パミール諸国

クマーラ王
それから二日後、東インドのクマーラ王は使いを戒賢(かいけん)法師の元に送り、「私は支那(しな)国の大徳を見たいと思います。どうか師よ、彼をこちらによこして私の願いを満たしてください」との手紙をよこした。戒賢はこの手紙を見ると人々に告げて、「クマーラ王は玄奘を招聘(しょうへい)しようとしている。しかし、この人は戒日王(かいにちおう)の所へ行って、小乗の人々と対論するように予定されている。今もしハルシャヴァルダナ王からも手紙が来たらどうしようもない。クマーラ王の所へはやってはなるまい」と言い、王の使いに向かって、「この支那僧は今本国に帰りたいと言っています。それ故、王の命に従う訳には参りません」と答えた。
その使いがクマーラ王の元に帰ると、王は重ねて使いを送った。「法師がもし帰りたいとお考えなら、しばらく私の所で過ごしてから帰ってもいいではありませんか。これは私の必至の願いを受け入れて、違
(たが)わないようにしてください」。
しかし、戒賢はそれでも玄奘を遣
(や)らなかった。クマーラ王は大いに怒り、さらに別の使いに手紙を持たせて戒賢の元に送った。
「私は凡夫
(ぼんぶ)で世の楽しみに染まり、仏法にも未だ帰依(きえ)していません。今外国僧の名を聞き、心身ともに歓喜して道心(どうしん)の芽が開きかけてきました。ところが、師は再三法師のおいでを許されぬ。師は衆生を長く常闇(とこやみ)に淪(しず)めようとされるのか。これが師の釈尊の遺法を盛んにする術(すべ)か。私はかの支那僧を渇仰(かつごう)し、謹んで重ねてこちらへ送られるようお願いする次第です。これほどにして、しかも来なかったら、私も本性は悪人です。先ごろシャシャーンカ王は仏法を壊(こわ)さんとし、菩提樹(ぼだいじゅ)を切りました。師よ、貴方は私にその力がないとでも言うのですか。もし法師をこちらによこさないのなら、私は必ず象軍を整備して押し寄せ、ナーランダー寺を踏みにじって塵(ちり)のように砕いてお目にかけましょう。この言葉は太陽と同じで、食言ではないのである。師よ、よく考えられたい」。
戒賢法師はこの手紙を見て、玄奘を呼んで次のように述べた。
「クマーラ王は善心元より薄く、その国内には仏法もあまり盛んではない。王は貴方の名を聞いて自ら深い発心
(ほっしん)を持ったようである。貴方は、あるいは王とは宿世(しゅくせ)の善友(ぜんぬ)であるかもしれぬ。どうか行って努力してやってください。出家は、人のために利益を与えるのが本分です。貴方は今やまさにその時が来たのです。貴方の仕事は、例えば樹を切るようなものです。もし根を切ってしまえば枝葉も自然に枯れてしまうでしょう。貴方があの国へ行って、王を発心させれば、すなわち国民全部が王にならって仏教徒になるでしょう。もし命に服さないで行かないと、あるいはこの書のような魔事が起こるかもしれません。ご苦労だが、まあ行ってみてください」。
そこで玄奘は戒賢法師に別れを告げ、クマーラ王の使者と共にその国に赴いた。その国に着くと、王は彼と会って非常に喜び、群臣を率いて出迎え、礼拝し讃嘆した。そして玄奘を連れて王宮に入り、毎日音楽、飲食、花香を連ねてもろもろの供養を尽くし、斎戒
(さいかい)を受けたいと請うた。このようにして一月余りが過ぎた。


ハルシャヴァルダナ王
その頃、ハルシャヴァルダナ王はコーンゴーダ国を討って帰ってきた。王は玄奘がクマーラ王の元へ行ったと聞いて驚き、「私がしきりに請うたのに来ず、今どうしてクマーラ王の所に行ったのか」と言って、使いをクマーラ王に送り、「急いで支那
(しな)僧を送り返らせよ」と申し送った。ところが、クマーラ王は玄奘を尊重し、使者に向かって「私の頭は差し上げることができても、法師は直ぐにそちらに行かせるわけにはゆきません」と言った。その使いが帰って来て報告したので、ハルシャヴァルダナ王は烈火のごとく怒り、侍臣(じしん)に向かって「クマーラ王は我れを軽んじたぞ。どうしてわずか一僧のためにそんな暴言を吐くのか」と言ってさらに使いを遣わして責めた。「そなたは自分の頭を差し上げると言った。よろしい。直ちに使いに持たせてこちらへよこせ」。
一方、クマーラ王は深く失言を反省し、やがて象軍2万、乗船3万艘を整え、玄奘と一緒に出発し、ガンガー河を遡
(さかのぼ)ってハルシャヴァルダナ王の所に赴いた。一行はカジャンガラ国で王に追いつくことができた。クマーラ王は出かける前に、まず部下に命じてガンガー河の北岸に行宮(あんぐう)を営ませ、この日川を渡って行宮に玄奘を安置し、その後、諸臣と共に河の南岸にあるハルシャヴァルダナ王の元に行った。
ハルシャヴァルダナ王はクマーラ王がやって来たのを非常に喜び、王が玄奘を敬愛する余り、先の言葉を言ったことを知っていたので、そのことは責めなかった。ただ、「支那僧は何処にいるのか」と問うた。
「私の行宮におります。」
「どうしてここへ来ないのか。」
「大王は賢人を敬い道を愛するお方です。どうして私が法師をここへ連れて来て、王にお目にかけられましょうか。」
「よし分った。それでは、そなたはしばらく自分の所へ帰ってください。明日私が自らお迎えに参ろう。」

そこでクマーラ王は引き返して、玄奘に向かって言った。
「このようなわけで、王は明日行くと申しましたが、恐らくは今夜直
(す)ぐやって来るでしょう。しばらくお待ちください。もし大王がやって来ても、師は決して軽々しく動いてはいけません。」
「私の仏法からの考えも、その通りです。」
こうして夜8時頃になると、果たして大王がやって来た。見張りの者がやって来て「ガンガー河に数千の燈燭
(あかり)が見え、歩鼓(たいこ)の声が響いてまいります」と報告した。
クマーラ王は、「これこそハルシャヴァルダナ王が来られたのである」と言って、命令して灯
(あか)りをかかげさせ、自ら諸臣と遠く出迎えた。ハシャヴァルダナ王が歩く時はいつも金鼓(きんこ)数百を率い、一歩歩くたびに一撃するので、これを節歩鼓(せっぽこ)と呼んでいる。この習わしは大王にのみ許されたもので、他の王は同じようにすることは許されていない。間もなく大王は行宮に着き、玄奘の足に頂礼し、散華(さんげ)して礼拝した。そして数々の言葉で玄奘を讃嘆し、「私は先に法師に来ていただきたいと言ったのに、どうしておいでくださらなかったのか」と言った。
「私が遠くインドまで来て仏法を研究しているのは『瑜伽師地論』を聞きたかったからです。先に大王の命を受けた時、私はまだ聴講が終わっていなかったのでお伺いできませんでした。」

「法師は支那から来たという。私が聞くところによると、かの国には秦王破陣
(しんおうはじん)の楽(がく)や歌舞(かぶ)の曲があるとのこと。秦王とはどなたであるか、また何の功徳があってこのように誉めそやされるのですか。」
「私の本国は聖賢の徳を慕い、よく民衆のために兇
(きょう)を除き暴(ぼう)を抑え、人民を普く潤(うるお)す人を見れば、上は宗廟(そうびょう)の楽から下は街の謳(こうた)に至るまで、その人を歌って賞揚(しょうよう)します。秦王とは中国の今の天子(てんし)です。まだ天子になる前、秦王に封(ほう)ぜられていました。この時、中国は天下乱れて君なく、原野には人の肉を積み、川谷には人の血を流し、妖星(ようせい)は夜集まり、悪鬼(あっき)は朝に凝(こ)る有り様でした。中国中が貪欲(どんよく)な豚に悩まされ、天下は長蛇(ちょうだ)のような悪者に毒されてしまいました。この時、王は帝の子として天子の命に従い、各地を転戦して悪者どもを切り殺し、軍を指揮して天下を平定し、再び天下泰平の世にしたのです。今の中国の人々は皆その恩を思い、この歌を歌うのです」。
大王はこの話を聞いて、「そのような人こそ、まさしく天が遣わして天子とする人である」と感心し、「では、私はこれでお暇し、明日お迎えに参りましょう。どうかおいで願います」と言って帰った。



論議の大会
翌朝、早々と使者がやって来た。玄奘はクマーラ王と共にハルシャヴァルダナ王の行宮
(あんぐう)の側まで行くと、王は僧侶20余人と共に出迎え、行宮に入って席に着き、つぶさに珍味を連ね、楽(がく)を奏し散華(さんげ)供養をした。やがて王は、「聞くところによると、師は『制悪見論』を作られたということですが、どこにありますか」と尋ねた。玄奘が「ここに持っております」と差し出すと、王はつくづくとこれを見て、非常に喜び、その僧らに向かって「私は日光が出れば蛍や灯火は明かりを奪われ、天雷が鳴れば槌(つち)や鑿(のみ)の音は聞こえなくなるという譬えを聞いたことがある。お前らの守る宗門の教えは、皆この論で論破されている。誰か試みに自分たちの論を救わんとする者はないか」と言ったが、居並ぶ諸僧は誰一人口を出す者はなかった。
「そなたたちの上座、デーヴァセーナはいつも私の解釈は全て俊英に勝り、学はもろもろの哲人を兼ね、初めて異見を唱えて常に大乗を論破すると言っていた。ところが、この支那
(しな)の大徳(たいとく)が来ると聞いて、ヴァイシャ―リーに赴いて聖跡を巡礼したいと言って逃げてしまった。そこで、私はそなたたちの無能を知っているのだ」と言った。
大王に妹があり、彼女は聡明で正量部
(しょうりょうぶ)に精通していた。王の座に座って、玄奘が大乗の宗義が広大で小乗の教えが浅く狭いことを述べるのを聞き、非常に喜んで、玄奘の学の深いことを称讃して止まなかった。そこで王は、
「師の論は大いによろしい。私を初め、この衆僧も皆信伏
(しんぷく)しました。ただ私は他の国の小乗外道の輩(やから)が、なお愚迷(ぐめい)を守っていることが心配です。どうかお願いですから、曲女城(きょくじょじょう)で師のために一つの会を開き、全インドの沙門(しゃもん)、バラモン、外道に命じて集まらせ、そこで大乗微妙(みみょう)の理を示して、大乗を毀謗(きぼう)する心を断ち、師の盛徳(せいとく)の高さを示して彼らの慢心(まんしん)を打ち砕いてやってください」と言って、その日に勅(ちょく)を発して、諸国及びもろもろの論師に、「曲女城に集まって支那国の法師の論ずるのを見よ」と通知した。
玄奘は冬の初めに大王と共にガンガー河を遡
(さかのぼ)って進み、12月になって会場に着いた。全インドのうち18国の王がやってき、大小乗に通暁した僧3000余人、バラモン及び尼乾外道2000余人、ナーランダー寺の僧1000余人がやって来た。これらの諸賢は共に文義(もんぎ)に博通(はくつう)し、弁才に富んだ人々で、その議論を聞こうと思う人々は皆この会場にやって来た。その他に侍従(じじゅう)があり、あるいは象、あるいは輿(こし)、さらに多くの(はた)や幡(のぼり)が会場を取り巻き、それらは雲が起こり霧が湧くように数十里の間を埋め尽くしていた。六斉(ろくせい)の人々の袂(たもと)を集めてテントを作り、三呉(さんご)の人々の汗を集めて雨を降らせても、その盛大さには及ばなかったであろう。
王は先に勅
(みことのり)して大会場に二つの草葺(くさぶき)の会場を作らせ、仏像と人々の入る場所にした。これらの会場は、一行が着くまでに出来上がっていた。その会場は非常に広く、おのおの1000余人が中に座ることができた。王の行宮(あんぐう)は会場の西5里の所にあり、毎日行宮の中で金像一体を鋳(い)て、一頭の巨象の上に宝帳を施し、その仏像を中に納めた。
ハルシャヴァルダナ王は帝釈天
(たいしゃくてん)の姿を装い手に白払(ほっす)を持って右側に侍し、クマーラ王は焚天(ぼんてん)の形を装い宝蓋(ほうがい)を持って左側に侍し、皆天冠(てんかん)花髪(けはつ)をつけ、瓔(よう)を垂れ玉を佩(お)びていた。また二頭の巨象に宝花を載せ、仏の後から気ままに歩かせ、玄奘や門師たちはおのおの大象に乗って王の後に従わせた。さらに300頭の大象に、諸国の王、大臣、大徳(たいとく)を乗せ、道の側に並んで称讃して行かせた。
人々は毎朝早くから装束
(しょうぞく)を整え、行宮(あんぐう)から会場に向かい、会場の門でおのおの乗物から降り、仏像を捧げて会場に入り法座に安置した。それに次いで王は玄奘らと共にまず供養し、その後18国の王に命じて入らせ、次に諸国の僧の名声最も高く経典に通じた1000に余人を入らせ、さらにバラモン外道の名高い者500余人を入らせ、次いで諸国の大臣ら200余人を入らせ、その他の道俗は、それぞれ会場の外に座らせた。王は内外全ての人々に同時に食事を用意し、食後、仏に金槃(きんぱん)一、金椀(きんわん)七、金の澡缶(そうかん)一、金の錫杖(しゃくじょう)一、金銭3000、上質の氈衣(せんい)3000を施した。また、玄奘やその他の諸僧へもおのおの施しを与えた。
施与
(せよ)が終わると、王は別に宝床(ほうしょう)を設け、法師に座らせて論主とし、大乗を称揚し『制悪見論』を作った意を書かせた。そして、ナーランダー寺の沙門(しゃもん)明賢(みょうけん)法師に命じて全ての人々に読み聞かせ、別にもう一本を筆写させて会場の門外に掲げ、全ての人々に示させた。そして玄奘は、「もしその間に一字といえども理のないものがあり、能く論破する者があれば、私は首を断ってお詫びしよう」と言った。
このようにして晩になっても誰一人異論を挟む者はなかった。ハルシャヴァルダナ王は大いに喜び、会を止めて行宮
(あんぐう)に帰り、諸王もおのおの宿に帰り、次いで玄奘もクマーラ王と共に自分の宿に帰った。次の日の朝もまた行宮から像を迎えて会場に送り、人々が参集したことは初日と同じで、このようにして5日を経た。この時、小乗や外道の輩は、玄奘がおのおのの宗旨を破ったのを見て恨みに思い、玄奘を亡き者にしようとした。王はこの陰謀を知って、次のような命令を宣布した。
「邪党の人々が真を乱すことは、その由来久しく、正しい教を埋め隠し大衆を誤り惑わしてきた。聖者がなければどうしてこの偽りを正すことができよう。支那
(しな)の法師は気宇(きう)広大で学業修行共に深淵である。もろもろの邪を伏さんためにこのインドに遊学(ゆうがく)し、大法を顕揚(けんよう)して愚迷(ぐめい)の人々を正しているのである。ところが、妖妄(ようもう)の輩(やから)は耻じと悔いを知らず、悪謀(わるだくみ)を謀(はか)って殺そうとしているという。到底許すべからざることである。ただ一人といえども、法師に傷を与えた者は直ちにその首を斬(き)ろう。罵(ののし)る者はその舌を切ろう。もとより自らの論によってその宗師を救おうというものはこの限りではない」。
この命令で邪悪の徒は姿をひそめ、会期の18日を過ぎたが誰一人も論を発する者はなかった。
まさに散会しようとする日の夕方、玄奘は重ねて大乗を称揚して釈尊の功徳を讃え、多くの人々を邪道から正道に導き、小乗を捨てて大乗につかしめた。ハルシャヴァルダナ王は増々崇敬
(すうけい)の念を加え、更に玄奘に金銭1万、銀銭3万、上等の毛織の衣服100着を施し、18国の王もおのおの珍宝を施したが、玄奘はいずれも受けなかった。
王は家来に命じて一頭の大象を飾り、
(はた)を立てて玄奘に乗らせ、貴臣に陪(はべ)らせて大衆を巡って立論の屈しなかったことを告げさせようとした。インドでは、論に勝った者はいつもこのようにするのである。玄奘は勧められたが譲って行かなかった。そこで王は「古来の法であるから止める訳に行かぬ」と言って、玄奘の袈裟をもって普く大衆の間を練り歩き、
「支那
(しな)国の法師は大乗の義を立てて、もろもろの異見を破った。18日間、敢えて異論を唱える者もなく、全ての人は普くこのことを知らねばならぬ。」
と唱えさせた。大衆は歓呼
(かんこ)して玄奘のことを誉(ほ)めそやした。大乗の人々は玄奘をマハーヤーナデーヴァと言い、小乗の人々はモークシャデーヴァと言ったが、これは解脱天(げだつてん)の意である。そして、焼香散華(さんげ)し、敬礼して去って行った。この後、玄奘の名は増々高くなった。
[註]
【デーヴァセーナ】提婆犀那。天軍の意。

【曲女城】カンヤークブジャ。
【マハーヤーナデーヴァ】摩訶那那提婆。大乗天の意。
【モークシャデーヴァ】木叉提婆。


カシュミーラの仏牙
王の行宮
(あんぐう)の西に一つの伽藍があった。ここは王の供養するところで、中に仏牙があり長さはおよそ1寸5分ばかりである。その色は黄白色でいつも光明を放っている。昔、カシュミーラ国のカルコータ種が仏法を滅して僧侶を解散させたことがあった。その中の一僧が遠くインドに遊んだ。その後、トカラ国の雪山下王(せっせんかおう)はもろもろの賤種(せんしゅ)が仏法を滅すのを怒り、商人に変装し3000の勇士を率い、多くの珍宝をもって偽って「奉献しよう」と言った。カルコータの王はもとより貪欲(どんよく)であったので、この話を聞いて大いに喜び、使いを送ってお迎えした。雪山下王は元々天性勇猛で、威は神の如くであったので、招かれて座に坐ると、帽子を取って王を叱った。カルコータの王はこれを見て大いに驚き、震えて地に倒れた。雪山下王は、その首を斬り群臣に向かって、「私は雪山下王である。汝らは仏法を破壊しているので、私はここへ来て王を罰したのである。すなわち過ちは一人であって、汝ら全てに関することではない。他の人々は安心してよろしい。ただこの王を先導し、首謀者となって仏教を弾圧した者は他国へ追放しよう。他の者は不問にする」と宣言し、悪者を追放して伽藍を建立し、僧徒を招集して布施をして帰って行った。
先にインドに遊んだ僧は祖国が平定したのを聞いて杖を引いて帰ろうとした。ところが、路上に群象が咆哮
(ほうこう)しながらやって来たので、彼は樹に登って避けようとした。像は水を吸って樹に注ぎ、牙で掘り起こしてたちまち樹を倒してしまった。像は鼻で僧を巻いて背中に乗せ、彼を乗せたまま歩き出した。大きなジャングルに到ると、中に瘡(できもの)を患っている病象が寝ていた。象は僧の手を引いて、その痛い所に触らせた。よく見ると竹の棘が刺さっている。そこで僧はその棘を抜いて血膿(けつのう)を取り、衣を裂いて巻いてやったので、象はやっと落ち着くことができた。
翌日、もろもろの象は競って果物を取って来て僧に施した。彼が食べ終わると、一頭の像が金函
(きんかん)を持って来て病象に授け、病象はこれを僧に与えた。僧が受け取ると、諸象はまた彼を背に乗せてジャングルの外に送り、また元の所へ来て地上に降ろし、跪拝(きはい)して去って行った。彼が函(はこ)を開けてみると、中から仏牙が出てきた。そこで彼は持ち帰って供養した。
近頃、ハルシャヴァルダナ王はカシュミーラに仏牙があることを聞き、親しく国境までやって来て礼拝したいと請うた。諸僧は吝嗇
(りんしょく)して持ち出すことを許さず、他の所へこれを隠してしまった。しかし、カシュミーラ王はハルシャヴァルダナ王の威光を恐れてあちこち探し求め、ようやく手に入れてお目にかけることができた。ハルシャヴァルダナ王はこれを見て深く敬重の念を起こし、その強力に恃(たの)んで遂にこれを奪い取って持ち帰り供養した。それがこの牙であるという。
[註]
【カルコータ種
】訖利他。買得の意。
【雪山下王】(せつざんかおう)泗(口偏)摩羅旦(口偏)。


無遮大施
さて、大会
(だいえ)が終わった後、王は鋳造した金像や衣銭は悉く伽藍に預け、僧侶に守護させた。
一方、玄奘は先にナーランダー寺の諸徳に辞意を表わし、経像も集めることができ、論講も終わったので、19日になって王に言って帰国しようとした。すると王は、

「私は宗廟
(そうびょう)を受け継ぎ、天下の主となって30余年、いつも福徳が増さず、法因が相続しないことを慮(おもんぱか)っております。そこで、財宝を積み集めプラヤーガ国の両河の間に大会場を立て、5年に入り度全インドの沙門(しゃもん)、バラモン及び貧窮(ひんきゅう)孤独(こどく)の人々を集め、75日の無遮大施(むしゃだいせ)を行っています。今まで5回実施しましたが、今第6回目の大会を開こうとしています。師よ、この催しを見て喜んでくださいませんか」。
と言うので、玄奘も、
「菩薩は行を為すのに福慧二つの道を行い、智人は果を得てその本を忘れぬと言います。大王はなお珍財を惜しまぬというのに、私が少しく停住するのを断ることはできません。どうか一緒に連れて行ってください」。
と答えたので、王は非常に喜んだ。
21日に出発してプラヤーガ国に向かい、大施場
(だいせじょう)に着いた。ここはガンガー河が北にありヤムナ河が南にあり、共に西北から東流してきてここで相会(あいかい)するのである。その二河の合する所の西に大祭場がある。周囲は14~15里で平らなことは鏡のようである。昔から、諸王は皆その地において施しを行うので、施場と言われている。伝説によれば、この地で一銭を施せば、他の所で百千銭を施すより勝る功徳があるという。そのため、ここは古来重んぜられてきた。
王は勅
(みことのり)して、この祭場に施場を建てさせた。葦(あし)を立てて籬(まがき)とし、四方おのおの1000歩、中に数十間の草堂を作り、色々な宝物を貯蔵した。それらは金、銀、真珠、紅玻璃(こうはり)、宝帝青珠(ほうていせいじゅ)、大青珠などである。その側にまた長屋数百軒を造り、中に絹衣、斑文の毛織衣、金銀銭等を貯えた。籬の外には別に炊事の場を作り、宝庫の前にはさらに長屋100余軒を造った。その形は京師の市街に似ていて、おのおのの長屋には1000余人を収めることができる。
既に前から王は勅して全インドの沙門
(しゃもん)、外道、尼乾(にけん)、貧窮、孤独の人々に告げ、施場に集まって施しを受けるように伝えた。玄奘の曲女城(きょくじょじょう)の会に集まって、そのまま帰らず施場に赴く者もあり、18国の王もまた王を追って集まって来た。玄奘が会場に着く頃には、道俗の集まった人々は50余万人の多きに達した。ここでハルシャヴァルダナ王はガンガー河の北岸に幕営(ばくえい)し、南インドの王ドゥルヴァバッタは合流地点の西に幕営し、クマーラ王はヤムナ河の南、花林の側に、もろもろの施しを受ける人々はドゥヴァバッタ王の西に陣取った。
翌朝、ハルシャヴァルダナ王はクマーラ王と軍船に乗り、ドゥルヴァバッタ王は軍象を従え、おのおの儀衛軍
(ぎえいぐん)を整えて会場に集まり、18国の諸王はその次に陪列(ばいれつ)した。初めの1日は施場の草殿内に仏像を安置し、これに上等の宝物、上等の衣服及び美しい食物を布施し、夕刻まで音楽を奏し、散華(さんげ)して夕方遅くそれぞれの営に帰った。2日目は日天の像を安置し、初日の約半分の宝や衣を施した。第3日目は自在天の像を安置し、日天と同じように供養した。第4日は僧侶に施す日で、約一万人の僧が100列に並んで座り、それぞれ金銭100枚、文殊(もんじゅ)一枚、氈衣(せんい)一具に飲食(おんじき)香華(こうげ)が施され、供養が終わってから退出した。5番目はバラモンに施す日で、20余日で悉く供養し終わった。第6番目は外道に施す日で、14日間で供養し終わった。第7番目は普く遠方からの求者(ぐしゃ)に施す日で、10日間で供養し終わった。第8番目はもろもろの貧窮孤独の者に施す日で、一か月で供養し終わった。
こうして5年間蓄積した府庫
(ふこ)の物資は悉く供養に使用し尽してしまった。ただ、象馬兵器の類は保管してあるが、これは反乱を征し、国家を守護するためである。その他の宝貨及び王が身につけていた衣服、瓔珞(らくよう)耳璫(じとう)臂釧(ひせん)宝曼(ほうまん)頸珠(けいしゅ)(もとどり)の中の明珠(めいじゅ)などは全て施して、一物も残さなかった。一切を施し終わって、王はその妹から粗末な衣を求めて着、10万の仏に礼し、歓喜して合掌し、
「私はこの頃もろもろの財宝を集め、いつも堅牢な蔵に入れることができないで恐れていましたが、今や民の福田中
(ふくでんちゅう)に貯えることができ、蔵に入れることができたと言えるでしょう。願わくば、いつも財を貯えて常に衆生に施し、十自在を成じ、二つの荘厳を満たさんことを。」
と祈った。
こうして大会は終わった。諸王はおのおの諸の宝銭や宝物を持って民衆の所へ行き、王が施した瓔珞、髻珠、御服などを贖
(あがな)い、持ち帰って王に献じた。かくて、数日後には王の衣服や服飾品はまた元のようにすることができた。
[註]
【プラヤーガ国】
鉢羅耶伽国。
【無遮大施】五年大会。
【絹衣】
驕奢耶衣(きょうしゃやい)。
【十自在】命、心、資具、業、神力、法、智などの十の自在。
【二つの荘厳】智慧荘厳と福徳荘厳。



帰国に向けて

さて、無遮大施
(むしゃだいせ)も終わったので、玄奘はいよいよ帰国しようと考えた。
しかし、王が、「私はまさに玄奘とともに、仏教を闡揚
(せんよう)したいと思います。どうしてそんなに早く帰ってしまうのですか。」と言って引き留めるので、たちまちまた十数日は滞在してしまった。クマーラ王も慇懃(いんぎん)に「もし師が私の所に住んで供養を受けてくだされば、師のために100の寺を造りますが」と言って引き留めて止まない。玄奘は諸王がなかなか許さないので、遂に次のような苦言を呈した。
「支那
(しな)国はここから遥かに遠い国で、仏法も遅く入って来たのです。その大略は分っていますが、細部については分らぬことばかりです。このために私はわざわざやって来て細部を尋究(じんきゅう)したのです。今願を果たし得たのは、皆本土諸賢の渇望と深い誠によるものです。そこで、私はこのことをしばしも忘れたことはありません。経典にも、人法を妨げる者はまさに代々眼がないであろうとあります。もし私を留めると、即ち本土の無数の僧徒に法を知るの利を失わせるでしょう。無限の報いが恐ろしくありませんか。」
「いや、私は師の徳を慕い、いつも心から敬仰しているのです。しかし、他人の益を損なうのは実に心がかりです。仕方ありません。どうか自由にお帰りください。しかし、師はどの道でお帰りになりますか。師が南海から帰るのなら、私は使いを発してお送りしましょう。」
「私が支那
(しな)から出発して間もなく、高昌国(こうしょうこく)という国がありました。その王は極めて聡明な方で、仏法を楽しんでおられました。私が高昌国でインドに行こうとしているのを見て、深く随喜(ずいき)の念を生じ、手厚く資給してくれました。そして、帰国の時、また立ち寄ってもらいたいと申しました。私は情として違約することはできません。そこで、北路によって帰りたいと思います。」
「師はどれほどの旅費を必要としますか。」
「いや、必要ありません。」
「どうしてそんなことがありましょう。」
そこで、王は家来に命じて金銭などのものを施し、クマーラ王もまた多くの珍宝を施したが、玄奘はいずれも固辞した。ただ、クマーラ王の曷刺釐帔
(かっしりは)だけは途中で雨を防ぐのによさそうだったので頂戴した。こうして玄奘は諸王と別れることになった。
その日、王は家臣を引き連れ数十里を見送って帰って行った。まさに別れようとする時は、人々は皆嗚咽
(おえつ)を止めることができなかった。玄奘は経典と仏像を北インドのウディタ王の軍に托し、象に乗って静々と進んだ。後にハルシャヴァルダナ王はさらにウディタ王に象一頭、金銭3000、銀銭10000を与え、玄奘の行費に供したのだった。
別れてから3日後、ハルシャヴァルダナ王はクマーラ王等とおのおの軽騎数百を率いて、また追いついて来て見送ってくれた。その慇懃
(いんぎん)なことはかくの如くであった。そして、マハーマトラという達官(たるかん)4人を遣わしてくれた。すなわち王は木綿布に手紙を記し、紅泥(こうでい)で封印し、達官にこの書を持たせて玄奘に随行させ、途中経過する諸国に乗り物を発して逓送(ていそう)させ、遂に中国の国境に到らしめたのであった。
[註]
【曷刺釐帔】(かつしりは)鹿毛の細毛で作ったもの。
【ウディタ王】烏地多王。
【マハーマトラ】摩訶怛羅。唐の散官の類である。


帰路、カピシー王と共に
プラヤーガ国から西南に向かって大ジャングルの中を行くこと7日で、コーシャンビー国に到った。城の南にゴーシラ長者が仏に施した園があり、その聖跡を礼拝した。
さらにウディタ王と西北に行くこと一月余りで数国を過ぎ、再び天梯
(てんてい)の聖跡にお参りした。
また西北へ3由旬
(ゆじゅん)でヴィラシャーナ国の都城に到った。ここには2か月余り滞在して、同学のシムハラシュミ、シムハラチャンドラの二人が『倶舎』『摂論』『唯識論』などを講ずるのに会った。彼らもやって来て出迎え、非常に喜んでくれた。玄奘もここで『瑜伽決択』『対法論』などを開講し、2か月で終わって辞去した。
ここから西北に行くこと一月余り、数か国を経てジャーランダラ国に到った。ここは北インド王の都である。ここに一月余り滞在した。
ウダディ王は人を遣わして玄奘を送り、西行20余日でシムハプラ国に到った。
その頃、この国に100余人の僧がおり、いずれも北方の人だったので、経像などを持って玄奘と共に帰国することになった。このようにしてまた20余日、山道を進んで行った。ここは山賊の多い所で、玄奘は賊に略奪されることを恐れ、いつも一人の僧を先に進ませ、もし賊に遭った時には「我々は遠く中国から求法のためにやって来たのです。今持っているのは全て経典、仏像、舎利です。どうか人々よ、擁護して異心を起こさないでください」と言わせた。
このようにして20日余りの旅の後、タクシャシラー国に着き、再び月光王が千頭を捨てた所を礼拝した。この国の東北50ヨージャナにカシュミーラ国があり、その王は使を遣わして玄奘をお迎えしたいと言ってきたが、玄奘は象によって輜重
(しちょう)を運んでいるので行けなかった。この国には7日間滞在した。
また、西北に行くこと3日、シンドウ大河に着いた。川は広さ5~6里である。経蔵と同行の人々は共に船に乗って渡り、玄奘は象に乗って渡渉した。その時、一人の男に船中の経典やインドの諸々の異花の種子を看視させた。ところが、その船が中流にさしかかると、突然風波が巻き起こり、船を揺り動かして時々沈没しそうになった。見張りの者は恐れをなして水中に落ちてしまった。人々は共に彼を救い出すことはできたが、遂に50巻の経典と花果の種子などは失ってしまった。そして、その他の残りの品はわずかに保つことができた。
その時、カピシー王はいつもウダカカンダ城にいたのだが、玄奘がやって来たと聞いて、自ら河岸で奉迎した。「聞くところによると、師は河中で経典を失われたそうですね。師はインドの花果の種を持っていませんか」と尋ねた。玄奘が「持っています」と言うと、王は「それで分りました。激浪が船を傾けたのはそのためです。昔から花の種を持って渡ろうとする人は、きっと皆こうなってしまうのです」と答えた。
こうして王は玄奘と共に都城に帰った。玄奘はある寺に50余日滞在し、経典の一部を失ってしまったので、さらに人をウジヤーナ国に遣わし、カーシャピヤ部の三蔵を抄写
(しょうしゃ)させた。カシュミーラ王は玄奘がようやく近くに来たことを伝え聞き、遠路をものともせずやって来て礼拝し、数日間滞在して帰った。
玄奘はカピシー王と共に西北に進むこと一か月余り、ランパカ国の国境に到った。王は太子を先に派遣して、都人や衆僧に幢幡
(どうばん)を整えて城を出て出迎えるように勅(ちょく)し、王と玄奘はそれからようやく進んで行った。そこで町に近づくと道俗数千人が出迎え、幢幡は多数風にはためいて壮観だった。人々は玄奘を見て歓喜して礼拝し、前後を取り巻いて誉め讃えながら進んだ。都城に入ってある大乗寺に泊まった。王はここで75日の無遮大施(むしゃだいせ)を行った。
ここから正南へ15日でヴァラナ国に着き、聖跡を礼拝した。
さらに西北に進んでアバカン国に行き、また西北へジャーグダ国に行き、また北に500余里進んでヴリジスターナ国に着いた。
ここから東方に出てカピシーの国境に到った。王はここでまた7日の大施
(だいせ)を行い、その大施が終わってから、玄奘はこの地を出発した。東北に1由旬でグローサバム城に着き、ここでカピシー王に別れて北に進んだ。王は一人の大臣に100余人を率いて秣(まぐさ)や食料を負わせ、玄奘を送って雪山を越えさせた。
[註]
【コーシャンビー国】
【ゴーシラ長者】
劬師羅長者。
【ヴィラシャーナ国】
【シムハラシュミ】
師子光。
【シムハラチャンドラ】
師子月。
【倶舎】
(くしゃ)
【摂論】
(しょうろん)
【唯識論】
(ゆいしきろん)
【瑜伽決択】
(ゆがけったく)
【対法論】(たいほうろん)
【シムハプラ国】
僧訶補羅国。
【シンドウ大河】
信度大河。インダス河。
【ウジャーナ国】
烏長那国。ウッジャーナ国ともいう。
【カーシャピヤ部】迦葉臂耶部。
【ランパカ国】
藍波国。
【ヴァラナ国】伐刺拏国。ペシャワール西南約160㎞のバンヌ地方に推定される。都城バンヌは『法顕伝』に見える「跋那」であろう。バンヌ地方にはクラム河が流れ、インダス川に注ぐ。これを遡(さかのぼ)ればクラム地方からジャララバード、カブール地方に赴く。古来入竺僧がしばしば利用したルートの一つである。途中を左折すればババイ峠からガズニへの近道がある。
【アバカン国】
阿薄健国。この国については『西域記』にもその名が見えず不明。バンヌ地方とガズニを結ぶ線上の国であると推定される。
【ジャーグダ国】漕矩托国。サフランの意。ザブリスタンに当たる。唐代の謝風(+日)国。都城はカズナ(鶴悉那)といい、ガズニに推定される。『慈恩伝』は、「さらに西北に進んでアバカン国に行き、また西北へジャーグダ国に行き、また北に500余里進んでヴリジスターナ国に着いた」といかにも簡単に通り過ぎたように書いているが、『西域記』には、
ジャーグダ国は周7000余里。国の大都城はカズナと号し、周30余里、あるいはヘルマンド川下流のカズラ(鶴薩羅)城に都する。この城は周30余里、並びに険峻にして堅固である。山も川も高く、田畑は高燥な所にある。穀物は適当な時に播けば麦が豊富である。草木は枝を伸ばし、花や果物は繁茂している。欝金(うこん)香に適し興瞿(ひんぐ)草を産する。この草は羅摩印度川に生える。カズラ城中では湧水が枝のように流れ、国人はこれを利用して多を灌漑(かんがい)している。気候は寒さ烈しく霜雪が大変多い。人の性質は軽率で、心は詭詐(いつわり)が多い。学芸を好み技術は多能である。聡敏だが道理には暗く、日ごとに数万言を誦する。文字と言語は諸国と異なっている。言葉を飾ることが多く、事実であることは少ない。色々の神を祀るが、三宝も崇敬している。伽藍は数百か所、僧徒は万余人いて、共に大乗の教えを学んでいる」
等とあって、少なくとも数日は滞在して色々観察していたことが分る。すなわち『慈恩伝』によって旅行の梗概は分るが、それぞれの国の内容は『西域記』を参照しなければならないことが明らかである。

【ヴリジスターナ国】
仏栗氏薩儻那国。位置は不明。カブール川流域にあったと思われるが未詳。カブールについては『慈恩伝』『西域記』共に明記がない。カブールの古代、中世は不明なことが多く、今後の研究を要する。
【グローサバム城】
瞿盧薩謗城。


雪山を越えて
山道7日で大きな山の頂に着いた。その山は重畳(じゅうじょう)として危峰(きほう)が立ち並び複雑であった。あるいは平らかで、あるいは聳(そび)え、山容は一様でなく登陟(とうちょく)の難しいことは筆舌に尽し難い。ここからは、もう馬にも乗れず、杖をついて進んだ。7日後に一つの高い嶺に着いた。嶺の下に100戸ばかりの村があり、羊を飼っていた。その羊はロバほどの大きなものだった。その日はこの村に泊まり、夜中になって出発した。玄奘は村人の引く山ラクダに乗って進んだ。その道は雪渓や氷河が多く、もし郷人の案内がなければ到底通れず、互いに落ち込んでしまうような所である。翌日の昼、ようやくこの険峻(けんしゅん)を通り抜けることができた。その時の一行は僧7人と雇人ら20余人、象一頭、ロバ10頭、馬4疋(ひき)であった。
翌日、山の谷間に降り、曲がりくねる道を尋ねてまた一つの山を登った。この山は遠くからも雪のように見えたが、近づいてみると皆白石だった。この山は雪山中最も高く、雲や雪もその頂上には達しないほどである。その日の夕方、一行は山頂に着いたが、寒風凛冽(りんれつ)として吹きまくり、人々の中でよく立っていられる者とてなかった。また、山に草木なく、ただ石峰のみがゴツゴツと林のように聳(そび)えていた。そこは、山が高く風が烈しいので、鳥が飛び越えようとしても飛ぶことができず、峰の南北数百歩の所で、初めて鳥もその翼を広げることができるという。ジャンブ洲の中でこれほど高い山は他にない。玄奘は西北より下り、数里ほど行くとやや平らな所があったので、そこにテントを張って泊まり、翌早朝にまた出発したのだった。5~6日を過ぎてようやく山を下り、アンタラーヴァ国に着いた。
[註]

【アンタラーヴァ国】
今日のアンタラーブ峠から西進してドーシ川に沿う地域で、かつて10世紀にトリハリスターン第3の都市であったという。玄奘はヴリジスターナからカピシー国を経て北進し、パンディ峠かサラン峠付近を越えてこの地に達したのであろう。


トカラの諸国
5~6日を過ぎてようやく山を下り、アンタラーヴァ国に着いた。ここはトカラの故地で、伽藍3か所、僧徒数十人がおり、大衆部の法を学んでいた。この地もアショカ王の建てたストゥーパが一つあり、玄奘はここに5日間滞在した。
この国から西北に山を下ってゆくこと400余里でコーシタ国に着いた。ここもトカラの故地である。
さらに西北に山道を300余里進んでクンドゥズ国に到った。この国はオクサス河の側にあり、トカラの東界をなしている。都城は河の南岸にあり、ここで玄奘はヤブクカガンの孫に謁見
(えっけん)した。彼はトカラの王となって自らヤブクと名のっていた。玄奘は可汗(かがん)の元に一か月滞在し、やがてヤブカの護衛に送られて出発した。
商人と共に2日間東行してムンカン国に到った。その近辺にアリニ国、カラーグ国、クリスマ国、パリカ国などがあるが、いずれも皆トカラの故地であるという。

ムンカン国から東方に山道を300余里進むとヒマタラ国である。ここもトカラの故地で、風俗は突厥
(とっけつ)によく似ており、異なっているのは婦人の冠(かんむり)である。この冠は高さ3尺余りの木製の角(つの)型で、前に二つの岐(えだ)があり、その人の父母を表わしている。上の岐は父を表わし、下の岐は母を表わしていて、もしどちらかが死亡すると一岐を除き去るのである。もし舅(しゅうと)と姑(しゅうとめ)が共に死んでしまえば、この冠は皆棄(す)ててしまう。
ここから東行200余里でバダクシャーン国に到った。ここもトカラの故地である。寒さと雪のため、玄奘はここに一月余り滞在した。
[註]
【アンタラーヴァ国】
今日のアンタラーブ峠から西進してドーシ川に沿う地域で、かつて10世紀にトリハリスターン第3の都市であったという。玄奘はヴリジスターナからカピシー国を経て北進し、パンディ峠かサラン峠付近を越えてこの地に達したのであろう。
【コーシタ国】闊悉多国。クンドゥズ川の一支流ホスト川の上流部。今のナーリン付近であろう。
【活国】今のクンドゥズ。要塞の意。活国は西突厥の重要な根拠地の一つで、かつて葉護可汗の長男タンドシャが国王となり、高昌国の妹がカガトン王妃になっていた。その王妃の死後、王はうら若い王妃を娶ったが、彼女は王の長男に頼まれて王を毒殺し、新たに長男が王となり、若い王妃を妻とした。既に往路で玄奘はこの悲劇を見聞していたが、彼は帰国の時高昌国に3年留まることを高昌王に約束していたので再びここに立ち寄ったのであろう。ところが、ここで彼は貞観14年(640)に高昌は唐に滅せられたという悲しいニュースを聞いた。そこで、高昌を再訪する必要はなくなり、彼は南路を東進して帰国することを決意したものと思われる。
【ヤブクカガン】葉護可汗。
【ヤブク】葉護。
【ムンカン国】瞢健国。クンドゥズの東100余里(40㎞)で、恐らくクハナバード付近か。ただし現在ではムンカンに近い地名はこの付近にはない。ムンカン国に続いて四つの伝聞国の名がみえる。この4つの伝聞国はアム川右岸の交通路、この道は唐代には盛んに用いられ、例えば悟空、慧超など多くの巡礼僧が利用した道であったが、それを仄示(しきじ)しようとしたのかもしれない。
【アリニ国】阿利尼国。クンドゥズ北方約42㎞。
【カラーグ国】曷邏胡国。バダクシャーンの首邑の北方のラーグか。
【クリスマ国】訖栗瑟摩国。現在のカシムとフェイザバードの間にあり、コチャ川に沿う村。
【パリカ国】鉢利曷国。タリカン北方、アム川右岸のパルカルガ、あるいはアム川曲部最北端カライクン東南方のパーラカハルである。
【ヒマタラ国】泗摩怛羅国。雪山下の意。ヒンドゥシュク山脈の支脈であるクワジャ・ムハンマッド山脈北端近くの村。現在、クンドゥズからファイザバードの街道上に比すべきであろう。距離上から見るとアティン・ジラオが最も妥当性がある。ここの住民はエフタルの遺民と認められ、今後の民族学的調査が待たれる。
【バダクシャーン国】鉢創那国。その都城は今のバダクシャーンのファイザバードであろう。


パミール高原を越えて
バタクシャーンから東南方へ山道200余里でインヴァカン国に着き、さらに東南に険路を行くこと300余里でクラナ国に到った。ここから東北方へ山道を行くこと500余里でダルマスティティ国に到った。この国は2つの山の間にあり、ヴァクシュ河に臨んでいる。形が小さくて、しかも健やかな善馬を産する。風俗は礼儀を知らず、性凶暴で形も醜悪
(しゅうあく)であり、眼は碧緑(へきりょく)色の人が多く、他の諸国と異なっている。伽藍は10余か所にあり、その国都はガンタータ城である。城内に先王の建てた伽藍があり、その中に石の仏像があるが、不思議なことに、上に雑宝で飾った金銅の円蓋(えんがい)があって、自然に空中に浮かんで仏像の頂にかかっている。もし人が礼拝して像の周りを回ると、円蓋も共に回り、人が止まると円蓋も止まって、その霊妙なことは測ることができない。
この国から大山を越えて北方のシグニ国に行き、一旦ダルマスティティ国に帰ってからシャミ国に赴いた。

ここからまた東方に山道を進むこと700余里でパミール川に到った。この川は東西1000余里、南北100余里で二つの雪山の間にあり、葱嶺(そうれい)の中にあって風雪が吹きまくり、春夏になっても止まない所である。その地は至って寒いので、草木も極めて少なく、穀物も実らない。この付近一帯は蕭条(しょうじょう)として人影も見ない所である。河谷の中に大龍池があり、広さは東西300里、南北50余里でジャンブ洲の中心である。地勢は高く険しく、遠望すると茫漠(ぼうばく)として果てる所を知らない。水中動物が数千種も一万種も住んで、鳴き声もかしましく、まるで職人百工の町のようである。また色々の鳥がおり、中に高さ丈余の鳥がいて、その卵は瓶(かめ)のようであり、昔「条支(じょうし)の巨卵」と言ったのは、あるいはまさにこの卵を指したのであろう。池の西から一河が流出し、西方ダルマスティティ国の東界でヴァクシュ河と合流して西流し海に注いでいる。それ以西の諸川も皆共に合流している。また、池の東からも一大河が流出し東方に流れて、カシュガルの西界に到り、シーター河と合流して東流し海に赴いている。
河谷の南山の外にバローラ国があり、金銀が多くあり、金色に輝いて火のようである。またこの大龍池の南北は仏典の阿耨池
(あのくち)に相当する。
この河谷から東方に出て危険な道を登り、雪を踏んで行くと500余里でカツバンダ国に着く。城は峻嶺
(しゅんれい)の上に建てられ、北側にシーター河が流れている。その河は東方に流れて遥か彼方の塩沢に入り、その後地下を潜流して積石山に出て中国の河源黄河の源流となっているのである。カツバンダの王は聡明で、建国以来代々相継いで多くの年月を経た。自らもチーナデーヴァゴートラであると言っている。
王の故宮に今は亡き尊者クマーララータの伽藍がある。尊者はタクシャシラー国の人で、極めて俊才英明な人であったと言われ、毎日3万2千言を暗誦(あんしょう)し、3万2千字を書き、もろもろの法に通じ、著述も盛んに行った。そして、数十部の論を書き、いずれも盛んに世に行われたという。すなわち経部の祖師である。当時、「東に馬鳴あり、南に提婆あり、西に龍猛あり、北に童寿あり、号して四日と言い、よくこの世の惑いを照らしている」と言われた。このように、クマーララータの名声が余りに高かったので、先王が自らタクシャシラー国を討伐し、彼をこの国に迎えて供養したのであるという。
城の東南300余里に大岩壁があり、そこに二つの石室がある。中におのおの羅漢が滅尽定
(めつじんじょう)に入っている。羅漢は端坐(たんざ)して動かず、見ると瘠せた人のようで、すでに700余年を経ているというが、凝然(ぎょうぜん)として朽ち倒れないでいる。玄奘はこの国に20余日滞在した。
ここから東北へ5日進んで行くと山賊に遭遇した。商人たちは恐れおののいて山に登ってしまい、インドからついてきた象は賊に追われ、水に溺れて死んでしまった。玄奘は、賊が去ってから後、ようやくまた商人たちと一緒になり東方へ下って行った。寒さを冒(おか)し険路を踏んで800余里進むと、ようやく葱嶺を出てウサ国に到った。
[註]
【バダクシャーン国】
鉢創那国。その都城は今のバダクシャーンのファイザバードであろう。
【インヴァカン国】淫薄健国。多くの人がヤムガーンに比定する。
【クラナ国】屈波拏国。今のクラン川の上流を指す。この地域はアンジュマン峠を経てワハン地方からカシピー国への捷路(しょうろ)なので、唐代はしばしば利用されていたらしく、『新唐書』にも表れる。
【ダルマスティティ国】達磨悉鉄帝国。また護密と名づける。法の位置の意。恐らくヌリスタン山脈の北端を越えてゼバク経由イシュカシムに達したのであろう。都城カンダータはイシュカシム、今日もカンドゥドと呼ばれるという。ダルマスティティの名の由来はワハン渓谷の南部がダルママスツージと呼ばれ、それが地域名になったという。
【ヴァクシュ河】縛芻河。
【ガンタータ城】昏駄多城。
【シグニ国】尸棄尼国。イシュカシムの北方約100㎞のホログからアリチュル川流域にかけての地域。今もシグナーンと呼ばれる。伝聞国であろう。
【シャミ国】商弥国。今のチトラル付近。今のチトラル及びマスツージ地方。この国も伝聞国であろう。
【パミール川】波謎羅川。河谷の意。
【ジャンブ洲】贍部洲。
【シーター河】徙多河。ヤルカンド河の源流。
【バローラ国】鉢露羅国。今のバルチスタン。
【カツバンダ国】渇槃陀国。山道の意。今のタシュクルガン(山の意)を中心とする地域。唐代に中国の勢力はここまで伸び、ここに葱嶺守捉を置いていた。ヤルカンド河の上流に当たり、東方に向かえばヤルカンド、カルガリク、北方に向かえばカシュガルに達する。キリシア時代からパミール越えの中継地として知られた東西交通上の要衝。
【チーナデーヴァゴートラ】脂那提婆瞿怛羅。唐では日天種という。
【クマーララータ】童寿論師。
【タクシャシラー国】怛叉始羅国。タキシラ国。
【ウサ国】烏煞(+金偏)。この国の位置は様々な説があり、ヤンギ・ヒッサール南部のイギス・ヤル、あるいはヤルカンドなど未決定である。法顕、宋雲ら多くの入竺僧がこの道によっている。恐らく玄奘もこの道を東行したのであろう。もっとも、近年、ウサはフンザに比定されることが多くなり、これによれば玄奘はフンザからミンタカ峠かキリク峠を経てタシュクルガンからヤンギ・ヒッサール方面に到ったと考えられる。


ウサ国
ウサ国の城の西200里に大山があり、岩峰は非常に険しく、上にストゥーパがある。この塔には次のような伝説がある。

数百年前、雪と地震で山が崩れたことがあった。ところが、山の中に一人の瘠せた身体の大きな比丘が瞑目
(めいもく)して座っていた。しかも、その髪の毛は黒々と垂れて肩を覆っていた。樵(きこり)がこれを見て王に報告し、やがて王は自らやって来て礼拝した。人々は皆聞き伝えて遠近から集まり、それぞれ供養を述べ、花は山のように捧げられた。王は傍らの僧に、「これは一体誰か。」と尋ねると、僧は次のように答えた。
「これは出家した羅漢が滅尽定
(めつじんじょう)に入ったものでございます。歳月が久しく経ったので、このように髪が長いのです。」
「何とか驚かして起こすことはできないか。」
「断食の身体は、定
(じょう)を破るとたちまち壊れてしまいます。まずヨーグルトをよく注ぎ、皮膚を潤し、それから楗槌(けんつい)を打てば感じて我々の意を悟り、あるいは立つかもしれません。」
「そうだ、それが良い。」

僧は王の言葉に従って羅漢にヨーグルトを注ぎ、槌を打った。すると、果たして羅漢はふと目を開けてこちらを見た。
「汝らは何か。」
「私は僧侶です。」
「私の師カーシャパ如来は今どこにおいでになるか。」
「カーシャパ如来はずっと昔に涅槃に入られました。」

羅漢はこれを聞いて愁然
(しゅうぜん)としたが、重ねて次のように尋ねた。
「シャーキャムニ仏はまだ無上等覚
(むじょうとうがく)を成し給わぬか。」
「シャーキャムニ仏は既に無上等覚を成ぜられ、普く万物を利せられ、すでに亡くなられました。」

これを聞くと、かの羅漢はしばらく目を伏していたが、やがて手で髪を上げ、つと立つと、見る間に虚空
(こくう)に舞い上がり、大神変(しんぺん)を起こした。すなわち火を燃え上がらせて身体を焼き、やがてその遺体は地に落ちてきた。

王は大衆と共にその骨を集め、そこに建てたのがこのストゥーパであるという。

[註]
【ウサ国】
烏煞(+金偏)。この国の位置は様々な説があり、ヤンギ・ヒッサール南部のイギス・ヤル、あるいはヤルカンドなど未決定である。法顕、宋雲ら多くの入竺僧がこの道によっている。恐らく玄奘もこの道を東行したのであろう。もっとも、近年、ウサはフンザに比定されることが多くなり、これによれば玄奘はフンザからミンタカ峠かキリク峠を経てタシュクルガンからヤンギ・ヒッサール方面に到ったと考えられる。

【カーシャパ如来】迦葉波如来。
【シャーキャムニ仏】釈迦文仏。