南インド

チャンバー国
イーリナパルヴァタ国からガンガー河の南岸に沿って東方に進むと、300里余りで瞻波国
(チャンパー国)に着いた。ここには伽藍10か所があり、僧侶は200余人で小乗教を学んでいた。この国の城壁の煉瓦(れんが)は高さ数丈もあり、基礎が深く入り込んでいてなかなか堅固な造りであった。伝説によれば、昔天地開闢(かいびゃく)の頃の人は、皆地の穴に住んでいた。後ある天女がこの世に舞い降り、ガンガー河に遊んで水浴していた。その時、水霊が天女の身に触れて4人の子を生んだ。彼らはそれぞれ瞻部州(ジャンブ州)を分割統治し、境界を分けて町を建設した。このチャンパー国はその一人の都であったという。国の南境数十由旬(ゆじゅん)に大きなジャングルがあり、鬱蒼(うっそう)として200余里も続いている。その間に野象が多く住み、数百頭が群れをなしている。そこでイーリナパルヴァタ、チャンパーの両国は軍象が最も多い。いつもこのジャングルの中に調象師を派遣して象を捕えさせ、この国の乗用に当てている。また、ここは山犬(やまいぬ)(サイ)黒豹(くろひょう)なども多く、人も敢えて行く者がいない。

相伝えて言うには、昔釈尊がまだこの世に現れぬ時、一人の牛飼いがいた。数百頭の牛を放牧し、追ってジャングルの中に入った。するとある牛がいつも群れを離れて一匹でどこかへ行ってしまい、常に所在が分からない。日が暮れて帰ろうとすると、いつの間にか帰って来てグループの中にいた。そして身体はキラキラと輝いて、啼
(な)き声もいつもと異なっている。他の牛も皆恐れて、その牛の前には行かない。このようなことが毎日続いたので、ある日とうとう牛飼いもその訳を怪しみ、秘かに監視していた。その牛はしばらくすると何処かへ去ってゆく。牛飼いが追跡してゆくと、遂にその牛は一つの大きな岩石の孔(あな)に入り込んだ。牛飼いもその後に続いて入って行くと、4~5里ばかりで豁然(かつぜん)と明るくなり、野も林も燦々(さんさん)たる陽光を浴びて、見かけぬ花や果物が溢(あふ)れるように並んでいた。とてもこの世のものと思われない。かの牛はそこで草を食んでいる。草は色も香りも美しく、これまたこの世のものではない。牛飼いが辺りの果樹を見ると、皆金のような黄赤色で、香しく大きな実が下がっているので、その一つを取った。彼は無性(むしょう)に食べてみたかったが、余りの不思議さに恐れて敢えて食べなかった。しばらくして牛も帰り出したので、牛飼いもその後に従って帰りかけた。ところが岩石の孔に近づくと、一匹の悪鬼(あっき)がいて、その果実を奪い取ってしまった。
村に帰ってから牛飼いはある名医にその話をし、果物の有り様を告げた。するとその医者は、「それは食べてはいけない。何とかしてそれを一つ持って出てきなさい」と言った。そこで次の日、また彼は牛と一緒にその孔に入り、帰途一つの実を取って懐
(ふところ)に入れ、帰ろうとした。するとまた悪鬼が出て来て、その実を奪い返そうとした。慌てた彼は果物を口に入れたが、悪鬼は喉(のど)を掴(つか)んで放さない。そこで咽(むせ)んだ彼はとうとう果物を飲み込んでしまった。すると、身体が非常に大きくなり、石の孔から頭だけは出ても体は出すことができなくなり、とうとう帰れなくなってしまった。
その後、家の人が訪ねて来て、彼の身体がすっかり変わってしまったのを見て大いに驚き恐れた。しかし、彼はまだよく話ができ、そうなった理由を説明した。そこで家人は家に帰って多くの人夫を集め、彼を助け出そうとした。しかし、どうやっても移動させることができなかった。やがて国王もこの話を聞いて、自らそこへやって来てこの有り様を見、後々患
(わずら)いとなることを心配して、命令してこの石を掘り取ろうとした、が動かすことができなかった。それから多くの年月が流れて、遂に牛飼いは変じて石になってしまい、その石は今も人の顔をしている。
後世の王は、彼が仙果
(せんか)のために石に変えられてしまったことを知って、家来に「彼は薬によって身体が変わってしまったという。すなわちこの身は薬である。見れば石に過ぎないが、この体は今や神霊である。人を遣わして槌(つち)と錐(きり)で少し削り取って持って来させよ」と命じた。そこで家来は王命により、石工と行って懸命に石を削り取ろうとしたが、十日余りやっても一片も取れなかったという。

その石は今もそこに残っていた。

[註]
【チャンバー国】
瞻波国。中インドの境、モンギールの東南東、今のバーガルプール近くにチャンパナガラとチャンパプラという二つの村があり、それが首都の跡。インド16大国の一つアンガ国。インドシナ半島のチャンバ国(占波国)もこの国の移民によって形成されたと考えられている。
【カーマルーパ】迦摩縷波国。
【瞻部】ジャンブ。


カジャンガラ国
ここから東行すること400余里でカジャンガラ国に着き、聖跡を巡礼した。ここは伽藍が6~7か所あり、僧徒
(そうと)が300余人いた。
[註]
【カジャンガラ国】羯朱嗢祇羅国。中インドの境。ブハーグラプルの東南東約130㎞、ガンガー河の西岸のラジマハルに推定される。


プールナヴァルダナ国
ここから東方へガンガー河を渡り、600余里進んでプールナヴァルダナ国に到り、聖跡を巡礼した。ここには伽藍が20余か所あり、僧3000余人がいて大小乗を共に学んでいた。都城の西20余里にヴァシバー伽藍があり、寺院の造りは高大で、僧侶が700人いた。その側にアショカ王の建てたストゥーパがあり、ここは昔如来がやって来て3か月説法された所であるといい、時に光明を放っている。また過去四仏がやって来た跡があり、その側の寺院の中には観自在
(かんじざい)菩薩の像があって、真心込めて祈願すれば叶わぬ願い事はないという。
[註]
プールナヴァルダナ国】
奔那伐弾那国。南インドの境。その位置は東パキスタンのタジシャヒ、ボーグラ付近と推定され、その都城はボーグラの北約11㎞のマハースターンに推定されている。
【ヴァシバー伽藍】
跋始婆。


カルナスヴァルナ国
この国から東南に行くこと900余里でカルナスヴァルナ国に到った。ここには伽藍が10余か所あり、僧侶は300余人で、小乗正量部(しょうりょうぶ)の法を学んでいた。他に3つの伽藍があって、ここの人はヨーグルトを食べない。この人々はデーヴァダッタの遺教を奉じて食べないのである。都の側にラクタムリツティカー僧伽藍がある。ここはかつてこの国にまだ仏教が行われていなかった時、南インドの僧がこの国に遊び、鍱腹(ようふく)外道を論破したので、国王が建てた寺という。その側にもアショカ王の建てたストゥーパがあり、ここは昔釈尊が7日間説法された所であるという。
[註]
【カルナスヴァルナ国】羯羅拏蘇伐刺那国、金耳国の意。東インドの境。ガンジス川西岸のラーンガーマティに推定されている。
ヨーグルト】
乳酪。
【デーヴァダッタ】
提婆達多。
【ラクタムリツティカー僧伽藍】
絡多末知。唐では赤泥という。
【鍱腹外道】
学芸多能のため腹が破れぬよう腰に銅鍱を巻いた故事。


サマタタ国
ここから東南方に進んでサマタタ国に到った。この国は大海に臨み、気候も温和である。ここには伽藍が30余か所、僧徒は2000余人おり、上座部
(じょうざぶ)を学んでいる。また天神(てんじん)を祭る外道も多かった。城の近くにアショカ王のストゥーパがあり、ここは昔釈尊がもろもろの人や天人(てんにん)のために7日間説法された所である。ストゥーパから余り遠くない所に伽藍があり、中に高さ8丈の青玉の仏像があって、その相好(そうごう)はなかなか端厳(たんげん)であった。この像はいつも自然に妙なる香りがし、その香気は院内に満ち、像から発する五色の光は時に天を照らしていた。そこで、この像を見聞した人は皆深く道心を発するのであった。
[註]
【サマタタ国】三摩怛托国、海兵国の意。東インドの境。今の東パキスタンのガンジス河口の三角州地帯に当たる。その都城は種々の説があるが、近年はダッカ東方、コミッラの西約19㎞のバード・カームタに推定されている。


タームラリプテイ国
このサマタタ国から西方へ900余里行くとタームラリプテイ国である。この国も海に近く伽藍は10余か所あり、僧徒は1000余人いる。城の側に高さ200余尺のストゥーパがあり、アショカ王の建てたものである。この塔の側に過去四仏が来られた遺跡がある。
この国で玄奘は遥か南方海上にシムハラ国という国があり、そこでは上座部(じょうざぶ)の三蔵を明らかにし、『瑜伽論』を理解する者がいる。その国へは海路700由旬で達するであろうという話を聞いた。
ところが、出発前に玄奘は南インドの僧に会った。「シンハラ国に行くには普通船では行きません。海上に暴風、荒海や薬叉
(やしゃ)、鬼神(きじん)などの難が多いからです。南インドの東南隅から行けば、船に乗って3日で行き着くことができます。そこまでは山川を跋渉(ばっしょう)してゆかねばなりませんが、ともかくずっと安全です。しかも途中、烏茶(ウダ)などの諸国の聖地を見ることができます」と勧めてくれた。
[註]
【タームラリプテイ国】耽摩栗底国。東インドの境。ガンガー川河口の西端のタムルークに比定される。古来ベンガル湾海上交易の重要な中継基地として活躍していたので、西方にも名が知られる。
【シンハラ国】僧伽羅国。執師子国と訳し師子国と略す。今のセイロン島(スリランカ)のこと。ここはインド洋の中央にあって、航海上、皆に注目され、極めて重要だったので異称も多い。ギリシア史料のタプロバネー、その他ラトナ・ドヴィーパ(宝州)、ヴァラ・ドヴィーパ(婆羅州)、マンダ・ドヴィーパ(慢陀州)、ランカー(楞伽)など。


ウダ国
そこで玄奘はさらに西南に進んで烏茶国に向かった。この国には伽藍が100余か所、僧徒が1万余人もおり、大乗の法を学んでいた。また天神を祀(まつ)る外道もおり、正邪の徒が雑居していた。ここにはストゥーパが10余か所にあり、皆アショカ王の建てたもので、今でも霊験が時々起るという。この国の東南境にインド洋に臨んでチャリトラ城がある。そこは海路につこうとする商人や遠方からやって来た旅人が行き来し、滞在する港町である。彼のシンハラ国はこの町から南方2万余里にあると言われ、静かな雲のない夜に遥かに南方を望むと、常にシンハラの仏牙ストゥーパ上の宝珠が煌々(こうこう)と光り輝き、その状況はまさに空中の星の光のようであるという。
[註]

【ウダ国】烏茶国。ウダ国は今のオリッサー州、東インドの境。北部に推定され、その都城はカタック、ミドナポール、ジャジプール、ヤジャプールなどの各地に当てられている。
【チャリトラ城】折利怛羅国。これは発行という。ウダ国の東南海岸にあって、セイロン交易の要港という。カタックの下流24㎞のネンドラに当てる説もある。


コーンゴーダ国
ここから西南方に大きなジャングルの中を進んで行くと1200余里でコーンゴーダ国に到る。
[註]
【コーンゴーダ国】
恭御陀国。東インド。今のオリッサに当てられる。都城は今のガンジャーム市付近のジャウガダに推定される。


カリンガ国
さらに西南へジャングルを行くこと1400~1500里でカリンガ国に着く。ここには伽藍10余か所、僧500余人がおり、上座部
(じょうざぶ)の法を学んでいる。この国はかつて人口は極めて多かったが、一人の五通仙人をからかったため、仙人は大いに怒って、悪呪(あくじゅ)で国人を殺そうとし、そのために老いも若きも死んでしまった。その後、国民はあちこちから移り住んできているが、今なおま充実していない。
[註]
【カリンガ国】
羯夌(食偏+)伽国。南インドの境。ガンジャムから南はゴダヴァリー河までの間を指す。都城はゴダヴァリー下流のラージャマ、カリンガナガラ、ムカリンガム、スリーカクラムなど多くの説がある。


南コーサラー国

ここから西北へ行くこと1800余里で南コーサラー国に着いた。
その王はクシャトリヤで仏教を崇敬し学芸の愛好者である。ここには伽藍が100か所、僧徒が1万人おり、天神を祀
(まつ)る外道もまたすこぶる多かった。城の南方の余り遠くない所に、古い伽藍があり、傍らにストゥーパがあった。これもアショカ王の建てたもので、昔釈尊はここで大きな奇蹟を行い、外道を降伏させたという。
その後、ナガールジュナ菩薩がこの伽藍に滞在したことがあった。
当時、この国の王はシャータヴァーハナといい、龍猛
(りゅうみょう)菩薩を厚く敬って、恭しく丁寧にもてなした。その時、シンハラ国からデーヴァ菩薩がやって来て龍猛と論争したいと思い、門前に来て「通してください」と頼んだ。門番はこの旨を龍猛に伝えると、彼はもちろんデーヴァの名を知っており、遂に鉢に満々と水を汲んで、弟子にデーヴァの前に持って行かせた。デーヴァはこれを見て、黙って鉢の中に針を投げ入れた。弟子が再びこの鉢を持って帰ると、龍猛はそれを見ていたく喜び「水をこの鉢に満たしたのは、私の徳になぞらえたのである。ところが、彼はこれに針を投げ入れ、遂に底を窮めた。このような人こそ、共に道を論じ深奥を語り合い、伝灯を嘱することができよう」と言い、デーヴァを引き入れさせた。
彼が座に着くと、二人は何回も語り合い、二人共どもに喜んだ。それはまさに魚が水を得たようなものだった。龍猛はデーヴァに向かって、「私はもう老衰してしまった。仏法を光り輝かせるのは貴方の仕事だ」と言い、デーヴァは席を外して龍猛の足に礼し、「私は不敏ですが、敢えて慈誡
(じかい)を受けさせてください」と言った。
この国には因明
(いんみょう)に精通したバラモンがいたので、玄奘はここに一月余り滞在して『集量論』を研究した。
[註]
【南コーサラー国】南驕薩羅国。中インドの境。普通コーサラ国というと舎衛城を中心とする北インドの国を指す。これは中インド内陸部の国なので、『慈恩伝』は南コーサラ国とする。領域、都城倶に疏泄があるが、領域はマハナディ川の上流地方とし、都城はライプール北東約60㎞のアラングから約24㎞のシルプールに比定される。
【ナガールジュナ菩薩】
龍猛(りゅうみょう)、龍樹菩薩に同じ。
【シャータヴァーハナ】
沙多婆訶。唐に引正という。
【集量論】
(しゅうりょうろん)


アンドラ国
ここから南方にある大きなジャングルを東南方へ900余里行くとアンドラ国に到った。城の側に大伽藍があり、宏壮(こうそう)で荘厳も立派である。その前に石のストゥーパがあり、高さは数百尺で、アーチャーラ阿羅漢の建てたものである。羅漢の伽藍の西南20余里に孤立した山があり、上に石のストゥーパがあってここはディンナーガ菩薩が『因明論』を作った所である。
[註]
【アンドラ国】
安達羅国。南インドの境。その領域はゴダヴァリー河からクリシュナ河の間の地方。都城ヴェーンギラ(瓶耆羅)は今のエロールの西北約10㎞のペーダヴェギー、チンナヴェギー両村付近とする。
【アチャーラー阿羅漢】
阿折羅。唐に所行という。
【ディンナーガ菩薩】
陳那。唐に授という。
【因明論】
(いんみょうろん)


ダーニヤカタカ国
この国から南行すること1000余里でダーニヤカタカ国に到った。
城の東方の山にプルヴァシャイラ僧伽藍があり、城の西方の山にアヴァラシャイラ僧伽藍がある。これらはこの国の祖先の王が仏のために建立したものである。構造は大建築の様式を極め、庭園はこの上なく秀麗で、天神が保護し、多くの賢聖
(けんせい)がここに住んでいた。仏涅槃(ねはん)後1000年間はいつもこの中に1000人の凡僧(ぼんそう)がいて、共にやって来て安居(あんご)し、安居が終わると皆羅漢となり、虚空を飛んで去ったという。1000年後には凡僧と聖僧が共に同居していた。ところが、今から100余年前から、山神が性質を変えて旅人を苦しめるようになり、人々は皆畏怖の念を生じて、敢えてこの山に入る者はなくなってしまった。そのため、今は悉く荒れ果て、寂(せき)として一人の僧侶もいない。
城の南方、程遠からぬ所に一つの大きな石山がある。ここはバーヴィヴェーカ論師が、アスラ宮に住んで慈氏
(じし)菩薩の成仏を待ち、疑いを決しようとした所である。
玄奘はこの国で次の二人の僧に会った。一人はスブフーティといい、もう一人はスールヤといい、共によく大衆部
(たいしゅうぶ)の三蔵を理解していた。そこで玄奘はここに数か月滞在し、大衆部の『根本阿毘達磨』などの論を学んだ。彼らもまた玄奘について大乗の諸論を学び、遂に志を同じくして、一緒に聖跡を巡礼することになった。
[註]
【ダーニヤカタカ国】駄那羯磔迦国。南インドの境。クリシュナ河の河口付近の国。都城はクリシュナ河南岸のパラニコッタ付近という。
【プルヴァシャイラ僧伽藍】
弗婆勢羅。唐に東山という。
【アヴァラシャイラ僧伽藍】
阿伐羅勢羅。唐に西山という。
【バーヴィヴェーカ論師】
婆毘吠迦。唐に清弁という。
【アスラ宮】
阿素洛。
【スブフーティ】
蘇部底。
【スールヤ】
蘇利耶。
【根本阿毘達磨】
(こんぽんあびだつま)


チョールヤ国
ここから西行すること1000余里でチョールヤ国に到った。城の東南にアショカ王の建てたストゥーパがあり、ここは昔釈尊が大神通力を示し、外道を調伏(ちょうぶく)して法を説き、人や天人を済度(さいど)された所である。城の西に古い伽藍がある。
ここはかつてデーヴァ菩薩がこの寺のウッタラ阿羅漢と議論した所である。その時、羅漢は第7問以後答えることができなかった。そこで彼は秘かに神通力で忉利天
(とうりてん)に行き、慈氏(じし)菩薩に問うた。菩薩は彼のために講釈してやり、「あのデーヴァという者は既に久しく功を積んでおり、まさに賢劫(けんごう)においで仏になる男である。そなたは軽んじてはいけない」と言った。そこで引き返して来た彼は、先の難問を解くと、デーヴァは「これは慈氏菩薩の解釈で、貴方自らの頭では到底得られない解である」と言ったので、羅漢はすっかり恥(は)じ入って席を避け、礼拝して謝ったという。
[註]
【チョールヤ国】珠利耶国。南インドの境。今のペンネ流川からヴェラル河に到る海岸地方が領域だが、玄奘時代は特にパラヴァ朝に属し、ペンネル川流域が主体で、都城はネロールに比定される。
【ウッタラ阿羅漢】嗢怛羅。唐に上という。


ドラヴィダ国
ここから南方へ大きな林を経て1500~1600里進むとドラヴィダ国で、その大都城はカーンチープラという。カーンチープラ城は南インドの海港である。ここからシンハラ国に向かえば、船旅3日で行くことができる。
玄奘がまだ出発しないうちに、シンハラ国の王が死に、国内は飢饉に乱れてしまった。このため大僧正
(だいそうじょう)ボーディメーゲーシュヴァラ、アヴバーヤダンシュトラ等を初め、300余りの僧がインドに逃れ、カーンチープラにやって来た。
玄奘は彼らと会見して次のように尋ねた。「伺うところによると、シンハラ国の大徳らは上座部の三蔵と『瑜伽論』をよく知っておられるとか。今私はかの地へ行って勉強したいと思います。貴方方はどうしてここへ来られたのですか」。「シンハラ国の国王が亡くなられて、人民は飢饉に苦しみ、我々も依存できるところがない。そこで我々はジャンブー州が豊楽
(ほうらく)
安穏で釈尊の生まれた所であり、もろもろの聖地も多い所と聞いてやって来たのです。また、法を知っている人々は、私たちより優れた人はいません。もし貴方が疑わしい所があったら、どうか意のままに質問してください」。そこで玄奘は『瑜伽』の重要な部分の一説を引いて質問してみたが、戒賢法師の解釈の右に出る者はなかった。
カーンチープラ城はダルマパーラ菩薩の生まれた所である。
菩薩はこの国の大臣の子で幼少のころから聡明であった。20歳を過ぎると王はその才能を愛し、自らの公主
(むすめ)を彼に妻(め)合わせようとした。ところが、菩薩は長い間欲を離れることを修行し、女性を愛する心は少しもなかった。そこで、結婚式の夕方には特に煩悶(はんもん)した。そのため彼は仏像の前で、仏の加護を祈請(きしょう)し、この難を逃れられるようお願いた。すると、彼の至誠(しじょう)が仏に通じたらしく、大神王がやって来て彼を背負い、城外数百里にある山寺の仏堂の中に置いた。やがて、この寺の僧がやって来て、彼を見つけ「盗賊」と言った。そこで、彼は自ら由来(ゆらい)を詳しく述べたので、話を聞いた人々は皆驚いて、その高潔な志を重んぜぬ者はなかった。そして、彼はこの寺で出家した。
その後は専ら正法の研鑚
(けんさん)に努め、遂によく諸部に精進し、多くの著述を著わした。すなわち『声明雑論』2万5千頌(じゅ)を作り、また『広百論』『唯識論』及び『因明』数十部を著わし、これらの書はいずれも盛んに広く読まれた。その徳深く才高きことは別の伝記に明らかである。
[註]

【ドラヴィダ国】達羅毘茶国。南インドの境。今のマドラス地方一帯を指す。首都カーンチープラは今のパラル河に面するコンジェクベラムという。ドラヴィダは南インド一帯に広がるタミール語族の総称として使われる。
【カーンチープラ】建志補羅。
【ダルマパーラ菩薩】達磨波羅。唐に護法とある。
【声明雑論】(しょうみょうぞうろん)
【広百論】
(こうひゃくろん)
【唯識論】
(ゆいしきろん)
【因明】
(いんみょう)


マラクタ国
ドラヴィダ国の国境から3000余里の所にマラクタ国があるとの話を聞いた。
この国は海岸沿いにあり、極めて異宝が豊かである。その城の東にアショカ王のストゥーパがあり、ここは昔如来が法を説き、大きな奇蹟を行って無数の人々を済度
(さいど)された所である。国の南に海に接してマラヤ山があり、涯谷(がいこく)は急峻である。山中には白檀香樹(びゃくだんこうじゅ)や栴檀儞婆樹(チャンダネーヴァ)があり、樹は白楊(はくよう)に似ていて冷涼で、いつも多くの蛇の棲処になっている。冬になって冬眠の時には別の木に移るのである。また、カルプーラ香樹があり、幹や枝は松に似ているが、葉や花果は異なっている。生の時には香りはないが、乾かしてから折ってみると中に香りがあり、その形は雲母(うんも)のようで、色は氷雪の如くである。これがいわゆる龍脳香(りゅうのうこう)である。
聞くところによると、東北方の海岸に一つの町があり、ここから東南へ3000余里でシンハラ国に着く。国の周囲は7000余里、都城は周囲40余里で、人口も戸数も多く穀物も盛んに取れるが、人々は肌が黒く背が小さく、一般に粗暴である。この国は宝石の島であって、多くの珍奇な宝石がある。

ある時南インドのある娘が隣の国に嫁入りしようとした。ところが、途中でライオンの王に遭い、見送り人は皆驚いて逃げ帰ってしまった。そこで、娘はただ一人車中に残っていると、やがてライオンはやって来て娘を背負って去り、遠く深山に入って彼女のために果物を取ったり鳥を捕まえたりして食事をさせた。こうして久しい歳月が流れ、男児と女児が育て上げられた。形は人に似ているが、性質は極めて暴悪である。男児は成長すると、「私は一体何の類
(るい)なのですか。父が獣で母が人間とは」と母に尋ねた。そこで、母は彼女が隣国へ嫁入りの途中、ライオンに奪われた昔の有り様を述べた。するとその男児は「人間と畜生は全く異なったものであるのに、どうして母上はライオンを捨てないで世話しているのですか」という。母は、「私としても帰りたい心がないわけではない。ただどうしても免(まぬが)れる術(すべ)がないのです」と答えた。その後、男の子は父の跡を追って山谷を歩き回り、その経路を知るようになった。
ある日、彼は父が遠くへ行ったのを見はからい、母と妹を背負ったり連れたりして人里に出、母の本国に赴いて祖父母を訪れたが、すでに一門は死に絶えてしまっていた。そこで、その村里に寄宿していた。一方ライオンは帰ってみると妻子がいないので憤怒
(ふんぬ)して山を降り、人里に咆吼(ほうこう)し、道行く人々に襲いかかって多くの被害を出した。人々は困ってしまって、このことを王に奏上(そうじょう)した。そこで王は軍を率い、勇猛の士を募ってライオンを囲み射殺しようとしたが、これを見たライオンの咆吼はすさまじく獅子吼(ししく)したので、人馬は傾き落ちて、敢えて近づく者もない。毎日毎日そのようなことが続き、どうしてもライオンを倒すことができなかった。
そこで王は賞金を掲げて、「もしライオンを殺す者があれば、まさに億金を賜うであろう」と布告した。これを聞いた男の子は母に向かい「私たちは今や飢えと寒さで我慢できません。私は王の募集に応じようと思いますが、どうでしょうか」と言ったところ、母は、「いや、そなたは行ってはなりません。彼は獣であるが、そなたの父である。もしそなたが彼を殺せば、そなたはどうして人間と言えましょう」と諌
(いさ)めた。
しかし、その子は「しかし、もし私が行かねば、彼は決して去らないでしょう。あるいは私たちを訪ね求めてこの村にやって来るでしょう。そのことが一旦王に知られてしまえば、かえって私たちは殺されてしまいます。どうか止めないでください。何故ならば、ライオンが乱暴しているのは貴女や私のためです。どうして、我々のために多くの他人を悩ましたままでいられましょう。色々考えてみると、どうしても募集に応じた方がいいと思います」と言って、とうとう行ってしまった。
ライオンは彼の姿を見ておとなしくなり、すっかり喜んで乱暴する気配もない。その子は遂に研ぎ澄ました刀でライオンの喉
(のど)を裂き、腹をかき切った。こんな苦しみを加えても、かのライオンは慈愛の心が深く苦痛を堪えて動かず、とうとう息絶えてしまった。
王はこのことを聞いて大いに喜び、怪しんで尋ねた。「どうしてライオンは、そんなにおとなしかったのか」。彼は、最初は本当のことを話さなかったが、色々問い詰められ、とうとう真実をつぶさに語った。そこで王は「ああ、汝のような畜種
(ちくしゅ)でなければ、どうしてそんな心を持とうか。しかし、私は既に賞を送ると宣言したので、それに違(たが)う訳にはゆかぬ。しかし、そなたは父を殺したのである。人倫の道に背いた者は、我が国に置くことはできぬ」と言った。そして、官吏(かんり)に命じて多くの金宝を与え、彼らを外国に追放させた。すなわち船を2艘整えて多くの黄金や食料を積み込ませ、洋上遥かに見送って、海流によって漂流するままにさせた。男の子の船は漂流して、この宝の島に着き、珍宝が多いのを見て、彼はここに留まった。
後、商人が家族と共にこの島に宝を取りにやって来たので、彼はその商人を殺して婦女を引き留め、このようにして子孫を生み育て、その後、無数の歳月を経て人口はようやく多くなった。そこで、君臣の制を作り、その遠祖がライオンを執り殺したので「執獅子
(しゅうしし)」を国名とした。一方、女の子の船は漂流してペルシャの西に到り、鬼魅(きみ)に捕えられて多くの女を生み育てた。今の西大女国(せいたいじょこく)はすなわちその子孫である。
また、一説によると、シンハラとは商人の子の名で、彼は智慧が多かったので羅刹鬼
(らせつき)の害を免れ、後に王となることができ、この宝の島に来て羅刹(らせつ)を殺し、国都を建立し、自分の名を取ってこの国名としたという。この話は『西域記』に記述した。

この国は、昔仏法は行われていなかった。如来涅槃
(ねはん)の後100年の間にアショカ王の弟マヘーンドラは人間の欲望を捨てて四沙門果(しゃもんか)を得、空を飛んで往来してこの国に遊び、明らかに仏教を讃え奇蹟を示した。そこで、国人は彼を慕って伽藍を建て、現在100余か所にもなり、僧徒1万人がいて大乗及び上座部(じょうざぶ)の教えを行っている。僧侶たちは真面目で戒律を良く守り、互いに努力して怠る人もない。王宮の側に仏牙精舎(ぶつがしょうじゃ)がある。高さ数百尺で多くの宝で飾り立て、上に表柱を建ててパドマラーガの大宝石をその上端に置いてある。その光輝は空に映じ、晴れた夜に雲がなければ万里離れていても見ることができる。その側にまた寺院があり、雑宝で荘厳してある。内部に金の仏像があり、この国の王の先祖が作ったもので、髻(もとどり)に一つの宝珠があり、その価値は無量と言われている。

ある時、この珠を盗もうとした男がいた。ところが、造りが堅牢
(けんろう)なのでなかなか内部に入れない。そこで彼は地中に穴をあけ地下から室内に入って盗もうとした。しかし、仏像はなかなか背が高く賊の手は届かなかった。そこで、その男は「如来は昔、菩薩道を修め、もろもろの衆生のために身命を惜しまず、国城も惜しみなく人に与えたという。ところが今日になると何という堅固さか。どうもこの有り様を見ると、恐らく前世のことは事実ではなかったのであろう」と言った。すると像は身を曲げて賊に珠を与えた。その男はとうとうこの珠を持ち出し、市場に持って行って人に売ろうとした。
ところが、この珠を知っている人があり、その男を捕えて王の元へ送った。王がその珠を得た所を尋ねると、俗は「仏が自ら私に与えられたのです」と言って、一部始終を物語った。そこで、王が自らその場へ行ってみると、なるほど像の首はまだ低く下がっている。王は、この霊験
(れいげん)を見てさらに信心を発(おこ)し、もろもろの珍宝で賊からはその宝珠を買い取り、像の髻(もとどり)に返したという。ちなみにそれは今もなお現存している。

シンハラ国の東南隅にランカー山があり、多くの鬼神
(きじん)がここに住んでいる。昔、如来はこの山で『楞迦経』を説かれた。この国の南方洋上数千里にナーリケーラ洲がある。そこの人は背が低く、高さ3尺余りという。身体は人間だが口は鳥の嘴(くちばし)のようで、農耕を営まず椰子(やし)を食べているという。この国は洋上遥かにあり、私は行くことができなかった。人々の話によると、あらまし以上の通りである
[註]
【マラクタ国】
秝羅矩托(口偏)国。山の地方の意。インド半島南端部。南インドの境。インド半島の南端部を領域とし、都城はマドゥラに推定される。

【マラヤ山】秝刺耶山。
【栴檀儞婆樹】チャンダネーヴァ樹。
【カルプーラ香樹】羯布羅、樟脳。
【波斯】ペルシャ。
【マヘーンドラ】摩醯因陀羅。
【パドマラーガ】鉢曇摩羅迦。蓮華色のルビー。
【ランカー山】楞迦山。
【楞迦経】(りょうがきょう)
【ナーリケーラ洲】那羅稽羅。