ここから先は、即ち莫賀延磧(ばくがえんせき))である。長さは800余里で、古くは沙河(さか)と言った。空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、また水草もない。この時、辺りを見回しても、ただ一つ自分の影があるのみである。玄奘はただ観世音菩薩と『般若心経』を心に念じた。
昔、玄奘が蜀(しょく)にいた時、身体中の瘡(できもの)の穢れで、衣服の破れ汚れた一人の病人がいた。玄奘は憐れんで、寺に向かって衣服、飲食の値(あたい)を施与させた。病人は慚愧(ざんぎ)して、玄奘にこの経を与えた。そこで、玄奘は常にこれを読み習っていた。今沙河を通ることとなり、色々奇怪な悪鬼が自分を巡って前後するのに合った。その時、観音を念じてもそれらの悪鬼を去らせることはできなかったが、この経を読経して、声を発すると皆消えてしまった。危険な時に救われたのは、実にこの経のお蔭であった。
さて、100里ほど進んだが、道に迷って野馬泉(やばせん)が発見できない。水を下ろして飲もうとしたら、袋が重くて手から落ち、ひっくり返してしまった。1000里も行けるほどの水が忽(たちま)ちなくなってしまった。しかも道に迷ってぐるぐる回ってしまい、行く方向も分らない。やむなく東方へ帰って第4烽に帰ろうと考えた。10里ほど引き返したが、この時、ふと、
「私は先に願を建て、もしインドに到達しなければ遂に一歩も東に帰るまいとした。今どうして引き返しているのか。むしろ西に向かって死ぬべきである。どうして東方に帰っておめおめと生きられよう」。
と思った。そこで、再び手綱(たづな)をめぐらし、専ら観音を念じて西北に進んだ。
この時辺りを見回しても、茫然(ぼうぜん)として人も鳥も見えない。夜には妖魑(ようち)が火を上げて燦然(さんぜん)として群星(ぐんせい)のように輝き、昼は黒嵐(カラプラン)が砂を巻き上げ吹き散らして、時雨(しぐれ)のようである。このようなことに遭っても、少しも恐ろしいとは思わない。ただ水が尽きて、乾きのために進むことができないのに苦しんだ。この時、4晩5日間は一滴の水も咽喉(のど)に入らず、口も腹も乾ききって、ほとんど今にも息が絶えそうになり、また進こともできなかった。玄奘は遂に砂中に伏し、黙って観世音(かんぜおん)を念じ、苦しくとも止めなかった。そして、観世音菩薩に、
「私の旅行は財利を求め名誉を冀(こいねが)うものではない。ただ無上の正法(しょうぼう)のために来たのである。仰ぎ思うに、菩薩は全ての人を慈しみ、苦しみを救うのを務めとされている。この私の苦しみをどうしてご存知ないのですか」。
と祈った。このように言っていると、意識は失われなかった。
5日目の夜半になってたちまち涼風が吹き、身体に触れると冷水に浴したように快かった。遂に目が開き、馬も起(た)ち上がることができた。身体もやや蘇生(そせい)して少し眠ることができた。
ところが、睡眠中、夢に身の丈(たけ)数丈の一大神が現われ、戟(ほこ)を取って指し招き、「どうして強行せずにそのまま寝ているのか」と言った。玄奘は驚いて目が醒め出発した。10里ばかり行くと、馬はたちまち異なった道を行く。玄奘が制止しても回らない。数里行くと、急に青草のある広さ数畝(せ)の草原に着いた。馬を下りて思う存分草を食べさせ、草原から10歩ばかり進んで、引き返そうとして池を発見した。水は甘く澄み通っている。すぐにその水を飲み、身命共に助かり、人馬共に蘇生することができた。これを見ると、まさに昔からあった水草ではないらしい。もとより菩薩の慈悲によって生じたものである。人の至誠(しせい)が神に通ずるのは、皆このようなものである。すなわち、この草原で一日休息し、次の日、水を皮袋に入れ、草を取って出発した。
さらに2日を経てようやく流砂を出て伊吾(イゴ)に到った。沙河中のこれらの危難は無数で、詳しく書くことは不可能である。
[註]
【観世音菩薩】(かんぜおんぼさつ)
【般若心経】(はんにゃしんぎょう)これはおそらく鳩摩羅什訳の物であろう。現行の『般若心経』は貞観23年(649)、玄奘帰唐後の訳である。
【畝】一畝は約580㎡。
【菩薩の慈悲】恐らくは、ここが野馬泉だったのであろう。老赤馬は長年の経験から、この泉の場所を知っていたのだと思われる。
伊吾(イゴ)に着くと、ある寺に止まった。
寺には中国僧が3人おり、中に一人の老僧がいた。彼は帯も結ばず、跣足(はだし)で飛び出して出迎え、玄奘を抱いて泣き、哀号し嗚咽(おえつ)して止まず、「今日になって、再び中国の人に会えるとは夢にも思わなかった」と言った。玄奘もまた思わず貰い泣きした。伊吾と近辺の胡僧(こそう)や胡王(こおう)は悉くやって来て、玄奘に参謁(さんえつ)した。伊吾王は玄奘を王宮に招き、つぶさに供養をした。
時に高昌(こうしょう)王・麴文泰(きくぶんたい)の使者が伊吾に滞在していた。彼はこの日高昌に帰ろうとしていたが、たまたま玄奘に逢い、帰国して王に報告した。高昌王は即日使者を送り、伊吾王に勅(みことのり)して、玄奘を高昌に送るよう命じた。そして、上馬数十匹を選び、貴臣を奔走(ほんそう)させ、宿舎を整えて出迎えさせた。使者は伊吾に止まること10日ばかり、王の心中を述べ、慇懃(いんぎん)に来てくれるよう拝請(はいせい)した。玄奘は胸中では可汗浮図城(カガン・ふとじょう)を経由して西方に行こうと考えていたが、高昌王に来遊を請われ、辞退したが免れられなかった。
そこで遂に高昌に赴くことになり、南磧(なんせき)を渡り6日の旅を経て、高昌国の境界にある白力城(はくりきじょう)に到った。
[註]
【伊吾】新疆ウイグル自治区哈蜜(ハミ)県。天山東端のハミ地方。北魏の西域遠征以後、鄯善(ぜんぜん)地方は次第に衰退し、今までの鄯善地方に代わって哈蜜は東西交通の重要なオアシスとなった。
【胡僧や胡王】ここに見える胡僧や胡王は必ずしもイラン系のみでなく、テュルク系の王もいたと思われる。胡が広く外国一般を指す好例。
【麴文泰】(きくぶんたい)麴氏高昌国第8代の王。在位武徳3年(620)~貞観14年(640)に至る。『慈恩伝』のこの部分は、滅亡前の高昌の実態を示しているものとして貴重である。文泰は唐の征討軍が磧口に到った時突然病死し、その子智盛が跡を継いだが、間もなく滅亡した。
【高昌】新疆の吐魯番県、いわゆるトルファン地方。古くから中国歴代王朝の西域経営の拠点とされた。漢代の高昌壁の跡は喀刺和卓(カラホージョ)のイディクト・シャーリである。高昌国の創始は北涼の沮渠氏が北魏に滅ぼされ、この地に逃亡して車師前国を滅ぼしたのに始まる(450)。柔然はこれを滅ぼして漢人闞氏を王としたが(460)、以後闞義成、闞首帰、張孟明、馬儒が王位を継ぎ、498年、麴嘉が国人に推されて王となってからは彼の子孫が9代140余年に渡って高昌に君臨した。いわゆる麴氏高昌国である。当時の都城はカラホージョ(高昌故城)である。唐初は西突厥と結んで強勢だったが、貞観14年(640)唐軍に滅ぼされた。
【可汗浮図城】(カガンふとじょう)天山山脈の北麓にある今のジムサ。元代ビシュバリク(別失八里)。玄奘は初め伊吾から天山北路の可汗浮図城を経て西方に赴こうと考えていたが、高昌王の要請により、高昌から亀茲に向かい、凌山を経て天山北路に到ることになった。
【白力城】新疆闢展県。白力はテュルク語の城を意味するバリクの音写。高昌城東方160里の闢展が推定されている。
そこで遂に高昌(こうしょう)に赴くことになり、南磧(なんせき)を渡り6日の旅を経て、高昌国の境界にある白力城(はくりきじょう)に到った。その時、日はもう暮れて、玄奘はここに止まりたいと思った。ところが、城中の官人や使者は、「もう王城はすぐ近くです。お願いですから出発してください」と言い、しばしば良馬を替えて前進し、玄奘が乗ってきた赤馬は後から来させた。こうして、その夜の鶏鳴(けいめい)の時に王城に到った。門司(もんし)は王に報告し、王は勅(みことのり)して門を開かせ、玄奘は城に入った。
王は侍臣と共に前後して燭(しょく)を並べ、自ら宮殿を出て玄奘を迎え、後院(こういん)に入って2階建ての楼閣の豪華な帳幕(とばり)の中に座らせ、大変丁重に拝問した。王は、「私は師の名を聞き、喜んで寝食を忘れました。道程から考えて、今夜こそ必ず師が到着されることを知り、妻子と共に皆眠らず、経を読んで恭(うやうや)しくお待ちしていたのです」と言った。しばらくすると、王妃もまた数十人の侍女と共に礼拝した。
この頃、空はようやく暁となり、玄奘も長い話に疲れ果てて眠くなった。そこで王は初めて王宮に帰り、黄門侍宿(こうもんじしゅく)数人を留めて宿に侍らせた。
翌朝早く、玄奘がまだ起きないうちに、もう王はやって来て、王妃以下を率いて共に礼問した。王は、「私は磧路(せきろ)の困難なことを考えると、法師がよく一人で来られたのは、本当に珍しいと思います」と、涙を流して称嘆(しょうたん)して止まなかった。それから食事の仕度をし、朝食を終えた。
王宮の傍らに別の道場があり、王は自ら玄奘を連れて行ってここに住まわせ、宦官(かんがん)に奉仕させた。
高昌には彖(たん)法師という人がいた。彼はかつて長安に遊学し、法相宗(ほっそうしゅう)に通じ、王に崇敬されていた。王は彖法師に命じて来させ、玄奘法師と会わせたので、二人はしばらく会見した。また、歳80以上の国統王(こくとうおう)法師に命じ、法師と共に住まわせ、玄奘にこの地方に住むよう勧め、西方に行かせないようにしようとしたが、玄奘は許さなかった。
かくて高昌に止まること10余日。ある日、玄奘は王に辞して出発しようと思った。すると、王は、「私が既に統師に玄奘がこの地に止まるよう懇願させましたが、師の意中はいかがですか」と尋ねた。そこで玄奘は「ここに留住することは、実に王のお蔭でありがたいことです。しかし、私がここに来た本心とは合いません」と答えた。すると、王は重ねて「私は先生と中国に遊び、隋帝に従って東西2京及び燕(えん)岱(たい)汾(ふん)晋(しん)の各地を訪れ、多くの名僧を見ましたが、心からお慕いしたい方には会えませんでした。法師の名を伺ってから身も心も歓喜し、手の舞い足の踏む所を知りません。心ひそかに、師がここに来られたら、ここに止まって生涯私の供養を受け、高昌国の人は皆師の弟子にしようと考えていました。どうか師よ、ここで仏法を講授してください。僧徒は少ないないながら数千人おり、ともに経典を取って師の聴衆に当てましょう。どうか、私の微心を推察され、西遊を断念してくださるよう伏してお願いいたします」と述べた。
しかし、玄奘は感謝しながらも、
「王のご厚意は、全く私のような徳の少ない者の当たるところではありません。ただ私の天竺行きは、決して供養を受けるために来たのではありません。私が悲しんでいるのは、中国の仏教教理(きょうり)はいまだに不完全で、経典も少なく欠けていることです。私は疑いを懐き、惑いを集め持って、仏の真蹤(しんしょう)を訪ねたいと思います。この旅行で命を西方で終わることがあっても、未聞(みもん)の宗旨を請い、方等(ほうどう)の甘露(かんろ)をただ迦羅(から)に注ぐのみでなく、微言(びげん)を決拓(けったく)して悉く東方の国々に弘めたいと思います。私にとって波崙(はろん)が道を問うた志、善財童子(ぜんざいどうじ)が友を求めた心は、日に日に堅固になるばかりです。どうして、この行を中途で止められましょう。どうか王よ、引き留めようとする意を収め、私を供養しようなどと思わないでください。」
と答えたので、とうとう押し問答になった。
「私は法師をひたすら敬慕しているのです。必ずお引止めして供養するつもりです。葱嶺山(パミール)が転んでも、この心は変わりません。どうか私の誠心を信じて、不実を疑わないでください。」
「王の深い御心は、しばしば言われるまでもなくよく分っています。ただ私の西行(せいこう)は法のためです。法についてはまだ何も得られておらず、中途で止められません。だから、謹んでお断りしているのです。どうか王よ、よく理解してください。大王は先に優れた事業を行って王となり、ただに人民の恃(たの)み仰ぐのみでなく、元より仏教の保護者です。理(ことわり)は教えを助長するところにあるのですから、どうか私の西行を妨げないでください。」
「私もまた敢えて妨害しようというのではありません。ただこの国には導師がいないので、法師に止まっていただいて愚迷(ぐめい)な人々を導いてもらいたいと思うのみです。」
玄奘は皆断って許さなかったので、遂に王は怒り出し、袂(たもと)を払って大声で、「もし私が異心を持って貴方に処すれば、師はどうして自分で出発できよう。あるいは引き留めることを決め、あるいは師を送って国に帰らせることもできる。どうか自分でこのことを考えてください。私の意向に従った方がいいと思うがどうか」と言った。しかし、玄奘は、
「玄奘が来たのは大法(だいほう)のためです。今ここで妨害されれば、ただ骨だけは王の所に留められるでしょう。しかし、精神までは必ずしも貴方の自由になりません」と答え、遂には嗚咽(おえつ)して何も言えなくなってしまった。しかし、王もまた、玄奘の意向を許さず、さらに供養を増し、毎日食事の時には、王自ら食膳を捧げた。
こうして、玄奘は高昌に引き止められ、初志に違(たが)うこととなった。そこで食事をせぬことを誓い、断食でその心を王に感じさせようとした。こうして端坐したまま3日間、あらゆる水漿(すいしょう)を取らなかった。第4日目になって、王は玄奘の気息(きそく)がようやく疲れてきたのを知り、深く恥じ恐れ、頭を地につけて礼謝して「師よ、どうか自由に西行(せいこう)してください。どうか早く食事をしてください」と言った。玄奘はそれが本当かどうか危ぶみ、王に日を指して欲しいと請うた。そこで王は、「もしそうするのであれば、どうか一緒に仏に対してさらに因縁を結びましょう」と言い、遂に共に道場に入って仏に礼拝し、母の張太妃(ちょうたいひ)に対して、玄奘と共に兄弟なることを約束し、次のように述べた。
「師よ、どうか自由に求法(ぐほう)の旅に赴いてください。ただ、帰還の日、どうかこの国に3年止まって私の供養を受けてください。もしその時成仏していたら、願わくは弟子が波斯匿(ハシノク)王や頻婆娑羅(ビンビサーラ)などのように、師のために外護(げご)の檀越(だんおつ)となりましょう。そこで、曲げてさらに1か月ここに止まって『仁王般若経』を講義してください。その間に師のために旅行用の服を作りましょう。」
玄奘は皆これを許した。太妃も非常に喜んで、「どうか師と長く親戚となり、代々相扶(たす)け合うことをお願いします」と言った。ここで初めて玄奘は食事をした。その節志(せつし)の堅固なることは、このような有り様であった。
その後、王は別に大きなテントを張り、玄奘の講座を開いた。テントの収容人員は300余人が座れるほどだった。太妃以下、王や統師、大臣らが、各々席を別にして聴講した。いつも玄奘が講義に赴くと、王は自ら香炉を取り、自ら出て来てお迎えした。まさに法座に昇ろうとすると、王はまた低く跪(ひざまず)いて踏み台になり、玄奘に背を踏ませた。そして毎日毎日このようにした。
こうして講義は終わった。王は玄奘のために4人の少年僧を給仕とし、法服30具を作り、また西域(さいいき)は寒いことが多いので、面衣(めんい)手袋、靴、足袋(たび)などを数個ずつ作った。また黄金100両、銀銭3万、綾(うすぎぬ)及び絹(きぬ)などは500疋(ぴき)を玄奘の往還20年の経費に当て、別に馬30匹、手力(クーリー)25人を支給し、殿中侍御史(でんちゅうじぎょし)観信(かんしん)を遣わし、西突厥(とっけつ)の葉護可汗(ヤブカガン)の衙帳(がちょう)に道案内させた。また、24の封書を作り、屈支(クチャ)などの24国に宛て、一封書ごとに大綾(たいりょう)一疋を贈物として付けた。別に綾絹(あやぎぬ)500疋と果物2車を葉護可汗に献上させた。可汗への手紙には、「法師は私の弟です。仏法を婆羅門国(インド)に求めようとしています。どうか可汗よ、師を憐れむこと、私を憐れむようにしてください」と書いてあった。
こうして高昌以西の諸国に勅(みことのり)し、それぞれ鄥洛馬(うらくば)を給し、逓送(ていそう)して次の国まで送るよう要請した。玄奘は王から沙弥(しゃみ)や国書、綾絹などを贈られ、かつその餞別が非常に多かったのを恥じらい、上表(じょうひょう)して次のように謝意を述べた。これに対して王は、「法師と私は既に許し合って兄弟となった間柄です。つまり、この国に蓄えるものは皆法師と私の共有物です。どうして感謝される必要がありましょう」と答えた。
出発の日、王は諸僧、大臣、一般の人々と共に、都を傾けて見送り、高昌城の西に進んだ。王は玄奘を抱いて慟哭(どうこく)し、道俗皆悲しんで、別離を悲しむ声は郊外一帯に広がった。王は王妃や人民たちには勅(みことのり)して帰らせ、自分は高僧たちとおのおの馬に乗り、数十里も見送ってから帰った。玄奘が通過した西域諸国の王が彼を礼重(れいちょう)したことは、皆このような有り様であった。
これから西行して無半城(むはんじょう)篤進城(トクスン)を過ぎ、後に阿耆尼(アグニ)国に入った。
[註]
【白力城】(はくりきじょう)新疆闢展県。白力はテュルク語の城を意味するバリクの音写。高昌城東方160里の闢展が比定されている。
【黄門侍宿】(こうもんじしゅく)麴氏高昌国は中国的な官制を施行していた。黄門侍宿は天子の側近に侍する者である。
【宦官】黄門侍宿の下に閹人侍衛の官があったようである。
【真蹤】(しんしょう)仏の真跡の意。
【方等】大乗経典の総称。
【迦羅】カピラヴァストゥ城。迦維羅衛城の略。釈尊の生国。
【微言】精緻要妙の語。
【波崙】(はろん)薩陀波崙の略。訳は常啼、菩薩の名。身命を惜しまず、名利を求めず、一意般若波羅密を求めたという。
【善財童子】華厳経に見える求道の菩薩。福成長者の子で文殊師利の所で菩提心を発し、53人の善知識を歴訪して、最後に普賢菩薩の十大願を聞き、西方阿弥陀浄土に往生せんと願った。
【波斯匿王】ハシノク王。プラセーナジットの音写。勝軍王の意。釈尊と同時代のシュラーヴァスティー(舎衛国)の王。
【頻婆娑羅】ビンビサーラの音写、訳して影勝王。釈尊時代のマガタ国の王。
【仁王般若経】『玄奘伝』には「すなわち仁王経及び諸桟経を講ず。道俗係恋し、並びに長く留まることを願う」とある。
【道案内】この部分は、当時の西域旅行の準備の実態をよく示している。
【屈支】クチャ。
【婆羅門国】インド。
【沙弥】少年僧。
【鄥洛馬】(うらくば)駅伝馬のこと。
【無半城】(むはんじょう)トルファン~トクスン間の布干に推定している。
【篤進城】(とくしんじょう)今のトクスン。玄奘はいわゆる西州図経残巻の銀山道により布干からトクスンを経て阿耆尼国に向かったのである。この間の玄奘のルートについては『新唐書』に「西州の南より南平、安昌両城あり。120里にして天山に到る。西南に谷に入り、礌石磧を経、220里にして銀山磧に到る。また40里にして焉耆の界の呂光館に到る。また磐石を経、100里にして張三城守捉あり。また西南145里にして新城館を経、淡河を渡り焉耆鎮城に到る」とある。
玄奘は王から沙弥や国書、綾絹などを贈られ、かつその餞別が非常に多かったのを恥じらい、上表して次のように謝意を述べた。
玄奘が聞くところによると、江海(こうかい)は遥かに深く、これを渡る者は必ず舟楫(ふなかじ)によるとのことです。群衆が惑うのを導くのは誠に聖言(せいげん)によるものです。そこで如来は一子(いっし)を愛するような大慈悲心を巡らしてこの穢土(えど)に生まれ、三明(さんみょう)の慧日(えにち)を輝かして、この世の幽昏(ゆうこん)を明らかにしました。慈しみの雲は遥かに天を覆い、法雨は三千世界を潤しました。すべての者に利益を与えた後、如来は応ずることをやめて真実に帰しました。彼が遺した教えが東方に流れて600余年、迦葉摩騰(かしょうまとう)と康僧会(こうそうえ)は輝きを呉洛(ごらく)に振い、曇無讖(どんむしん)と鳩摩羅什(くまらじゅう)は美を秦(しん)凉(りょう)に集めました。彼らは玄風を落とさず、皆優れた功績を残しました。ただ遠方の人が来て経典を訳したので、音訓が同じではありません。釈尊去って時遥かにして解釈が食い違い、つい沙羅双樹下(さらそうじゅか)の仏陀の一つの教えが二つの極端な教えに分かれ、一つの大乗の教えが南方派と北方派に分かれてしまいました。争論紛糾しておよそ数百年、どこでも疑いを抱いていますが、これを決する学匠(がくしょう)はおりません。
玄奘は良い宿縁に恵まれ、幼くして仏門に入りました。笈(きゅう)を負い師に従ってまさに24年になろうとし、この間、名高い賢人や優れた友とつぶさに論議を尽くしました。大小乗の宗はほぼ一覧することができましたが、いつも経典を取っては躊躇(ちゅうちょ)し、失望しないことはなく、給園(きゅうえん)を望んでは足を爪立て、鷲嶺(じゅうれい)を思っては想いを馳せぬ時はありませんでした。そして、願わくは一度は拝臨して、多年の惑ひを申し述べたいと思っていました。
しかし、寸管(すんかん)は天を窺(うかが)うことはできず、小蠡(しょうれい)は海を酌(く)むことはできないことが分りました。そこで、装束(しょうぞく)して旅に出て道を行き、だんだん進んで遂に伊吾(イゴ)に到りました。
伏して惟(おも)うに、大王は天地の淳和(じゅんわ)を受け、陰陽の気を資とし、衣を垂れて主となり、人民を子育し給う。東は中国に到り、西は百戎(ひゃっかい)の民を愛撫し、楼蘭(ローラン)月氏(ゲッシ)の地、車師(シャシ)狼望(ロウボウ)の郷も、並びに深い仁愛を蒙り、共に厚徳に霑(うるお)っております。その上、賢者を敬い士を愛し、善を楽み慈愛を流し給う。そして、遠来の私を憂い哀れみ、曲げて引接(いんせつ)され、すでに至り止まるに恩恵は増々深かったのであります。そして、法義(ほうぎ)を明らかにすべく開講し、また兄弟の縁を結び、友情を深められました。その上、書状を西域20余か国に送り、贈物も慇懃(いんぎん)に互いに代わる代わる銭送(せんそう)されました。また西遊の旅が孤独で雪路が寒さ厳しいのを哀れみ、ここに勅(みことのり)を下して沙弥4人を度して伴侶とし、法服(ほうふく)綿帽(めんぼう)裘毯(きゅうたん)靴韈(くつした)など50余り、及び綾絹、金銀銭など、往還20年の資に当ててくださいました。
玄奘は伏して驚き恥じて答うる言葉もありません。交河(こうが)の水が氾濫しても、この恩沢(おんたく)より少なく、葱嶺(パミール)の山を持ち上げても、この恩に比べれば決して重くありません。懸度(けんど)凌渓(りょうけい)の険も、また憂いになりません。天梯(てんてい)道樹(どうじゅ)の郷も、巡礼すること晩(おそ)くはありません。もしまことに天竺(てんじく)入りを果たすことができたら、それはまさに王のご恩のお蔭であります。そして後に色々な師に会い正法を受け継げば、帰国し翻訳して、未聞(みもん)の経典を弘布(ぐぶ)し、邪見の林を切り、異端の穿鑿(せんさく)を断ち、教化の遺漏(いろう)を補い、仏門の指南(しなん)を定めましょう。願わくば、私のささやかな功業が王の殊沢(しゅたく)に答えて欲しいものであります。
しかし、前途は遥かに遠く、久しく止まることはできません。明日辞し去らんとすれば、増々別れの悲しみが増し、到底堪えられません。謹んで感謝上奏(じょうそう)いたします。
これに対して王は、「法師と私は既に許し合って兄弟となった間柄です。つまり、この国に蓄えるものは皆法師と私の共有物です。どうして感謝される必要がありましょう」と答えた。
[註]
【三明】(さんみょう)天眼明、宿命明、漏尽明の三。
【迦葉摩騰】(かしょうまとう)中天竺のカーシャバ・マータンガ。永平10年(64)、洛陽に来て訳経したという。
【康僧会】(こうそうえ)サンガヴァルマン、康居国の人。247年、呉の都建業に来て訳経注疏を行う。孫権のため建初寺を建立。主な訳経は『雑瑜伽経』『六度集経』など。中国に梵唄(インド風の旋律で経典を歌う)を伝えたという。
【曇無讖】(どんむしん)ダルマクシェーマ。385~433。中天竺の人。鄯善国、敦煌を経て、412年姑臧の北涼に来朝。北涼の国師、政治顧問としても活躍。『涅槃経』『金光明経』『仏所行讃』などを訳経。北涼の至宝と仰がれたが、西方へ求経の旅に出ようとして殺された。
【鳩摩羅什】(くまらじゅう)クマーラジーヴァ。350~409または344~413。亀茲国の人。前秦の苻堅に迎えられたが、途中で前秦が滅び、呂光が建てた後涼に滞在。401年後秦王により長安に迎えられた。組の訳経300巻、聞矣3000と言われ、『中論』『百論』『十二門論』『大智度論』『法華経』『阿弥陀経』『維摩経』『十誦律』など多数の重要な経典を訳し、初期訳経伝道史上最も重要である。
【沙羅双樹】クシナガラの沙羅双樹下の教旨を示す。
【給園】(きゅうえん)祇園精舎のこと。スダッタ長者が仏陀とその教団のために建てた僧坊。
【鷲嶺】(じゅうれい)霊鷲山、耆闍崛山のこと。山の頂が鷲に似ているから命名したという。マガタ国の首都王舎城の東方にあるチハタ丘。
【小蠡】(しょうれい)木の心を噛む虫。
【楼蘭】前漢代ロプ・ノール西北湖畔にあった国。王都クロライナ。前77年鄯善と改名。
【月氏】月氏の故地は明確でない。漢籍では「始め敦煌、祁󠄀連の間にあり」というが、最近はタリム盆地一帯を蔽っていた大勢力ではないかという。
【車師】高昌地方の古名。漢代、この地方は車師前部と車師後部に分かれ、車師前部は今のトルファン地方の交河城を都城とし、後部は天山北麓のジムサ(済木薩)付近にあった。姑師ともいう。前部は450年、沮渠氏に滅ぼされ、高昌国を建国した。
【狼望】匈奴(きょうど)の地名。
【交河】(こうが)交河城付近のヤール河。
【懸度】(けんど)インダス河上流ギルギットからダレルに到る険路を指す。
【凌渓】(りょうけい)凌山の渓谷を指す。凌山はアクスからイシク・クル湖に向かうべダル峠を指す。
【天梯】(てんてい)中インドのサンカシヤの三道宝階を指す。
【道樹】ブッダガヤの菩提樹を指す。
それから西行して阿耆尼国(アグニ)の阿父師泉(アフシセン)に着いた。泉は道の南の砂涯(さがい)にあり、崖の高さは数丈で、水はその中ほどから出ている。この泉には次のような伝説が相伝えられている。
昔、ここに商人数百人がさしかかり、水がなくなって困っていた。たまたま一行の中に一人の僧侶がいた。彼は旅費を持たず、キャラバンの人々から食事を恵んでもらっていた。商人たちは、「この僧は仏に仕えているので、そのため我々は供養したのである。万里を行くとも彼は行資を払っていない。今我々は水がなくて渇きに苦しんでいるのに、彼は少しも心配していない。一緒に相談してみようではないか」と言った。すると、その僧は、「貴方方はもし水が欲しかったら、各自が仏に礼(らい)して三帰(き)五戒(かい)を受けなさい。そうすれば、私は貴方方のために、崖に登って水を作りましょう」と答えた。人々は皆渇(かわ)きに苦しんでいたので、直ちにその言葉に従って戒めを受けた。やがて僧は、「では私が崖に登った後、貴方方は『阿父師(あふし)、私のために水をください』と言いなさい。必要な量の多少によって言いなさい」と言って崖に登った。しばらくして、人々は教えられた通り「水をください」と叫ぶと、間もなく水が出てきて渇きを癒(いや)すことができ、人々は大いに喜んだ。ところが、僧侶は遂に戻って来なかった。そこで人々が崖に登ってみると、僧侶は既に死んでいた。人々は泣いて悲しみ、西域の法によって遺体を焼き、座っていた所に石や瓦を集めて塔を造った。
その塔は今もなおこの地にあり、水も絶えていない。旅人が往来すると、人々の多少によって水が多くなったり少なくなったりする。旅人が通らぬ時はポトポト浸み出ているだけである。玄奘は人々と泉の側に泊まった。
翌朝出発して、また銀山を越えた。山は非常に高く広く、皆銀鉱で、西域の銀銭はここからの銀によっている。山の西で群賊に出会ったが、人々は賊に物を与えたので賊は去った。こうして王城の所に到り、川岸に泊まった。その時、同行していた数十人の胡商(こしょう)は、先に取引を貪ろうとして、夜中ひそかに出発した。ところが、10余里あまり行った所で賊に遭って切り殺され、一人も逃げられず、翌朝玄奘らがそこへ行ってみると遺骸が転がっていた。持っていた財貨もなく、人々は心から嘆き悲しんだ。
しばらく行くと、遥かに王都が見えてきた。アグニ王は諸臣と共に玄奘を出迎え、王宮に引き入れて供養した。この国は、先に高昌に攻撃され、恨みを持っていたので、馬を支給してくれなかった。そこで玄奘はたった一晩泊まっただけで出発した。
[註]
【阿耆尼国】(あぐに)今のカラシャール地方。都城はカラシャール南方のバグダットに比定される。
【胡商】イラン系の商人。
屈支国(クチャ国)の界内に入った。一行がまさに王都に近づくと、王が群臣や大徳僧モークシヤグプタらと迎えに来た。クチャと近辺の諸僧数千人は、皆城の東門の外に慢幕(まんまく)を張り、行像を置き、音楽を奏して待っていた。玄奘が到着すると、諸僧はそれぞれやって来て慰労の言葉を述べ、各々還って自分の座に着いた。
やがて一人の僧が美しい花を盤に盛り、捧げ持って玄奘に授けた。玄奘はそれを受けると仏前に行き、散華(さんげ)礼拝し、終わるとモークシャグプタの次の席に座った。座ると、またある僧が玄奘に花を捧げ、次いで蒲桃漿(グレープジュース)を献じた。初めの一寺で花とグレープジュースを受け、次いで他の寺でも同様にし、あちこちの寺で日没まで饗応(きょうおう)された。その後、僧徒たちは初めて解散した。
クチャには高昌の人が数十人おり、この地で出家し、別に一寺に集まっている。その寺は城の東南にあった。彼らは玄奘が高昌からやって来たので、まず自分たちの所に泊まるようにと請うた。そこで、その夜はこの寺で泊まることとし、王は諸僧正(そうじょう)らと共にそれぞれの家に帰った。
翌日、王は玄奘に王宮に来るよう要請し、つぶさに供養をした。ところが、食事中に三浄(さんじょう)があり、玄奘は取らなかった。そこで王は深くこれを怪しんだ。玄奘は、「三浄は小乗の許すもので、私が学んだ大乗教では許されていません」と言って、他の品を食べた。
食事が終わってから城の西北にあるアーシュチヤリヤ寺に赴いた。ここはモークシャグプタが住んでいる寺である。グプタは聡明俊敏で、クチャの人々が皆崇拝している人物であった。インドに遊学すること20余年、その学業は種々の経典に通じているが、中でも『声明』に最も通暁(つうぎょう)していた。王や国人は皆彼を尊重し、「独歩(どくほ)」と呼んでいた。彼は玄奘がやって来ると、ただ客に対する礼で待遇するのみで、玄奘を知法の人として待遇しなかった。彼は玄奘に向かって、「この国には『雑心』『倶舎』『毘婆沙』などの経典が一切皆そろっている。これを学べば悟りを得るに十分である。わざわざ西方へ赴いて難儀(なんぎ)を受ける必要はない」と言った。そこで玄奘は、「ここに『瑜伽論』はありますか」と尋ねると、グプタは、「どうしてそんな邪見の書のことを聞くのですか。真の仏弟子たろうとする者は、その経は学びません」と答えた。
玄奘は初めグプタを深く尊敬していたが、この言葉を聞いてからは、まるで土くれのように見るようになった。そして玄奘は、グプタと次のように論争した。
「『婆沙』『倶舎』は中国に既にあります。その理は粗雑で言葉は浅く、究極の説ではないのが残念です。そこで私はこうしてやって来て『大乗瑜伽論』を学びたいと考えているのです。また、この『瑜伽』は弥勒菩薩が説いた教えです。それを貴方は今邪見の書と言いましたが、貴方は無間地獄を恐れないのですか。」
「『婆沙』などの経典は、お前にはまだ理解できていまい。どうしてその教えが深くないと言うのか。」
「師は今『婆沙』を解しますか。」
「もちろん私は悉く解することができる。」
そこで玄奘はまず『倶舎』の初めの文を引いて尋ねた。ところが、グプタは初めから間違ってしまう有り様なので、玄奘はぐんぐん追究した。やがてグプタは遂に顔色を変えてしまい、
「こらこら、別の所を聞きなさい。」
と言った。玄奘がさらに他の一文を聞いたが、これもまた分らず、遂には、
「そんな句は『論』にはない。」
と言い出す始末である。
ところが、たまたま王の叔父に当たる智月(ちげつ)という経論を解する人物が側にいて、「いや、その句は論にありますよ」と言い、本を取って読み上げた。グプタはすっかり恥じ入って、「年老いて忘れてしまった」と言った。玄奘がその他の部分を尋ねても、グプタは適当な解釈はできなかった。
[註]
【屈支国】今のクチャ(庫車)。古く亀茲国といった。
【モークシヤグプタ】木叉毱多。
【三浄】三種の浄肉、大乗は出家に肉食を禁ずる。
【アーシュチヤリヤ寺】阿奢理児寺。
【声明】(しょうみょう)
【雑心】(ぞうしん)
【倶舎】(くしゃ)
【毘婆沙】(びばしゃ)
【瑜伽論】(ゆがろん)
砂磧地を過ぎてペダル峠に到った。ここはパミールの北隅である。その山は険阻(けんそ)で、天に至るほど高い。天地開闢(かいびゃく)以来氷雪が集まって積氷(せきひょう)となり、春夏になっても解けず、氷河となって天に連続しているかのようで、仰ぎ見ると皚然(がいぜん)として果てしなく伸びている。氷河が崩れて道の側に横たわるものは、あるいは高さ百尺余り、あるいは広さ数丈もある。そのため、山道は凹凸(おうとつ)甚だしく、この峠を越えるのは一苦労である。しかも、時には風雪が吹きすさび、靴や裘(かわごろも)を重ねても寒さに慄(おのの)いてしまう。時が来て、眠ったり食事をしようとしても、乾いた所もない。しかたなく釜をかけて飯を焚き、氷を寝床に寝てしまうのみである。7日の山旅の後、ようやく山路を出ることができた。キャラバンのうち、凍病死した者が10人のうち3~4人もあり、牛馬はそれ以上だった。
[註]
【ペダル峠】凌山。アスク北方の天山山脈の主峰群を指す。凌山は氷山の意。アスク地方から北方へ天山を越えるにはアスク北方のムザルト峠とする説と、アスク西方80㎞のペダル峠とする説の2つがあるが、アスクで色々情報を聞き、かつイシック・クルへの道となると、当然後者のペダル峠越えが正しいという。
【パミール】葱嶺。
【裘】(かわごろも)皮衣。
湖岸伝いに西北に500里進んで素葉城(すいあぶ城)に到り、突厥(とっけつ)の葉護可汗(ヤブクカガン)に会った。
可汗(カガン)はちょうど狩猟に行くところで、多数の兵馬を従えていた。可汗は緑色の綾(あやぎぬ)の上衣を着、頭髪は長さ一丈ばかりもあり、絹で額を包んで後ろに垂らしていた。達官(たるかん)200余人が、皆錦の着物をつけ編髪(へんぱつ)のスタイルで可汗の周囲を取り巻いていた。その他の軍兵は皆毛織物や皮衣で、矛や旗、弓などを持ち、ラクダや馬に乗った人々は見渡せぬほど沢山いた。
さて、玄奘が可汗を訪れると、可汗は大いに喜んで、「私はこれからある所へ狩りに行きますが、2~3日で帰ります。師はどうかしばらく私の衙帳(がちょう)でお待ちください」と言い、達官の答摩支(タマチ)をつけて、一行を突厥衙帳に送り、休ませた。3日後、まさしく可汗は帰って来て、玄奘を自分のテントに導いた。可汗は一つの大きなテントにおり、そのテントは金の花の模様をつけ、絢爛(けんらん)と輝いていた。もろもろの達官はテントの前に長い筵(むしろ)を敷き、2列になって座り、皆錦の服を美しく着飾っている。その他の護衛はテントの後ろに立っている。これを見ると、遊牧の君長といえどもまことに尊美(そんび)であった。
玄奘がテントに30余歩の所に近づくと、可汗はテントを出て迎え拝し、慰問の語を述べてからテント内の座に着いた。突厥(とっけつ)はゾロアスター教徒なので火に仕え、胡床(こしょう)を用いない。木は燃えるので火を含むと考えて敢えて使用せず、ただ地面に重茵(マット)を敷くだけである。そこで玄奘のためには、鉄の胡床を設け、敷物を敷いて座るようにと請うた。
しばらくして、さらに唐使と高昌の使人に引見した。彼らは入って来て、国書と贈物を奉った。可汗は親しくこれを見て非常に喜び、使者たちを座らせ、酒を取り寄せ奏楽することを命じ、可汗自ら諸臣や使人と共に飲んだ。別に蒲桃漿(グレープジュース)を求めて玄奘に捧げ、こうして大宴会となった。酒盃は入り乱れて互いに献酬(けんしゅう)を繰り返し、「禁末兜離(きんばいとうり)」という奏楽がかしましく演奏された。蕃俗(ばんぞく)の音楽ではあるが、なかなか耳目(じもく)を楽しませ、心を和やかにさせる。しばらくすると、さらに食事が出た。羊肉や牛肉の料理が目の前に山のように積まれた。別に浄食を作って玄奘に勧めた。内容は餅、飯、酥乳(ヨーグルト)石蜜(さとう)刺蜜(はちみつ)蒲桃(ブドウ)などである。食べ終わってから、さらにグレープジュースが出た。
そして可汗は玄奘に説法を請うた。そこで玄奘は十善と物命(ぶつめい)の愛養並びに波羅密(はらみつ)が解脱の業(ごう)であることを教えた。可汗は手を上げて額を叩き、歓喜してこの教えを受けた。
それから玄奘はここに数日滞在したが、可汗は「法師は印特伽国(インドウカ国)に行かぬ方がいいでしょう。彼の地は非常に暑く、10月になってもここの5月と同じです。師の容貌を見ると、どうもインドに行くと病気になりそうです。彼の地の人は黒色で、礼儀もなく見るに堪えません」と勧めた。しかし玄奘は「いや、私がインドに行くのは、ただ聖蹟を訪ね、仏法を慕い求めたいためなのです」と答えた。そこで可汗は軍中に命令して、中国語と西域諸国の言葉の話せる者を探し、遂に一人の青年を見つけ出した。彼はかつて長安に数年いたことがあり、中国語もよく理解していた。そこで彼を通訳の摩咄達官(まとつたるかん)に任命し、諸国への通知書を作り、彼に玄奘を迦畢試(カピシー)国まで送らせた。また、緋綾(ひあや)の法服一襲(ひとかさね)、絹50疋(ぴき)を贈り、可汗自ら群臣と共に10余里見送ってきた。
[註]
【素葉城】スイアブ。今のビシュケクの東方約40㎞、トクマクの南7㎞にあるアク・ベシム遺趾が素葉城の跡と考えられている。遺跡は巨大な城壁によって周囲を囲まれている。
【突厥】(とっけつ)西突厥の衙帳(がちょう)は『唐書』に「また西20里、砕葉城に到る。城の北に砕葉水あり。水の北40里に羯丹山あり。十姓可汗毎に君長をここに立つ」とある。砕葉城(アクベシム)の北に砕葉水(スイアブ)があり、その北40里に羯丹山があり、その付近が西突厥の衙帳だったという。現地を踏査してみると、トクマク市の北郊に砕葉河があり、これを渡ると間もなく2~3㎞でカザフ共和国の検問所があり、ここから10㎞ほど北東に進むと広潤な山麓の草原が開け、現地の人に聞くと今日は曇って見えないが、北方に秀麗な山が見えるという。そして、この大草原は現在軍馬の牧場として使われているという。この山麓の草原こそが西突厥の衙帳で、玄奘はこの辺りでのテントの中で西突厥葉護可汗の帰りを待ったものと思われる。
【達官】(たるかん)突厥の官号。達干も同じ。
【十善】①不殺生、②不偸盗、③不邪淫、④不妄語、⑤不綺語、⑥不悪口、⑦不両舌、⑧不貪欲、⑨不瞋恚、⑩不邪見。
【波羅密】①布施、②持戒、③忍辱、④精進、⑤禅定、⑥智慧の六波羅密多により涅槃の彼岸に達すること。
【印特伽国】(インドゥカー)インドをいう。
【摩咄達官】(まとつたるかん)通訳官。
また西北に進んで大砂漠に入った。水草もなく、砂漠に散在する遺骨を望んで進むだけである。
500余里で颯秣建国(サマルカンド国)に着いた。ここでは王や国民は仏法を信ぜず、火に仕えるゾロアスター教を信じている。この国に寺は二つあるが、僧はいない。客僧が立ち寄ると、土地の人々は火をもって追い払い、ここに定住することを許さない。
玄奘が初めて王に会った時には、王の態度はいかにも驕慢(きょうまん)であった。そこで何日か泊まった後、王のために人と天の因果、仏を讃えることの功徳、仏を恭敬することの福利などを説いた。すると王は歓喜して、遂に玄奘に請うて斎戒(さいかい)を受け、慇懃(いんぎん)に仕えるようになった。玄奘に従っていた二人の少年僧がたまたま寺に行って礼拝したところ、何人かの胡人(ソグド)がやって来て、火で二人を追い払った。そこで少年僧たちは帰って来てから国王にその旨を訴えた。王はその男を捕えさせ、国民の目の前でその手を切らせようとした。この話を聞いた玄奘は王に慈善を勧め、かつその身を斬るに忍びず、これを救った。王はそこで犯人を重く笞(むちう)って、都の外に追放した。
この一件以来、国の人々は皆粛然(しゅくぜん)として玄奘に仏法信仰を求めるようになった。そして遂には大会(だいえ)を開き、ある人を出家させて寺に置くことになった。玄奘が人々の邪心を正し、迷妄の風俗を啓蒙(けいもう)することは、至る所このような有り様であった。
[註]
【颯秣建国】(サマルカンド)。唐では康国という。都城はサマルカンド北郊のアフラシアブの廃趾。
【祆教】(けんきょう)ゾロアスター教。
アム川を渡って活国に到った。ここは葉護可汗(ヤブカガン)の長男、旦度設(タントしゃど)のいる所であり、彼は高昌王の妹の聟であった。そこで玄奘は高昌王から彼に宛てた手紙を持っていた。ところが、玄奘が着いた時には、公主の可賀敦(かがとん)は既に死んでおり、旦度設もまた病気に罹っていた。玄奘が高昌から来たということを聞き、また高昌王の手紙を得て、彼は左右の男女と嗚咽(おえつ)して止まなかった。彼は玄奘に向かって「私は師とお会いして目が開くようになりました。お願いですから、もう少しここで滞在してくださいませんか。もし病が治ったら、師を送って婆羅門国(バラモン国)まで行きましょう」と言った。
ちょうどその頃、さらに一人の僧がこの国へやって来た。彼は王のために呪文を唱え、ようやく病気を癒すことができた。その後間もなく旦度設はうら若い王妃を娶った。ところが、彼女は王の長男に頼まれ、薬を盛ってその夫を殺してしまった。旦度設が死んでしまうと、高昌の公主の男児はまだ幼少だったので、長男が特勤(てぎん)の位を奪い、即位して設(しゃど)となり、うら若い王妃を自分の妻としてしまった。玄奘は喪に合ってしまったので、ここに一か月余り滞在した。
活国には達磨僧伽(ダルマサンガ)という僧がいた。彼はインドに遊学したことがあり、葱嶺(パミール)以西の諸国では法匠(ほうしょう)として尊敬されていた。カシュガルやホータンの僧も、彼の令名(れいめい)が高いので敢えて対論した者はなかった。玄奘はその学問が浅いか深いかを知りたいと思い、人づてに師が経論を幾部理解しているのか聞いてみた。彼の弟子はこれを聞いて皆怒った。達磨(ダルマ)は笑って「私は全ての経論を知っています。どうか自由に聞いてください」と言った。玄奘は彼が大乗は学んでいないことを知り、わざわざ小乗の『婆沙』などについて幾つか質問をしたが、よく答えられなかった。そこで達磨は玄奘に謝服し、その門人たちも皆恥じ入った。それ以後、二人は喜んで往来し、彼はあちこちで自分が到底玄奘に及ばないことを誉めそやした。
間もなく新しい設が即位した。そこで玄奘は道案内と駅馬(えきば)を求め、南進して婆羅門国へ向かおうとした。すると設は、「私の領内に縛喝国(バクトラ国)という所があります。北は縛蒭河(ヴァクシュ河)が流れ、人々は小王舎城(おうしゃじょう)と呼び、非常に聖跡の多い所です。どうか師よ、しばらくそこへ行って観覧し、その後で乗り物に乗って南方へ行きませんか」と言った。たまたまバクトラの僧侶数十人が旦度設が死んで子が即位したことを聞き、共にこの国にやって来て弔慰していた。そこで玄奘が彼等に会って、どうしたらよいか尋ねると、彼らは次のように述べた。「それは私たちと一緒に行くべきです。バクトラから天竺へのいい道があります。もしまたここへ戻って来たら、無駄に迂回するようなものです」。そこで玄奘はその言葉に従って、設と別れ、乗り物を雇って、僧たちとバクトラに向かった。
[註]
【活国】今のクンドゥズ。『旧唐書』は遏換(かつかん)城という。かつてはバーミヤンの西方に当てられていたが、今は採らない。
【旦度設】(たんどしゃど)設(しゃど)は官名である。
【可賀敦】(かがとん)可賀敦は可敦と共に王妃の尊称。
【特勤】(てぎん)突厥の王子または王弟の尊称。
縛喝国(バクトラ国)に着いてみると、その城邑(じょうゆう)は実に立派で、オアシスも豊かであり、まことに素晴らしい土地で、伽藍は100か所もあり、僧徒は3000余人で皆小乗を学んでいた。城外の西南に納縛(ナヴァ)伽藍があり、装飾は甚だ美しかった。伽藍内の仏堂には容量一斗余りの仏の洗面器や、長さ一寸、広さ8~9分の仏歯があった。色は黄白色で、いつも光沢があった。また、仏の用いたと言われる箒(ほうき)もあった。カーシャ草で作ったもので、長さ3尺余り、周囲7寸ばかりで、柄の所は雑宝で飾ってあった。この三種のものは斎日(さいじつ)ごとに全ての人に展示すると言い、至誠(しじょう)の人が見ると神光を発するという。
伽藍の北にストウーパがあり、高さは200余尺ある。また西南には一軒の精廬(しょうろ)があり、この建物は相当古いもので、中で修業し四果を証した者は、いつの世にも絶えたことがないという。彼らが永眠した後は、皆塔記(とうき)を建てるというが、その塔は数百余りも連接して建っていた。
バクトラ大城の西北50里に提謂(ていい)城がある。また城の北40里に波利(はり)城がある。城中には高さ3丈のストゥーパが二つある。昔、釈尊が初めて成道した時、提謂と波利二人の長者の麨(むぎこがし)と蜜を受けたという。この二長者は初めて五戒十善を聞き、共に供養したいと請うた。釈尊は髪と爪を授ける時、塔を造らせ、造塔の儀式も行った。二長者は、この髪と爪を持って本国に帰り、霊刹(れいさつ)を建立したのが、これらの寺であるとのことであった。城の西70余里にも高さ2丈余りのストゥーパがあり、迦葉仏(かしょうぶつ)の時の作と言われる。
納縛(ナヴァ)伽藍に磔迦(タッカ)国の小乗の三蔵がいた。その名はプラジュニャーカラといい、バクトラ国には聖跡が多いと聞いて、ここへ来て礼敬(らいきょう)していたという。この人は聡明で学問を尊び、若くして学の奥義を究め、九部を研究し四含を広く学んで、その名声は普くインドに知れ渡ったほどであった。彼は小乗の諸経に通じ、『阿毘達磨』『迦延』『倶舎』『六足』『阿毘曇』など、全てに通暁(つうぎょう)していた。彼は玄奘が遠く中国から法を求めて来たことを聞き、会ってみて非常に喜んだ。玄奘はそこで疑問を述べ、『倶舎』『婆沙』などの経典を引いて質問した。その答えは非常に洗練されたものだった。そこで、遂に玄奘はこの地に一月余り滞在し、プラジュニャーカラについて『毘婆沙論』を学んだ。この寺にはまたダルマプリヤ、ダルマカラという二人の小乗の三蔵がいた。いずれもバクトラ国では人々に崇敬されている人物であったが、玄奘が俊秀であるのを見て篤く崇敬した。
当時、バクトラの西南に鋭末陀、胡寔健両国があった。その王は玄奘が遠方からはるばるやって来たことを聞き、皆貴臣を遣わして自分たちの国を通って供養を受けてくれるよう要請してきた。玄奘は辞退して行かなかったが、再三使節を送って来たので、止むを得ずその国に赴いた。王は非常に喜び金宝や飲食を連ねて玄奘に施したが、玄奘は皆貰わず引き返した。
[註]
【縛喝国】バクトラ。今のアフガニスタン北方のバルフを指す。
【縛蒭河】ヴァクシュ河、今のアム・ダリア。
【納縛】ナヴァ。唐では新という。
【斎日】毎月8日、14日、15日、23日、29日、30日の6日間。
【阿毘達磨】(あびだつま)
【迦延】(かえん)
【倶舎】(くしゃ)
【六足】(ろくそく)
【阿毘曇】(あびどん)
【毘婆沙論】(びばしゃろん)
【般若羯羅】プラジュニャーカラ。唐では慧性という。
【達摩畢利】ダルマプリヤ。唐では法愛という。
【達摩羯羅】ダルマカラ。唐では法性という。
【鋭末陀】ユマダ国。
【胡寔健】グーズガン国。