えなかった。玄奘が精力絶倫で人並み優れていたことは、このような有り様であった。
【永徽2年】651年
春正月、蒲州刺史(ほしゅうしし)の李道裕(りどうゆう)、穀州刺史(こくしゅうしし)の杜正倫(としょうりん)、恒州刺史(こうしゅうしし)の蕭鋭(そうえい)ら4人の刺史が来て、玄奘に共に菩薩戒(ぼさつかい)を受けたいと請うた。玄奘はこれらの人々に戒を授け、同時に広く菩薩の行法を説いたので、人々は喜んで辞去し、後におのおの浄財を喜捨(きしゃ)し、共に戒法を聞いたことを感謝してきた。玄奘が賢臣(けんしん)から慕われたのはかくの如くであった。
【永徽3年】652年
春3月、玄奘は慈恩寺の端門の南に高さ180尺の甎塔(せんとう)を建てた。
ここに玄奘は西域から将来した経像を安置し、火難と散佚(さんいつ)を防ごうとしたのであった。初めは300尺の石像にしたい計画だったが、皇帝の意向で180尺の甎塔となった。塔基の四辺はおのおの140尺あり、西域風で5階建てであった。塔の南面に二つの碑があり、太宗、高宗二聖の『三蔵聖教序』が尚書右僕射(しょうしょうぼくしゃ)の褚遂良(ちょすいりょう)の筆で記されていた。起工に当たって玄奘は親しく「もっこ」を背負い甎石(せんせき)を運んでいたが、完成には前後2年を要した。
この年の5月、珍客が訪れた。中インドのマハーボディ寺の僧法長(ほうちょ)である。彼は玄奘在印中の旧友、ジュヤーナプラバとプラジュニヤーデーバ)の手紙と贈物白氈2枚を持って来た。手紙には久闊(きゅうかつ)を叙する挨拶とともに、「必要な経典があったら、彼に目録を持たせて送ってくれるように」と書かれていた。
[註]
【三蔵聖教序】(さんぞうしょうぎょうじょ)
【マハーボディ寺】摩訶菩提寺(まかぼだいじ)。
【ジュヤーナプラバ】智光(ちこう)。
【プラジュニヤーデーバ】慧天(えてん)。
【永徽5年】654年
2月にマハーボディ寺の法長(ほうちょう)が帰国することになったので、玄奘は智光(ちこう)と慧天(えてん)に手紙を書き、贈物を調えた。手紙には「先年帰国した王玄索(おうげんさく)から正法蔵(しょうぼうぞう)が逝去されたことを聞き、痛惜の念に堪えない。今正法蔵が亡くなられ、貴僧が後を継がれたので頑張って欲しい。なお帰国の時インダス河を渡る時、経典を一駄(いちだ)失いました。その目録は次の通りで、もし伝手(つて)があったら送って欲しい」と記した。
[註]
【正法蔵】戒賢(かいけん)。
【永徽6年】655年
玄奘は翻訳の余暇に『理門論』や『因明論』を訳した。この2論はおのおの1巻からなり、論理学について説明したものであった。そこで訳寮(やくりょう)たちは、互いにその注釈書を作った。遂には尚訳奉御(しょうやくほうぎょ)の呂才(ろさい)も熱心に研究し、『因明註解立破義図』を作った。呂才は俗人でありながら衆師の説を盗み、好んで異端を起こして声誉を求め、俗世間で宣伝した。その噂が大変高くなったので、帝は勅(ちょく)して医学士を慈恩寺に行かせ、玄奘に請うて呂公(ろこう)と対面させた。呂公は玄奘と対論して論破され、謝って退出した。
この頃、宮廷ではすさまじい暗闘があり、武昭義(ぶしょうぎ)が勢いを強め、皇后王氏(おうし)と皇太子忠(ちゅう)が没落した。10月、王皇后は廃され、密室に幽閉された上、引き出して杖叩き100回、手足を切断し酒瓶(さけがめ)に浸(つ)けて殺されたという。
[註]
【理門論】(りもんろん)
【因明論】(いんみょうろん)
【因明註解立破義図】(いんみょうちゅうかいりつはぎず)
【武昭義】後の則天武后(そくてんぶこう)
【顕慶元年】656年
正月、13歳の皇太子忠(ちゅう)が廃され、武皇后の生んだ弘(こう)が3歳で皇太子となった。王子忠は左遷され、やがて庶民に落とされ、数年後22歳で殺された。
この頃、黄門侍郎(こうもんじろう)薛元超(へきげんちょう)、中書侍郎李義府(りぎふ)は玄奘の元に行き、「法師らの経典の翻訳は、元より法門の美挙である。これをどのように顕彰すべきでしょうか」と尋ねた。玄奘は「古来経典の翻訳に当たり、僧以外に君臣の賛助した者は少なくない。是非そうすべきである。また慈恩寺は壮麗だが、ここに碑を建てて、遺法を後世に示すことは行われていない」と答えたので、間もなく二人の上奏(じょうそう)により、帝は皆これらの件を認可された。
3月、御製(ぎょせい)の大慈恩寺の碑文が出来上がった。
この年5月、玄奘は今までの凌山(りょうざん)や雪嶺(せつれい)を越えた疲れのためか、冷病(れいびょう)がひどくなり、重態に陥った。皇帝は侍医(じい)を遣わして看病させ、必要な薬は全て内庫から送らせた。侍医は日夜傍らを離れず、5日目にやっと重態を脱することができた。その後、玄奘は順調に回復したので、皇帝は使いを派して玄奘を宮中に迎え、凝陰殿(ぎょういんでん)の近くに置き、そこで翻訳を続けさせた。
10月、武皇后の出産が近づいた。武皇后はやがて後になると高宗が多病のため、自ら代わって朝政(ちょうせい)を執(と)り、帝の没後我が子の中宗(ちゅうそう)、睿宗(えいそう)を次々に廃立(はいりゅう)し、唐朝の貴族数百人を殺した女傑(じょけつ)だったが、さすがに出産を前に心細くなったのか、玄奘に安産の祈願を依頼した。玄奘は「聖体は必ず安らかで、しかもお生まれになるのは男児でしょう。無事ご出産の後には、ぜひ出家をお許しくださいますよう」と奏上(そうじょう)し、勅許を頂いた。
11月5日、夕刻、突然一羽の赤雀が来て御帳に泊まった。玄奘が吉兆であると上表(じょうひょう)すると、間もなく勅使が来て「ただ今皇后が出産され、果たして男児が生まれ、仏光王(ぶっこうおう)と名づけられた」と伝えられた。
[註]
【冷病】呼吸器病。
【顕慶2年】657年
春2月、高宗は洛陽に行幸し、玄奘もこれに従った。翻訳僧5人と弟子1人も同行した。玄奘の故郷は洛陽の東70里ほどの陳堡谷(ちんほこく)にある。玄奘はほとんど40余年ぶりに故郷を訪れた。親戚知人もほとんど死んでしまったが、ただ一人姉が生きていたので、二人で父母の墓にお参りした。墓はすでに年久しく荒廃していたので、玄奘は帝の勅許を得て公費で父母の墓を改葬した。
秋9月には故郷に近い少室山の少林寺に隠退(いんたい)したいと願い出たが、この度もその願いは許されなかった。
11月、玄奘は相変わらず積翠宮(せきすいきゅう)で孜々(しし)として翻訳に従事していたが、緊張の余り病気になってしまった。帝は心配して供奉内医を遣わして看病させ、しばらくして病気も良くなった。
【顕慶3年】658年
正月、帝は洛陽から長安に帰り、玄奘もまた従って帰った。
秋7月、再び勅があり、玄奘は西明寺(さいみょうじ)に向かった。ここは元の濮王泰(ぼくおうしん)の屋敷跡に造られた寺で、周囲数里、10院4000余室の広大な寺であった。
【顕慶4年】659年
10月、玄奘は長安から玉華寺に赴き、ここで翻訳に没頭することになった。玉華寺はもと太宗の離宮だったが、永徽2年以来、廃されて仏寺となっていた。玄奘は『大般若経』の翻訳に没頭するため、ここに移ったのである。
[註]
【大般若経】(だいはんにゃきょう)
【顕慶5年】660年
正月からはいよいよ『大般若経』の翻訳に取りかかった。この経はサンスクリット原典では、20万頌(じゅ)もある。協力の人はしきりに抄訳(しょうやく)を勧め、一時は玄奘もそうしようと考えたが、その夜、恐ろしい夢にうなされた。危ない所を歩き、猛獣に襲われ、戦慄(せんりつ)して汗を流した。玄奘は目が醒めて大いに反省し、一同に向かって「やはり元の通りの省略せずに翻訳しよう」と語った。
【龍朔元年】661年
この年も次の年も、ひたすら翻訳が続けられた。そして龍朔3年(663)冬11月23日、遂に『大般若波羅密多経』全600巻は完成した。玄奘は合掌し、歓喜して「この経こそまさに国を鎮め、天下の大宝である。衆僧はよろしくおのおの歓喜踊躍すべきである」と言った。
[註]
【大般若波羅密多経】(だいはんにゃならみたきょう)
【龍朔3年】663年
冬11月23日、遂に『大般若波羅密多経』全600巻が完成した。
11月29日、玄奘は弟子窺基(きき)を遣わして、翻訳の完了を上表(じょうひょう)し、御製(ぎょせい)の序文を請うと、12月7日には勅使馮茂(ひょうも)が来て、帝が受諾したことを伝えた。
ところで、玄奘は『大般若経』の翻訳に全身の力を使い果たしたらしく、この後、自ら身体が衰え無常の期が近いことを知った。そこで門人たちに「私が玉華寺に来たのは、もともと般若経のためである。今や経典の翻訳も終わり、私の生涯も尽きなんとしている。もし私が死んだら葬儀は質素を旨とし、屍体(したい)は草筵(くさむしろ)に包んで山間の僻地(へきち)に捨てるように」と言った。
【麟徳元年】664年
正月、玉華寺の人々が玄奘に『大宝積経』120巻を翻訳せんことを請うたが、玄奘は初めの数行を訳してみたが、間もなく梵本(ぼんぽん)を収め、「この経は大般若経と同じ巻数で、自分の気力はもはやおぼつかない。私の死期は既に迫り、遠くない」と言い、弟子たちと蘭芝谷(らんしこく)の仏像を拝しつつ、遂に翻訳の筆を絶った。
それからしばしば死期の迫ったことを言い、弟子たちも時々不吉な夢を見た。
2月4日に右脇を下にして、そのまま眠り、5日夜半、弟子が「和上(わじょう)、必ず弥勒の内院に生まれ変わられますか」と尋ねると、玄奘は「必ず生まれよう」と答え、言い終わると呼吸も微(かす)かになり、しばらくして神逝された。行年63歳であった。
玄奘の訃報が高宗の下に達したのは2月9日の朝であった。帝はこれを聞いて慟哭(どうこく)され、「朕(ちん)は国宝を失った」と言われた。文武の百僚も皆悲しんで、涙を流したという。2月26日には、玄奘三蔵の葬儀は全て官給によるべしと勅(みことのり)があった。門人は玄奘の遺言に従い、草筵で輿(こし)を作り、遺骸を乗せて長安に帰り、慈恩寺の飜経堂(ほんきょうどう)に安置し、弟子数百人がこれを囲んで哀号(あいごう)した。4月14日には、いよいよ長安の東郊を流れる灌水(かんすい)の東方、白鹿原(はくろくげん)に葬った。送る人百余万人、この夜、墓前に泊まった人は3万余人に達したという。
5年後の総章2年(688)4月、高宗は勅して、その遺骨を長安の南30里、樊川(はんせん)の北原に改葬し、塔を建てて祀(まつ)った。遷葬(せんそう)の儀に当たって、門徒の悲哭は5年前よりさらに切々たるものであった。後に粛宗(しゅくそう)はこの塔に興教(こうきょう)という塔額を賜った。
『慈恩伝』によれば、臨終に当たり、玄奘は弟子の嘉尚(かしょう)に命じ、つぶさに翻訳した経典を記録させたところ、総計74部1338巻に及んだという。玄奘の翻訳した巻数は部数が少ないのは、『瑜伽師地論』100巻、『大般若経』600巻のように、巻数の多いものが多かったからに他ならない。『開元録』に『一切蔵経』が1124部、5048巻とあることから、玄奘はよく独力をもって全蔵の4分の1強を訳した。また、玄奘が翻訳に従事したのは貞観19年(645)5月から龍作3年(663)10月頃までであるから、この17年6か月間に1338巻の経典を翻訳するには毎年平均75巻、1か月に6巻と4分の1、5日間に1巻ずつ訳出したことになる。玄奘がいかに不世出の傑僧(けつそう)であったかが分かる。
この驚くべき数字は、実に玄奘法師の強固な意志と倦まず弛(たゆ)まぬ努力をよく物語っている。なるほど玄奘はこうした大事業を行うべく、唐朝の絶大な保護を受けていた。翻経(ほんきょう)の証義(しょうぎ)綴文(ていぶん)浄書(じょうしょ)のために全国から23人の大徳が玄奘の下に集められ、皇太子によって建立された大慈恩寺には翻経院も設けられて、玄奘の道場とされた。大慈恩寺三蔵法師の称はこれに因(ちな)んでいる。
しかし、玄奘がインドから粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)して将来した経典を、このように組織化された機構の下で翻訳するには、彼の並々ならぬ政治力が必要だったであろう。また、集まった大徳たちが十分力を発揮できたのは、玄奘の豊かな学識と崇高な人格が、全ての人の力を渾然(こんぜん)と組織化しえたからに違いない。太宗に引き続き、高宗にも厚く信任された玄奘は、この画期的な一大翻訳事業に自己の情熱と智慧を悉く注ぎ込んだのであった。
[註]
【大宝積経】(だいほうじゃくきょう)
【大般若経】(だいはんにゃきょう))
【瑜伽師地論】(ゆがしじろん)
種別 | 品目 | 数量 | 単位 | 大きさ | 所在 | |
1 | 舎利 | 舎利 | 150 | 粒 | ||
2 | 仏像 | 前正覚讃の龍窟留影の金仏像 | 1 | 体 | 光座を通じて高さ3尺3寸 | マガタ国 |
3 | 仏像 | 鹿野苑の初転法輪像を模造した刻檀の仏像 | 1 | 体 | 光座を通じて高さ3尺5寸 | バーラーナシー国 |
4 | 仏像 | ウダヤナ王思慕の旃檀如来像・模造檀刻仏像 | 1 | 体 | 光座を通じて高さ2尺9寸 | カウシャンビー国 |
5 | 仏像 | 如来が天宮から法階を下降される像に擬した銀の仏像 | 1 | 体 | 光座を通じて高さ4尺 | カピタ国 |
6 | 仏像 | 霊鷲山に『法華経』等を説かれる像を模した金の仏像 | 1 | 体 | 光座を通じて高さ3尺5寸 | マガダ国 |
7 | 仏像 | 毒龍を調伏し留められた影像を模した刻檀の仏像 | 1 | 体 | 光座を通じて高さ1尺5寸 | ナガラハーラ国 |
8 | 仏像 | 城を巡って行化する影像を模した刻檀の像 | 1 | 体 | 光座を通じて高さ | ヴァイシャ―リー国 |
9 | 経論 | 法師が西域において得た『大乗経』 | 224 | 部 | ||
10 | 経論 | 『大乗論』 | 192 | 部 | ||
11 | 経論 | 『上座部経律論』 | 15 | 部 | ||
12 | 経論 | 『大衆部経律論』 | 15 | 部 | ||
13 | 経論 | 『三弥底部経律論』 | 15 | 部 | ||
14 | 経論 | 『弥沙塞部経律論』 | 25 | 部 | ||
15 | 経論 | 『迦棄臂耶部経律論』 | 17 | 部 | ||
16 | 経論 | 『法密部経律論』 | 42 | 部 | ||
17 | 経論 | 『説一切有部経律論』 | 67 | 部 | ||
18 | 経論 | 『因論』 | 36 | 部 | ||
19 | 経論 | 『声論』 | 13 | 部 |