バクトラからはプラジュニャーカラと共に南に進み、さらに東南方へ大雪山に入り、行くこと600余里でトカラの境を経てバーミヤン国に入った。
バーミヤン国の東西は2000余里で雪山の中にあり、その道路は氷河や砂漠よりはるかに危険である。雲は垂れ込め雪が降りしきって少しも晴れたことはない。ひどい所では数丈の雪が積もっている。昔、宋玉(そうぎょく)が「西方の難、増氷峨々(がが)として飛雪千里」と言ったのは、ここのことを指したのである。もし大衆のために真の仏法を求めるものでなければ、どうして父母から受けた大切な身で、こんな危険な旅路を歩くであろうか。
その昔、王遵(おうじゅん)は九折(くおり)の坂を登って、自ら「私は漢の忠臣である」と言ったという。それに比べれば、今玄奘は雪嶺(せつれい)を越えて経典を求めているのであって、まさに如来の真子(しんし)というべきである。このようにして、ようやくバーミヤンの都城に着いた。
ここは伽藍が十余か所、僧侶が数千人おり、小乗説出世部(しゅっせぶ)を学んでいた。バーミヤン王は一行を出迎え、王宮に行って供養したので、何日か滞在してから出発することにした。バーミヤンには摩訶僧祇部(まかそうぎぶ)の学僧、アールヤダーサとアールヤセーナがおり、共によく諸法の法義に通じていて、玄奘を見て遠方の中国にこのような僧がいることに驚嘆し、慇懃(いんぎん)に各地を一緒に礼拝して回った。
王城の東北方の山に、高さ150尺の立石像があった。像の東に伽藍があり、その東に鋳銅(ちゅうどう)製の釈尊の立像があった。高さは100尺である。伽藍の中には、釈尊の涅槃の臥像(がぞう)があり、長さは1000尺もあって、いずれも絶妙の荘厳である。
これから東南方に200余里行くと、大雪山を越えて小さな川に着く。そこに伽藍があり、中に仏歯と劫初の時の独覚の歯があり、長さ5寸、広さ4寸弱である。また長さ3寸、広さ2寸の金輪王(こんりんおう)の歯がある。さらに容量8~9升ばかりのジャーナカヴァーシーが持っていた鉄鉢や赤色のサンガーティ衣があった。ジャーナカヴァーシーは500年前、生まれ変わるたびにこの衣を着て母胎から出て来たが、後に変じて袈裟になったのである。
このようにして15日後にバーミヤンを出発した。
【註】
【梵衍那国】バーミヤン。ヒンドゥクシュ山脈とコヒ・ババ山脈に挟まれた峡谷。巨大な大石窟寺院で有名。
【宋玉】(そうぎょく)戦国時代、楚の詩人。
【王遵】(おうじゅん)漢の明帝が大月氏国に遣わした使者。
【小乗説出世部】小乗二十部の一根本大衆部よりの分派。
【阿梨耶駄婆】アールヤダーサ、唐では聖使という。
【阿梨耶斯那】アールヤセーナ、唐では聖軍という。
【独覚】十二因縁を観じて涅槃に悟入すること。
【商諾迦縛婆】ジャーナカヴァーシー。もと商那和修という。
【僧伽胝衣】サンガーティ衣。最外部に着る僧衣。
2日目に雪に降られ、迷って道が分らなくなってしまった。やがて小さな沙嶺(されい)に到り、猟師に会って道を教わり、黒山を通って迦畢試国(カピシー国)の国境に入った。国の周囲は4000余里で、北方は雪山を背にしている。王はクシャトリヤ種で、兵略に明るく威光があり、十数国を統治していた。その王都に着こうとすると、王は諸僧と共に一緒に城を出て迎えに来た。
ここには伽藍が百余所にあり、各自の僧は互いに相争って、それぞれ自分の住む所に玄奘を迎えようと欲した。たまたまシャーラカという小乗の寺があり、人々の言い伝えでは、「昔、漢の天子の子がこの国に質子(しつし)としていた時に作った寺である」とのことであった。その寺の僧は「私たちの寺は、元漢の天子が造ったものである。今貴僧は中国から来たのですから、まず我々の寺に泊まってください」と言った。玄奘はその寺がなかなか立派であり、かつ同伴の慧性(えしょう)法師が小乗の僧で、大乗の寺に泊まりたがらなかったので、遂にその寺に泊まることにした。
さて、その質子が寺を造った時、彼は多量の珍宝を寺院の東門の南にある大神王像の足下に埋蔵したと言われていた。彼は後になって、その伽藍を修補する時の費用に当てようと考えていたのである。そこでこの寺の諸僧は、皆王子の恩を感じ、寺院内の壁のあちこちに質子の姿を描いていた。また、安居(あんご)を解く日には、王子の徳を偲んで講誦(こうじゅ)を行って福徳を植える習わしが代々伝えられ、今日まで続けられていた。
この付近に一人の悪王がいた。彼は貪欲かつ横暴で、この王子の埋めた宝を奪おうと思い、人を遣わして大神王の足元を掘らせたが、大地が大いに揺れ動き、その上、大神王像の頂上にある鸚(オウム)の像が、その発掘を見て羽ばたきして叫んだ。そこで王や軍衆は皆悶え倒れ、恐れて引き返した。
この寺にストゥーパがあり、塔上の相輪(そうりん)が壊れてしまった。そこで寺僧は、その宝を取って修理したいと思ったが、大地が振動するので敢えて近づく者がなかった。玄奘がシャーラカ寺に到ると、僧たちが皆集まって、今までの事情を話し玄奘に協力を要請した。そこで玄奘は衆僧と共に大神王の所に行き、香を焚いて次のように述べた。
質子よ、貴方が昔この宝を埋蔵したのは、功徳を営むためでありました。今その宝を開くのは、まことにその時が来たからであります。願わくば質子よ、我々の真実に心を認め少しく威厳(いげん)の徳を収めてください。もしお許しいただけるなら、私は自ら発掘に立ち会い斤数(きんすう)を調べて所司(しょし)に引き渡し、仏法に従って修造して無駄使いはさせません。どうか質子の霊よ、このことをお察しください」。
言い終わって人々に命じて掘らせたが、静かで何の障害もなかった。深さ7~8尺に達すると、一つの大きな銅器が出て来た。中からは黄金数百斤(きん)と明珠(めいしゅ)数十個が出てきたので、人々は大いに喜んで玄奘の力を畏敬せぬ者はなかった。そこで、玄奘はこの寺で夏坐(げざ)した。
カピシー国の王は学芸を軽んじ、ただ大乗仏教のみを深く信じ、その講釈を聞くのを楽しみにしていた。そこで王は玄奘と慧性三蔵を説得し、一大乗寺において法集(ほうしゅう)を行った。この国には、大乗の三蔵、秣奴若瞿沙(マヌシャゴーシャ)薩婆多部(サルヴァスティ)の僧阿黎耶伐摩(アールヤヴァルマン)弥沙塞部(マヒーシャーサカ)の僧求那跋陀(グナバドラ)がおり、皆カピシー国の第一人者であった。しかし、彼らの学は大乗、小乗各々別で広く諸学に通じておらず、一方に精しくとも偏っているところがあった。ただ玄奘一人はつぶさにもろもろの教えに通じており、質問に応じ、各々の部門によって答えたので、全ての人々はその博学に敬服した。
このようにして。5日間で法集は終わった。王は非常に喜んで、純錦5疋(ひき)を特別に玄奘に施し、その他の人々にもそれぞれ適当な施しをした。シャーラカ寺での安居(あんご)は終わった。同行の慧性法師は再びトカラ王に請われてトカラに引き返し、玄奘と別れることになった。
[註]
【迦畢試国】カピシー。北はヒンドゥクシュ山脈、南はパグマーン山脈に囲まれた盆地で、王都はベグラーム。カブールの北東72㎞にあるチャリカール東方13㎞のブルジ・アブドゥラ村にある。クシャン朝時代、カニシュカ王の夏の都として栄え、グレコ・バクトリアからクシャン朝に至る多数の貨幣、漢の漆器、ローマン・グラス、インドの象牙細工などを出土して、当時べグラムが東西文化交流の焦点であったことを示している。
【刹利種】クシャトリア。
【秣奴若瞿沙」(まぬしゃごーしゃ)唐に如意という。
【薩婆多部】(サルバスティ)説一切有部。
【僧阿黎耶伐摩】(あーるやヴぁるまん)唐に聖冑という。
【弥沙塞部】(まひーしゃーさか)小乗二十部の化地部。
【求那跋陀】(グナバドラ)唐に徳賢という。
【般若羯羅】プラジュニャーカラ。唐では慧性という。
南へ進んで一つの小さな山に着いた。山の上にストゥーパがあり、これは昔釈尊が南方から歩いて来て住止した所と言われ、後人が敬慕の余りこの塔を建てたものである。ここから北の地域は皆蔑戻車(ムレッチャ)という。如来は教化しようとすると、空中を往来し、決して地上を歩いて行かぬ。もし歩行し給うと、土地が傾いてしまうためといわれる。
[註]
【蔑戻車】ムレッチャ。唐に辺地という。
嶺を降り川を渡って那掲羅喝(ナガラハーラ)国に着いた。大城の東南2里にストゥーパがあった。高さ100余尺で、アショカ王の造るところという。
ここは釈尊が第二僧祇(そうぎ)の時、然燈仏(ディーパンから)に会い、鹿皮の衣を敷き、さらに髪を敷いて泥を蔽(おお)い、授記(じゅき)を得た所と言われる。それから幾度か劫壊(ごうえ)を経たが、その遺跡は常に存し、天はもろもろの花を散り降らせて、いつも供養をしている。玄奘はそのストゥーパに赴いて、礼拝しつつ塔の周りを回った。
塔の側に老僧がいて、玄奘に建塔の因縁を説明してくれた。そこで玄奘が、「菩薩が髪を敷いた時は、遠く第二僧祇の時であった。第二僧祇から第三僧祇に到るまでの間に無量の劫を経て、その一つの劫ごとに世界は壊滅してはまた新しく作られたという。劫壊の火災が起こる時にはスメール山もなお灰燼になるというのに、何故この遺跡のみ無傷で残っているのですか」と尋ねると、老僧は「世界が壊れる時は、この遺跡も壊れ、世界が再び生まれると、この遺跡もまた元のように現れたのである。彼のスメール山も幾度か壊れながら、また今のように天空に聳(そび)えているではないか。聖跡のみがどうして再現しないと言えよう。スメール山に比べ考えてみれば、全く疑いの余地はないのです」と答えた。正しく名答である。
ここから西南10余里にもストゥーパがあり、ここは仏陀が花を買った所だという。
[註]
【那掲羅喝国】ナガラハーラ。北インドの境、都城は今のジャララバード。
【無憂王】アショカ王。
【僧祇】無数の長い時間の意。
【然燈仏】ディーパンカラ。錠光仏、定光仏ともいう。
【劫壊】(ごうえ)世界の破滅の時。
【劫】カルパ。長い時間。
【スメール山】蘇迷山、一名須弥山。
それから東南に砂嶺(されい)を越え10余里で仏頂骨城(ぶっちょうこつ城)に到った。この城中に二階建ての建物があり、その二階に七宝の小さな塔があり、その中に如来の頂骨(ちょうこつ)が納まっている。骨の周りは1尺2寸あり、髪孔(かみあな)ははっきりしていて、色は黄白色で宝函(ほうかん)の中に入っている。ここで占いをしたいと思う者は、香の粉末を練って泥のようにし、絹布に塗ってこの頂骨の上を蔽い、その現われた図像で吉凶を定めるという。玄奘が試みてみると菩提樹(ぼだいじゅ)の像となり、連れてきた二少年の年長の者は仏の像、年少の者は蓮華(れんげ)の像を得た。その骨を守っていたバラモンは喜んで玄奘に向かって指を鳴らし花を散じて、「師の得た占いは甚だ希有(けう)のものです。この図は貴方に菩提の分別があることを示しているのです」と言った。ここには仏陀の多くの遺品があり、荷葉(はすのは)のような骨を収めた髑髏(どくろ)骨塔、大きさは奈(からなし)くらいで、光り輝いて箱の外まで映じている仏の眼睛(がんせい)、上等の細氈(さいせん)で作られた仏の袈裟(けさ)、白鉄を環(かん)として旃檀(せんだん)を茎とした仏の錫杖(しゃくじょう)などがあった。玄奘はこれらの遺品を皆礼拝することができ、その哀敬(あいけい)の限りを尽くすことができた。そこで、この寺に金銭50、銀銭1000、絹の旗4口、錦2反、法服2組を供養し、多くの散華(さんげ)を行って退出した。
[註]
【仏頂骨城】(ぶっちょうこつ)『西域記』の醯羅(けいら)城、ジャララバード南方約8キロのハッダ。『法顕伝』などによると、ペシャワールで仏の鉄鉢を、仏頂骨城で仏の頂骨を礼拝することが入竺僧にとって大切な行事であった。ジャララバード南方約8㎞にあるハッダ村の遺跡。巨大な寺院跡と多数の奉献塔と塑像を出土したが、現在は内戦のために跡形もないという。
【髑髏骨塔】(どくろこつとう)
また、玄奘はこの地で燈光(とうこう)城の西南20余里にゴーパーラ龍王が住む岩窟(がんくつ)があり、昔如来がそこでこの龍を降伏(ごうぶく)せしめ、今もその中に御姿を留めているとの話を聞いた。玄奘はそこへ行って礼拝したいと思いその道を聞いたが、道は荒れ果てて険しく、しかも盗賊が多く、またここ2~3年は行っても御姿が見えないので、訪れる人も稀れであるとのことであった。そこで、玄奘がそこへ赴いて礼拝したいと思った時、カピシー国から送ってきた使人は、早く故国へ帰りたがって、この地に滞在することを願わず、行くことを勧めなかった。そこで玄奘は、「如来の真影は永遠に会い難いものです。どうしても私はそこへ行って礼拝したいと思います。貴方たちはどうかゆっくり先に帰ってください。私はしばらくそこへ行ってきたいと思います」と言って、一人で燈光城に立ち戻った。
そしてある伽藍に行って、窟(いわや)への道を問い道案内を求めたが、誰一人として行ってあげようという者がない。間もなく一人の少年が、「この寺の荘園(しょうえん)はあの窟の近い所にあります。寺荘(じしょう)までなら私がご案内いたしましょう」と言ってくれた。そこで、玄奘は彼と一緒に寺荘まで行って一泊した。そこで窟のありかを知っている一老人を得、二人で出発した。数里ばかり行くと5人の賊が刀を抜いて現われた。玄奘が帽を取って法服を示すと、賊は「師はどこへ行こうと思うのか」と尋ねた。「仏影を礼拝したいと思うのです」と答えると、賊は「師はここに賊が出るということを聞かなかったのか」と言った。そこで玄奘が「賊は人間です。今私は仏を礼拝しようとしているのです。猛獣が町に満ちても、私は恐れません。まして貴方たちは人間ではありませんか」と答えると、賊も遂に発心(ほっしん)して一緒に礼拝することになった。
間もなく窟に着いた。窟は渓流の東側にあり、入口は西側に向いていた。中を覗いてみても真っ暗で何も見えない。すると老人は、「師よ、ここから真っ直ぐに入ると東壁に突き当たります。そこで50歩ばかり後戻りし、そこから真東をご覧なさい。仏の御影はそこから見えるのです」と言った。そこで、玄奘は窟に入り足にまかせて50歩ばかり進むと、果たして東壁に触れた。そこで言われたように引き返して、真心込めて礼拝した。こうして100回余り礼拝を繰り返したが何も見えない。これは自分の前世に罪障(ざいしょう)があるためかと、嘆き悲しみ懊悩(おうのう)したが、さらに一心に『勝鬘』などの諸経や仏を讃える偈頌(げじゅ)を誦(ず)し、仏を讃えては礼拝し、礼拝しては仏を讃え、繰り返すこと百余回、やがて東壁を見ると、鉢くらいの光が現われ、たちまちまた消えてしまった。喜んでさらに礼拝していると、また槃(ばん)ばかりの大光が現われ、また消えてゆく。玄奘は益々慕情を増し「もし仏の影を見ることができなければ、私はこの地を去らぬ」と自ら誓った。
こうして200余拝を続けていると、遂に窟の中はすっかり明るくなり、如来の影は皎然(こうぜん)と岩壁に現れた。その様は、まさに雲霧が晴れて忽焉(こつえん)と黄金の山を見るかのようだった。その如来の像は和やかで、仏の御姿は光り輝いている。これを仰ぎ見た玄奘の喜びは譬えようもなかった。仏身と袈裟は共に赤黄色で、膝から上の御姿は非常にはっきりしており、華座(けざ)以下はやや微(かす)かである。膝の左右及び背後にもろもろの菩薩、聖僧などの影も皆そろっていた。玄奘は見終わってから、内外の6人に命じ、火を持って来て焼香させた。人々が明かりを持ってやって来ると、急に仏影が消えてしまった。慌てて火を消させてさらに拝むと、また再び像が現われた。6人の内5人は見ることができたが、一人はとうとう見ることができなかった。このようにして1時間余り、仏影ははっきりと見えていた。
人々が仏への礼讃(らいさん)を述べ、花香を献じ終わると光は消えたので、一同は窟から出た。送ってきたバラモンは歓喜して、このように見えたことは未曾有(みぞうう)であると嘆じ、「師のように至誠(しじょう)願力が深くなければ、このようには見えません」と言った。
窟の付近にも多く聖跡があるが、それらは『大唐西域記』に述べた通りである。こうして人々は一緒に帰ったが、例の5人の山賊は皆刀や杖を壊し、師の戒を受けて別れたのであった。
[註]
【燈光城】ナガラハーラ城。
【岩窟】ゴーパーラ龍王が住む岩窟は仏影窟とする。瞿波羅は牛飼いの意。この神秘的な石窟はジャララバード南方の断崖に沿ったバクトラよりタキシラまでとされる。
かくて玄奘は再び一行と再会し、東南に山道を進むこと500里余り、健陀邏国(ガンダーラ国)に到った。この国の東は信度(シンドウ)河に臨み、都城は布路沙布羅(プルシャプラ)という。この国には多くの聖賢がおり古来『論』を作った諸師、ナーラーヤナ、アサンガ菩薩、ヴァスバンドゥ菩薩、ダルマトゥラータ、マノーラタ、パールシュヴァ等は皆この国に生まれた人々であった。
王城の東北に仏鉢(ぶっぱつ)を置いた宝台があったが、仏鉢はその後転々と諸国を渡り、今は波刺拏斯国(パールサ国)にある。城外の東南8~9里に高さ100余尺の菩提樹(ぼだいじゅ)がある。ここには過去の四仏がいずれもその樹下に座ったという。現在そこには四如来の像がある。やがて現れる996仏も、まさにここに座するのであろう。その側にカニシュカ王の造ったストゥーパがある。高さ400尺、基部の周囲一里半、高さ150尺、その上に金銅の相輪25層が建っており、中に如来の舎利が一斛(こく)納められている。大ストゥーパの西南100余歩に白石の像がある。高さは1丈8尺で北面して建っている。この像は霊瑞(れいずい)が極めて多く、時に夜になると、この像が大塔の周りを歩き回っているのを見かける人がある。
[註]
【健陀邏国】ガンダーラ。北インドの境、今のペシャワール地方を指す。ガンダーラはアレキサンダー大王の東征以来、多数のギリシア人、ペルシア人が往来。クシャン朝時代にはその中心地であった。玄奘はジャララバードからカイバル峠を越えてガンダーラに入ったものと思われる。
【信度河】シンドウ。今のインダス河。
【布路沙布羅】プルシャブラ。今のペシャワール。
【論】経典に説かれた仏教の要義を解釈したもの。
【ナーラーヤナ】那羅延天。
【アサンガ菩薩】無著。
【ヴァスバンドゥ菩薩】世親。
【ダルマトゥラータ】法救(ぼっく)。
【マノーラタ】如意。
【パールシュヴァ】脇(きょう)尊者。
【波刺拏斯国】パールサ。ペルシャのこと。
【波刺拏斯国】パールサ。ペルシャのこと。
【四如来】現在の住劫に千仏が出現すると説かれ、すでに釈尊ら四仏が出たという。
【迦膩色迦王】カニシュカ王はクシャン朝の最も偉大な王。ペシャワールの東南1㎞にある大王塚がカニシカ王大塔で、一名「雀離浮図」という。
【一里半】約600m。
カニシュカ伽藍から東北へ100余里行くと、大河を渡って布色羯邏伐底(プシュカラヴァティー)城に到る。城の東にアショカ王の造ったストゥーパがある。それこそ過去四仏が説法した所である。城の北方4~5里の所に伽藍の中に高さ200余尺のストゥーパがあり、これもアショカ王の建てたものと言われる。ここは昔、釈尊が菩薩であった時、喜捨(きしゃ)を行うことを楽しみ、この国で1000回生まれ変わって王となり、千生捨眼(せんしょうしゃがん)した所であるという。これらの聖跡は数限りなくあり、玄奘は一々皆巡礼して、高昌から施された金銀、綾絹(あやぎぬ)、衣服などを皆参観した大塔、大伽藍に施し供養し、至誠(しじょう)を披歴して行ったのである。
[註]
【布色羯邏伐底城】プシュカラーヴァティー。青い蓮の意。スワート河の左岸に位置する。
【千生捨眼】盲者への施しとして1000回眼を与えたという本生譚。
山川を越えてゆくこと600余里、烏仗那(ウッジャーナ)城に入った。ここには蘇婆薩堵(スヴァストウ)河を挟んで、昔は伽藍1400か所、僧徒18000あったが、今は共に荒れ果てて減ってしまった。この地の僧の律儀(りつぎ)、宗派は、①法密部、②化地部、③飲光部、④説一切有部、⑤大衆部の5部であった。
ウジャーナ王はだいたい瞢掲釐(マンガラ)城におり、そこは人口も物資も豊かな町である。城の東方4~5里に大ストゥーパがあり、奇瑞(きずい)が多いという。ここは昔、釈尊が忍辱上人(にんにくしょうにん)となり、羯利(カーリ)王のために身体を切られた所である。
マンガラ城の東北へ250里で大山に入り、アパラーラ龍泉に到る。ここはスワート河の上源で西南に流れている。この土地は寒冷で、春夏も常に凍っており、日が暮れると五色の雪が霏々(ひひ)として降りしきり、色々な花を散華(さんげ)しているように乱舞する。龍泉の西南30余里の河の北岸の大石上に仏足跡(ぶっそくせき)があり、その人の福願によって、その大きさに長短があるという。これは昔、釈尊がアパラーラ龍を退治した時、ここへ来て足跡を留めて帰ったという。さらに流れに従って30余里下ると、如来の濯衣石(たくいせき)があり、袈裟の文様(もんよう)がはっきりと映っている。
城の南方へ400余里行くと、ヒラ山に到った。これは昔、如来が半偈(はんげ)を聞いて薬叉(やくしゃ)の恩に報いるため、身を投じた所である(聞半偈本生譚)。
マンガラ城の西50里に大河を渡ってローヒタカ・ストゥーパがある。この塔の高さは10余丈で、アショカ王の造ったものという。これは昔、如来が慈力王(マイトリーパラ)となった時、刀で身体を刺し、五薬叉に食わせた所である(慈力王本生譚)。マンガラ城の東北30余里にアドブータ石ストゥーパがある。高さ30尺で、昔釈尊がここで人々のために法を説いたが、仏が去った後、自然にこの塔が生じたという。塔から西へ大河を渡って3~4里行くと一精舎がある。ここにアヴァローキテイシュヴァ菩薩の像があり、威霊の極めて著しい像である。
マンガラ城の東北にも人々が住んでいると聞いたので、山谷を踏み越えてシーター河を遡行(そこう)した。道は非常に危険で生命綱でよじ登ったり、高い吊り橋を踏み渡り、1000余里ばかり進んで達麗(ダレル)川に着いた。ここはウジャーナの旧都であった。その渓谷中の大伽藍の側に木彫りの慈氏(じし)菩薩像があった。金色に輝き、高さは100余尺、マドゥヤンティカ阿羅漢の作という。彼は神通力により工匠(こうしょう)を率いてトゥシタ天に昇り、親しく菩薩の妙相(みょうそう)を観察させ、往復すること3度でようやくできあがったという。
[註]
【烏鐸迦漢茶城】ウダカカンダ。インダス河とカーブル河の合流点の東北26キロ上流、今のオヒンドに推定される。
【烏仗那城】ウッジャーナ。唐に苑とある。昔阿輪迦王(アショカ王)の苑であった。今のスワート川の流域。南北朝から唐代には多数の中国巡礼僧がこの国を訪れた。『慈恩伝』はスワートからインダス河の上流にあるチラス地方まで行ったように記しているが、彼がスワートを訪れたのは、恐らく帰途であろう。
【蘇婆薩堵河】スヴァストウ。今のスワート河。
【法密部】法蔵部ともいう。所依の律は四分律。
【化地部】所依の律は五分律。
【飲光部】(おんこう)一名迦葉維。説一切有部の分派。
【説一切有部】所依の律は十誦律。
【大衆部】所依の律は摩訶僧祇律。
【瞢掲釐城】マンガラ。今のミンゴーラという。町の南郊に遺跡があり、仏教寺院跡が発掘調査された。
【忍辱上人】忍辱仙人本生。
【羯利王】カーリ王。唐に闘諍という。
【アパラーラ龍泉】阿波邏羅。無苗の意。諸本は、ここをスワート河の上源とするが、実際は遥か上流のカラン地方である。
【ヒラ山】醯羅山。今のイラム山。
【半偈】偈という。梵文の略である。あるいは偈陀、伽陀という。伽陀は唐の頌の意で32言ある。聞半偈本生譚。
【ローヒタカ】盧醯旦迦。唐には赤という。
【慈力王】マイトリーパラ。
【五薬叉】慈力王本生譚。
【アドブータ】遏部多。唐に奇特という。
【阿縛盧枳多伊湿伐羅菩薩】アヴァローキテイシュヴァ。唐に観自在という。「阿縛盧枳多」を訳すと「観」であり、「伊湿伐羅」は訳すと「自在」である。
【シーター河】徒多河。『西域記』には信度河とある。いわゆる県度の険である。
【達麗川】今のダレル地方。
【ウジャーナの旧都】烏仗那の旧都は今のグレーズにあったという。しかし、近年の調査によると、チラスに仏像や仏塔の岩絵が最も多く、この地方がウジャーナの旧都かと思われる。ただし、何回もの大洪水のためか、木彫りの大菩薩像の痕跡は全く見られない。
【慈氏菩薩像】『法顕伝』その他によれば、木彫りの弥勒菩薩像。
【マドゥヤンティカ阿羅漢】末田底加。
【トゥシタ天】覩史多天は欲界の第4。この天の内院は、将来仏となる菩薩の住処で、かつては釈尊が修行され、今は弥勒菩薩が説法しているという。
ウダカカタン城から南へインダス川を渡った。川の広さは3~4里、流れは極めて清い急流で、多くの毒龍、悪獣がその中に潜んでいる。インドの奇宝、名花や舎利(しゃり)を持つ人がいると、その人の乗っている船は覆没(ふくぼつ)してしまうという。
この川を渡って旦叉始羅国に到った。その城の北12~13里にストゥーパがあり、アショカ王の建てたもので、常に神光を放っている。ここは如来が昔菩薩であった時、チャンドラプラハという大国の王となり、菩提(ぼだい)を志して頭を1000回捨てた所である。この塔の側に伽藍があり、昔経部師(きょうぶし)クマーララータはここで『衆論』を作ったと言われる。
タクシャシラーの北界からインダス河を渡り、東南に200余里行くと大石門がある。ここは昔、マハーサットヴァ王子が身を捨てて飢えた烏拓(うと)の七子に喰わしめた所である。その地は先に王子の血のために染められ、今もなお真っ赤で草木も赤味を帯びていた。
[註]
【旦叉始羅国】タクシャシラー。ギリシア文献のいわゆるタキシラ。北インド境である。古来インドと西アジア、中央アジアを結ぶ要地として繁栄した。
【チャンドラプラハ】戦達羅鉢刺婆。唐に月光という。
【菩提を志し】菩薩行の一種。
【クマーララータ】拘摩邏多。唐に童寿という。
【衆論】(しゅうろん)
【僧訶補羅国】シムハプラ。北インドの境。
【マハーサットヴァ王子】摩訶薩埵。餓虎捨身本生。
【烏拓】虎の意。
東方に危険な道を登り、鉄橋を渡ってゆくこと1000余里で迦湿弥羅国(カシュミーラ国)に到った。
その都城は西方は大河に臨み、伽藍100か所、僧は5000余人もおり、ストゥーパは4基ある。それらはいずれも高く壮麗で、アショカ王の建てたものであり、おのおの如来の舎利(しゃり)の一斗余りを蔵している。玄奘は初めその国に着いた時、石門に到った。その門はカシュミーラ国の西門であった。王は母の弟を遣わし馬車を引いて出迎えさせた。石門を入ってから、もろもろの伽藍を巡礼し、ある寺に行って泊まった。その寺は護瑟迦羅(フンシュカラ)という名であった。その夜、寺の僧たちは皆夢に神人(しんじん)を見た。神人は人々に、
「この客僧は摩訶脂那(マハーチーナ)国から来た人で、経典をインドに学び、聖跡を巡礼し、まだ知らぬ所を学ぼうとしているのである。その人は既に法のためにやって来て、無数の善神のお蔭で今現にここにいる。過去において行った善根から、今貴方たちは遠い国の人の慕うところとなったのである。よろしく経典の学習に努め、他から鑚仰(さんぎょう)されるようにすべきである。どうして怠けて睡眠に耽(ふけ)っているのか。
と告げた。寺の僧たちは聞き終わって、おのおの驚き目覚め、経典を読んだり瞑想に耽ったりした。暁(あかつき)になるとともに玄奘のもとにやって来て、その因縁を解き、礼敬(らいきょう)することいよいよ厳粛(げんしゅく)であった。
このようにして数日後、ようやく玄奘は王城に近づき、一由旬(ゆじゅん)ばかり離れた所にあるダルマシャーラーに到った。王は群臣や都城内の僧を率い、ダルマシャーラーまで出迎えた。王に従う者は1000人余り、旗や車蓋(しゃがい)が道に溢(あふ)れ、香煙や花が辺りにみなぎった。王は既にダルマシャーラーに来て玄奘と会い、懇ろに礼讃(らいさん)し、手ずから無数の花を玄奘に供養し散華(さんげ)した。そして大象に乗るように請い、玄奘に従って進み、街に入ると闍耶因陀羅(ジャエーンドラ)寺に泊めた。
翌日、王は玄奘に請うて王宮に招いてもてなし、同時に大徳の僧称(そうしょう)ら数十人にも陪席(ばいせき)を命じた。食事が終わると、王は講演会を開くことを請い、玄奘に批評させ、これを見て大満悦であった。また玄奘が遠くから学を慕ってやって来、しかも読みたい本がないことを聞き、遂に書手(しょしゅ)20人を支給して経論を写させ、別に5人の随員を提供した。そして必要な経費はすべて公給させた。
この国の僧称(そうしょう)法師は高徳の人であった。戒を守ること純潔で思慮深く、博学で素晴らしい才智に溢れていた。しかも、彼は賢人を愛し、士を重んじていた。玄奘が既に王室の客であったので、彼は特別に目をかけて長時間引見(いんけん)した。玄奘もまた心を傾けて質問し、日夜疲れるところを知らなかった。そして、諸論を講義して欲しいと請うた。僧称法師はこの時、歳は既に70になんなんとし、気力ももはや衰えていた。しかし、彼は玄奘のような俊才に会ったことを喜び、力を励まして講義することになった。
すなわち、午前中に『倶舎論』を、午後に『順正理論』を、夕方には『因明』と『声明論』を講じた。そこで、この講義に寺内の学僧で集まらぬ者はなく、玄奘はその所説に従って悟り尽して、残すところなく深く細かく研究して、その神秘を悉く納得した。そのため、僧称法師の喜びと嘆賞(たんしょう)は極まるところを知らず、もろもろの人に向かって、「この脂那(チーナ)僧は智力宏大で、諸君の中にもこれほどの人はいない。その聡明さは世親(せしん)兄弟を継ぐ者と言えよう。恨むらくは、彼は遠国に生まれて、幼少から聖賢の遺芳に接することができなかったのである」と述べた。
その時、衆僧の中には大乗の学僧ヴィシュダシムハ、ジバナンド、薩婆多部の学僧スガタミトラ、ヴァストミトラ、僧祇部のスールヤデーヴァ、ジナトラータ等がいた。この国は昔から学を貴び、そして、これらの僧たちは皆道心堅固で才智も優れていた。彼らは僧称に比較すれば及ばなかったが、もろもろの衆僧に比べれば、余りあるほどの優れた人々だった。そこで、彼らは玄奘が大匠によって褒めそやされているのを見て、発憤(はっぷん)して玄奘を難問攻めにせぬ者はなかった。しかし、玄奘もまた題目を明らかにし、つぶさに応酬して澱(よど)みなく答えたので、これらの諸賢も概ね玄奘の実力を認めて敬服していた。
カシュミーラ国は、昔龍池であった。釈尊涅槃の後第50年に、アーナンダの弟子マドゥヤンティカ阿羅漢が龍王を教化して池を捨てさせ、ここに500の伽藍を建て、諸賢聖を集めて中に住まわせ、龍の供養を受けさせたという。その後、ガンダーラ国のカニシュカ王は、釈尊の永眠後第400年の歳に、脇尊者によって、内は三蔵を究め、外は五明(みょう)に達したもろもろの賢聖を集めることができたので、ここに三蔵を結集することになった。まず、ウパデーシャ論10万頌(じゅ)を作ってスートラ蔵を訳し、次にヴィナヤヴィバーシャ論10万頌を作ってヴィナヤ蔵を釈し、次にアビダツマヴィバーシャ論10万頌を作ってアビダツマ蔵を釈した。合わせて30万頌、96万言である。王は赤銅(しゃくどう)で銅板を作り、論文を刻んで石函(せっかん)に封入し、大ストゥーパを建ててその中に納め、ヤクシャ神に命じて守護させた。この国で仏教の奥義が極めて明らかなのは、このカニシュカ王の第4結集のためである。
玄奘はこの国に滞在すること丸2年、もろもろの経論を学び、周辺の聖跡を巡礼し終わって辞去したのであった。
[註]
【迦湿弥羅国】カシュミーラ。今のカシュミール。
【護瑟迦羅】フシュカラ。
【摩訶脂那国】マハーチーナ。大シナ国の意。
【一由旬】(ゆじゅん)由延または踰闍那一由旬は8.3㎞~11.7㎞くらい。
【ダルマシャーラー】達摩舎離。唐では福舎という。王が指示して建てさせ、旅人を招き貧者に給与させる所。
【闍耶因陀羅寺】(じゃえーんどら)寺は王の舅が建てたものである。
【倶舎論】(くしゃろん)
【順正理論】(じゅんしょうろん)
【因明】(いんみょう)
【声明論】(しょうみょうろん)
【ヴィシュダシムハ】毘戍陀僧訶。唐に浄師子という。
【ジバナンド】辰那飯茶。唐に最勝親という。
【スガタミトラ】蘇伽密多羅。唐に如来友という。
【ヴァストミトラ】婆蘇密多羅。唐に世友という。
【スールヤデーヴァ】蘇利耶提婆。唐に日天という。
【ジナトラータ】辰那旦邏多。唐に最勝救という。
【アーナンダ】阿難。
【マドゥヤンティカ】末田底迦。
【ウパデーシャ論】鄥波第鑠論。
【スートラ蔵】素旦纜蔵経の意。
【脇尊者】(パールジュバ)
【ヴィナヤヴィバーシャ論】毘奈耶毘婆沙論。律蔵の釈。
【ヴィナヤ蔵】毘奈耶蔵。
【アビダツマヴィバーシャ論】阿毘達磨毘婆沙論。論蔵の釈すなわち『大毘婆沙論』。
【アビダツマ蔵】阿毘達磨蔵。
カシュミーラ国から西南へ山道渓谷を渡って行くこと700里でパルノーツァ国に到り、ここから東南に400余里でラージャブラ国に到った。さらに東南に山を下り川を渡って行き、700余里でタツカ国に到った。ランパ国からこの地方までは、インドでも辺境なので、その風俗、衣服、言語など、いずれもややインドと異なり鄙(ひな)びて軽薄の風がある。
ラージャプラ国を経て3日後にチャンドラバーガ河を渡り、闍耶補羅城(ジャヤヤプラ城)に着いて外道の寺に泊まった。寺は城の西門の外にあり、当時僧徒は20数人であった。2日後、玄奘は闍羯羅城に着いた。城中には僧徒100余人がいる伽藍があった。ここは昔世親(せしん)菩薩が『勝義諦論』を著わした所である。その傍らに高さ200尺のストゥーパがあり、ここは過去四仏が説法をした所で、現にその遺跡がある。
ここからナラシムハ城の東方に行き、パラージャの大林の中に到ると、突如50余人の群賊が現われた。賊は玄奘と同行者の衣服、行資を悉く強奪した。しかも、彼らは刀を振って一行を追い、道の南側の涸れ池で一同を虐殺しようとした。その池には茨や蔓(かずら)が一面に繁っていた。玄奘についていた沙弥はまばらな繁みの間から、池の南岸に水たまりがあるのを発見した。そこはちょうど人が一人やっと通れるくらいの隙間があった。沙弥はひそかに玄奘に向かって「師よ、ここから一緒に脱出しましょう」と言い、二人して東南に2~3里ばかり疾走した。間もなく玄奘は一人のバラモンが土地を耕しているのに会い、盗賊に襲われたことを告げた。
すると彼は大いに驚き、直ちに牛を解いて玄奘に与え、村に向かってほら貝を吹き太鼓を鳴らし、たちまち80余人の仲間を集めた。彼らは各々武器を持って賊の出た所に急行したので、賊は村人たちを見て林の中に逃げてしまった。玄奘はようやく池について人々の縛(いまし)めを解き、また人々が施した衣料を分け与え、皆と一緒に村に行って泊まった。
人々は不運を悲しみ泣いているのに、玄奘はにこにこ笑っているだけである。同行の人が、「今私たちの旅行の衣服や資金は盗賊にすっかり掠(かす)め取られ、ただ命しか残っていません。私たちは命からがら助かったのみで、これ以上の困苦はありません。林の中での出来事を思えば悲しみに堪えません。ところが、師はどうしてこのことを憂えないでにこにこしているのですか」と尋ねると、玄奘は次のように答えた。
「人生において最も尊いものは命です。命が助かったのに、何の憂えることがありましょう。私たちの国の書物に『天地の大宝(たいほう)を生という』と記してあります。私たちは命が助かったのですから、大宝は失われなかったのであり、少しくらいの衣服、金子(きんす)を失っても、何で嘆くに当たりましょう。」
この言葉で同行の人々も無事を悟ったのであった。玄奘の御心があくまで澄んで大きく、これを濁(にご)そうとしても濁らないことは、このような有り様であった。
[註]
【半笯嗟国】パルノーツァ。今のプルーント。
【曷邏闍補羅国】ラージャブラ。北インドの境、今のラジャオリ。
【磔迦国】タツカ。北インドの境。『西域記』によれば「ラージャプラ国から東南して山を下り水を渡り、行くこと700余里でダッカ国に到る。ダッカ国は周囲一万余里、東はヴィバーシャ河により、西はインダス河に臨む。国の大都城は周囲20余里ある」とある。明らかに小さな町名ではなく、やや大きな地域名である。
【チャンドラバーガ河】栴達羅婆伽河。ここは月分という。
【闍耶補羅城】ジャヤヤプラ。
【闍羯羅城】シャーカラ。今のシアールコット。前2世紀にミリンダ王がインド僧竜軍(ナーガセーナ)と教理問答をした所と言われ、白匈奴王ミヒラクラ(515~550在位)の都であった。
【勝義諦論】(しょうぎたいろん)
【那羅僧訶城】ナラシムハ。位置未詳。
【パラージャ】波羅奢。
【沙弥】出家して十戒を守り、具足戒を受けるまでの男子。
翌日、タッカ国の東境に到り、一大城に着いた。城の西方の道の北側に大きな菴羅(アームラ)の林があり、その中に年齢700余歳という一人のバラモンがいた。そこへ行ってあってみると、歳は30歳くらいに見え、身体は強壮で顔は叡智(えいち)の光で輝くばかり、『中』『百』の諸論に通じており、『ヴェーダ』などの古典にも精通しているという。彼には二人の侍者(じしゃ)がついており、年齢は各々100余歳であるという。玄奘は会ってみて、互いに長い間話し合って非常に喜んだ。バラモンは玄奘らが賊に遭ったことを聞き、侍者の一人を派遣して、城中の仏法を信ずる人々に命じて、玄奘のために食事を採らせた。この城中には数十戸の家があったが、仏教信者は少なく、外道に仕えるものが極めて多かった。
しかし、玄奘がカシュミーラ国にいた時、その名は遠くまで鳴り響き、諸国では皆その名を知っていた。そこで、その使者が城中を「チーナの国の僧がきました。彼はこの町の近くで賊に遭い、全ての衣服を採られてしまいました。諸君、どうか今こそ善根を撒(ま)くべき時が来たと悟ってください」と触(ふ)れ歩くと、仏法の福力は素晴らしく、遂に外道の人々の心をも改めさせた。町の有力者300余人は、これを聞くと各々模様入りの木綿の布一反ずつと飲食物を持って、恭しく玄奘の前に積み上げ、礼拝して見舞いの言葉を述べた。そこで玄奘は人々のために祈願し、同時に因果応報の説教をして、人々に皆道心を起こさせ、邪教を捨てて仏法の正道に就(つ)くことを勧めた。すると人々は相対して笑いながら話し合い、小躍りして嬉々として帰って行った。この有り様を見て、バラモンは、こんなことは未だかつてなかったことであると感心した。
玄奘は集まった木綿を人々に各々数反ずつ分かち与えたが、まだ残っていたので、木綿50反をバラモンに奉(たてまつ)った。そして、ここに1か月余り滞在して、バラモンから『経百論』『広百論』を学んだ。その人は龍猛(りゅうみょう)の弟子で、親しく先生として玄奘を指導し、その説明は非常に明瞭、清浄であった。
[註]
【菴羅】アーラム。マンゴー。
【中】中論
【百】百論
【外道】ヒンドゥー教。
【チーナの国】シナ。
【経百論】(きょうひゃくろん)
【広百論】(こうひゃくろん)
【龍猛】ナーガルジュナ。
一月後、またここから東方へ行くこと500余里で至那僕底国(チーナプクティ国)に到り、トーシャサナ寺に詣でた。ここには大徳ヴィニータプラバがいた。彼は礼儀正しく、三蔵に通じ、自ら『五蘊論釈』『唯識三十論釈』を著わした人である。そこで、玄奘はここに14か月滞在して『対法論』『顕宗論』『理門論』などを学んだ。大城の東南方50余里にタマサーヴァナ寺があった。ここには僧侶が300余人おり、説一切有部(せついっさいうぶ)を学んでいた。賢劫(けんごう)の千仏は皆この地で人や天部を集めて法を説き給うという。釈尊が永眠されて後、300年の間に迦多衍那(カトゥヤーヤナ)論師が現われ、この地で『発智論』を著わした。
[註]
【至那僕底国】チーナプクティ。唐に漢封という、漢人封領の意。シアルコットへの公路を18㎞進んだ所にあるチニヤリに推定している。
【トーシャサナ寺】突舎薩那寺。
【ヴィニータプラバ】毘膩多鉢臘婆。ここに調伏光という。すなわち北インドの王子。
【五蘊論釈】(ごうんろんしゃく)
【唯識三十論釈】(ゆいしき)
【対法論】(たいほうろん)
【顕宗論】(けんしゅうろん)
【理門論】(りもんろん)
【タマサーヴァナ寺】答秣蘇伐那僧伽藍。唐に闍林という。
【賢劫】未来の住劫は星宿劫、現在の住劫は賢劫という。
【迦多衍那】カトゥヤーヤナ。
【発智論】(ほつちろん)