三蔵法師は諱は褘(き)、字(あざな)は玄奘、俗姓は陳(ちん)といい、陳留(ちんりゅう)の人である。
父の慧(え)は英傑で雅やかであり、若い時から経学に通じていた。彼は身の丈8尺、眉目(みめ)麗しくゆったりとした衣服を着て儒者の姿を好んだので、人々から郭有道(かくゆうどう)のようだと言われた。彼には4人の男の子があり、玄奘はその四男であった。
玄奘は幼児から人品特に優れ、頭の良いことは抜群であった。8歳の時、父は彼を机の側に座らせて『孝経』を教えていたが、「曾子(そうし)席を避ける」の句に至ると、たちまち襟を正して立った。父がその訳を聞くと、彼は、
「曾子は師の命令を聞いて席を避けたと言われます。今私は父の教えを聞いているのに、どうして安座していられましょう。」
と答えたので、父は非常に喜んだ。父は彼が将来必ず大成するであろうと考え、一族の人々を集めてこのことを話すと、人々は皆祝福して、
「この子はまさしく貴方の生まれ変わりです。」
と言った。
その幼児から頭の良いことは、このようであった。その後つぶさに経典の奥義に通じ、古えを愛し賢人を尊び、正しい書物でなければ見ず、聖人の風でなければ習わないという有り様で、子どもたちの仲間に入って遊んだり、市街を歩き回るということもなかった。鉦(かね)や太鼓(たいこ)が通りに鳴り響き、見世物が街にかかって人々が沢山集まっても、一度も出かけたことはなかった。また小さい時から愛想よく父母に孝養(こうよう)することを知っていて、その言行は心温かく清らかで真面目であった。
[註]
【陳留】(ちんりゅう)河南省陳留県。
次兄の長捷(ちょうしょう)は先に出家して東都の浄土寺に住んでいた。彼は弟が仏法を伝える能力のある男とみて、道場に連れて行って経典を読み習わせた。その時、にわかに詔勅があり、洛陽で14人の僧を任命することとなった。当時洛陽には学業の優れた者が数百人もおり、玄奘は幼少だったので応募者になれず、役所の門の傍らに立っていた。
その時の人選の官吏が大理卿(だいりきょう)の鄭善果(ていぜんか)という人で、彼は人の才能を見抜く力があった。玄奘を見て、これは珍しいと見た彼は、「お前は誰の子か」と尋ねた。玄奘が氏姓(しせい)を答えると、さらに次のように問うた。
「お前は度(ど)を求めているのか。」
「そうです。ただ私は近頃この道に入ったばかりで、まだ学業もわずかであり、応募できません。」
「出家してどうするつもりか。」
「はい、心は遠く如来の跡を継ぎ、身近ではその遺法(いほう)を輝かしたいと思います。」
鄭善果(ていぜんか)は深くその志を讃め、またその容貌が賢そうなので、特別に度することにした。そして官吏に向かい、
「経典の研究は難しいことではあるまいが、人物を得るということは難しい。もしこの子を度すれば、将来必ず釈門(しゃくもん)の偉人になるであろう。ただ、恐らく我々は、彼が天高く飛んで甘露(かんろ)を降り注ぐように、仏教のために大活躍するのは見ることができないだろう。しかし、かかる才能ある男は失うべきではない。」
と言った。今日になって、その言葉を振り返ってみると、まさしく鄭卿(ていきょう)の言葉は誤りではなかったのである。
[註]
【東都】洛陽。
【経典を読み習わせた】玄奘は11歳にして『維摩(ゆいま)』『法華(ほっけ)』を誦したという。
【僧を任命】『高僧伝』に「大業末歳、勅を九宮に下し、並びに寺于を為り僧を度す。綱管は相続して維持せしむ云々」とあり、恐らくこの時の度を指すものと思われる。
【大理卿の鄭善果】『鄭善果伝』によれば、「鄭州栄陽の人、大理卿となる。唐興るに及び太子左庶子となり、貞観の初め、岐州及び江州刺史となる」。ただし『高僧伝』には洛陽得度のことは見えない。
こうして出家してからは兄と同じ所にいた。
当時、浄土寺には景(けい)法師が『涅槃経』を講じていた。彼は経巻をとって熱心に研究し、遂に寝食を忘れるほどだった。また、厳(げん)法師に『摂大乗論』を学び、ますます熱心に研究に没頭した。彼は一度講義を聞けばほとんどその内容が分り、復習の後には全く疑義を残さなかった。そこで衆僧は皆驚き、座に上って再講述させたが、読みも解釈もまさに悉く師の教えを尽くしていた。彼の素晴らしい名声や噂は、この時から発したのである。時に彼は13歳であった。
その後、隋は統一を失い天下は騒然となった。都は桀(けつ)、跖(せき)のような悪者たちの巣窟となり、河南地方も暴徒が群がり集まった。官吏や僧侶もしだいに逃亡し、街には白骨が転がり、竃(かまど)の火も途絶える有り様だった。かつて、漢代に王莽(おうもう)と董卓(とうたく)が僭逆(せんぎゃく)を謀った時も、五胡時代に劉淵(りゅうえん)と石勒(せきろく)が華北を混乱させた時も、これほど人民を斬殺し国内を消耗させたことは、未だかつてなかった。
玄奘は年は幼かったが、すでに天下の大乱を見抜いていた。そこで兄に向かい、
「ここは父母の村とはいいながら、今は混乱してこのような有り様です。どうしてこの地を守って空しく死んだりできましょう。私は唐の皇帝・高祖が晋陽の人々と共にすでに長安にあり、天下の人々が父母のように従うように頼っていると聞きました。お願いですから、貴方と一緒に長安に行きましょう。」
と言った。兄もその意見に従い、二人で長安にやって来たのは武徳元年(618)のことであった。
この頃、唐はまだ草創期で、時々戦争があり、兵法(いくさ)が急務で儒教、仏教などを学んでいる暇はなかった。そこで、長安にはまだ仏教の講席がなかった。これを見て玄奘は慨嘆(がいたん)した。かつて、隋の煬帝は東都に4つの道場を建て、天下の名僧を召してここに住まわせた。そこで、召されて集まった人々も皆一芸の師であった。それゆえ高僧は林の如く、中でも景、脱、基、暹らはその代表であった。ところが、隋の末に内乱が起こって、寺院、僧侶への供料が絶え、多くの僧が綿(めん)蜀(しょく)に歴遊した。そのために蜀には仏法に詳しい人が多数住んでいた。
そこで玄奘はまた兄に向かって、
「長安には未だ仏法が行われず、我々は空しく時を過ごすことはできません。お願いですから、蜀に行って指導を受けましょう。」
と言い、兄もその意見に従った。
[註]
【景法師】釈道基と同門またはその弟子の慧景か。『高僧伝』に「時に彭門蜀塁にまた慧景、宝暹(せん)なる者あり」とある。
【涅槃経】(ねはんぎょう)
【厳法師】未詳。
【摂大乗論】(しょうだいじょうろん)
【玄奘13歳】『行状』には「歳15にして兄と浄土寺に住す」とし、『録』には「歳13年」に作る。玄奘の誕生は「隋の開皇20年(600)」または「仁寿2年(602)」とされる二説がある。「仁寿2年」説が採られる。
【桀】(けつ)桀は夏の最後の帝、殷の紂王と共に暴君の代表といわれる。
【跖】(せき)跖は盗跖の略。伝説的大盗賊といわれる。
【王莽】(おうもう)王莽(前45~後23)は前漢の簒奪者。
【董卓】(とうたく)董卓は後漢末の群雄の一人。少帝を廃し、献帝を立てて専権をふるった。
【劉淵】(りょうえん)劉淵(?~310)は南匈奴の出身で、五胡十六国の漢の創始者。
【石勒】(せきろく)石勒(274~333)は羯族出身、後趙の創始者。
【唐の皇帝】唐の高祖が長安に入ったのは、隋大業13年(617)9月庚申である。
【晋陽】山西省大原県。
【長安入り】玄奘兄弟は荘厳寺に住したという。
【景、脱、基、暹(せん)】慧景、敬脱、道基、宝暹か。慧景と宝暹は『高僧伝』にその名のみ見える。敬脱(555~617)は汲郡の人。幼少に出家し『成実』に通じ、大業13年(617)洛陽の鴻臚寺に卒した。道基(573~637)は河南東平の人。『摂論』に通じ、貞観11年、益州福成寺に卒す。
【蜀】(しょく)四川省綿陽県、成都。
さて、二人は共に子午谷(しごこく)を経て漢川に入り、空(くう)慧景(えけい)の二法師にお会いした。彼らは皆道場の大徳であった。相見て互いに悲しんだり喜んだりした。ここに滞在すること一月余り、毎日二人の法師に従って勉強し、その後一緒に成都に向かった。
蜀には多くの高僧が集まり、大いに法莚(ほうえん)を開いていた。ここで彼はさらに道基(どうき)法暹(ほうせん)両師の『摂論』『毘曇』や、道震(どうしん)法師の『迦延』の講義を聴講した。しかも、寸陰を惜しんで努力したので、2~3年で仏典の諸部に精通した。
当時、天下は飢えて乱れていたが、蜀地方のみは物資豊かで平穏であった。そこで、天下の僧侶がこの地方に集まって来たので、講座は常に数百人という盛況であったが、玄奘の理智(りち)や宏才(こうさい)にかなう者はなかった。そのため、彼の名声は呉(ご)蜀(しょく)荊(けい)楚(そ)に知らぬ者はなく、人々がその美風を想望することは、ちょうど昔の人が李膺(りよう)と郭泰(かくたい)を尊敬するかのようであった。
玄奘の兄は成都(せいと)の空慧(くうえ)寺に住んでいた。兄はまだ風采は明朗かつ俊敏で身体も大きく、父に似ているところもあり、仏教学はもとより仏教以外の学問も好きであった。その講ずるところは『涅槃経』『摂大乗論』『阿毘曇』であるが、中国の典籍にも詳しく、特に老荘(ろうそう)の学に通じていて、蜀の人々に慕われていた。ここの惚管(そうかん)の酇公(さんこう)は、特に彼を崇拝していた。その作詞や談論はともに含蓄(がんちく)があり、かつ風流で、物に接し凡人を誘導することにおいては弟に恥じぬ力を持っていた。
しかし、玄奘が亭々(ていてい)と一人抜きん出て俗塵(ぞくじん)に交わらず、遠く八紘(はっこう)にまで赴いて仏教の玄理(げんり)を極めたこと、宇宙を明らかにすることを志し、聖業を継ぐことを志し、頽廃した綱規を正しくし、異なれる風俗を挫(くじ)くこと、また荒い風波を渡り歩いても心の倦(う)むことなく、天子の面前でも気節いよいよ高いというような点は、もとより兄の及ばぬところであった。しかも兄弟二人の徳行が清らかで正しく評判が良いことは、廬山(ろざん)の兄弟、慧遠(えおん)と慧持(えじ)でも、これ以上のものではなかった。
[註]
【子午谷】(しごこく)長安県西南100里。
【漢川】(かんせん)漢中、陝西省南鄭県。
【空法師】未詳。
【法師に従って】『行状』によれば、行旅の間『摂論(しょうろん)』『毘曇(びどん)』を随聞したという。
【法莚】(ほうえん)仏教の講座。
【聴講】『行状』には、宝暹の『摂論』、道基の『毘曇』を聞くとある。
【道震法師】『高僧伝』には道振、『行状』には志振とある。
【迦延】(かえん)迦旃延の『八犍度論』を指す。
【楚】華中、華南。
【李膺】(りよう)110~169。後漢末の人。河南伊魚陽太守、蜀太守、司隷校尉などを歴任。名節清廉の士の中心となり、党錮の獄で終身禁錮となる。後、霊帝の時、召還されたが再び宦官を除こうとして殺された。
【郭泰】(かくたい)128~169。後漢の清穏有徳の士。河南伊の李膺と交わって有名になったが、仕官せず、党錮の獄も免れた。
【成都の空慧寺】玄奘が武徳5年(622)に成都で受具したことは『高僧伝』『行状』等、諸書一致している。ただし、この年が満20歳であるとすると、「麟徳元年62歳歿」の説と計算が合わぬことになる。玄奘の生没年については二説ある。
【涅槃経】(ねはんぎょう)
【摂大乗論】(しょうだいじょうろん)
【阿毘曇】(あびどん)
【八紘】インド。
武徳5年(622)に、玄奘は満20歳になったので、成都(せいと)で僧職授任式を受けた。夏坐(げざ)をして律(りつ)を学び、五篇七聚の教えは一遍で修得した。こうして益州における経論は既に悉く研究し尽したので、玄奘はさらに長安に赴いて経典の奥義を研究したいと思った。しかし、条式に妨げられ、また兄に止められて、長安行きは実現できなかった。
そこで、玄奘はひそかに商人と仲間になり、船で三峡を経て揚子江を下り、荊州の天皇寺(てんのうじ)に到った。この地の僧や俗人は、前々から彼の評判を聞いていた。その玄奘がやって来たので、人々は皆説教されんことを請うた。そこで、玄奘は人々のため『摂論』と『毘曇』を講義し、夏から冬にかけてそれぞれ3回ずつ講ずることができた。
当時、この地は徳望高い唐朝の一族であった漢陽王瓌(かい)が統治していた。王は玄奘が来たことを聞いて非常に喜び、自ら礼拝した。説法討論の日、王は官吏や僧を率い、およそ一芸に秀でた人々は皆講堂に集まった。ここで質問が雲のように集まり難問が続いたが、玄奘は一々対応し、細かに解釈して澱みなく納得できるように答えた。聴衆の中には深く悟る者もあり、嬉し涙に暮れるほどであった。王もまた心から讃嘆し、お布施は山のように積まれたが、玄奘は一つも取らなかった。
荊州での講義が終わると、玄奘はまた北方に赴いて各地の高僧を訪ね求めた。まず相州では慧休(えきゅう)法師に会って、自分の疑義を質問した。また趙州では道深(どうじん)法師に会い『成実論』を学んだ。さらに長安に赴いて大覚寺(だいかくじ)に止まり、道岳(どうがく)法師について『倶舎論』を学んだ。
玄奘はこれらを皆一遍で学び尽し、一読して暗記する有り様で、長年研究してきた老僧も、その右に出ることはできなかった。その研究は極めて深遠で、微細な点や伏せた意味まで明らかにし、到底衆僧の及ぶところではなく、一人奥義を悟ったことも一再ではなかった。
当時、長安には法常(ほうじょう)と僧弁(そうべん)という二人の僧がおり、大小乗を学び極め三学(さんがく)を研究し尽して、帝都の学僧、俗人は皆二人のもとに集まっていた。二高僧の説く道は中国に広く行われ、名声は海外に轟き渡り、上京する僧侶らは雲の如く二人に従っていた。彼らはもろもろの経典を知っていたが、ひたすら『摂大乗論』を講義していた。玄奘は、この経は既に呉・蜀で勉強していたが、長安に到ってからまた二僧に従って研究した。しかも、すでに深く理解していたので、一回で研究し尽した。そこで、二高僧は共に深く嘆賞して玄奘に向かい、「貴方こそ仏門千里の駒といえるでしょう。仏道が再び智慧を明らかにするのは、まさに貴方によって行われるでしょう。惜しいことに、私は年老いてしまったので、恐らくそのことは見られないだろう」と言った。この後、多くの学僧は見る目を改めて玄奘を見、その誉れは都中に広まった。こうして玄奘は普(あまね)く各地の高僧に会い、つぶさにその説を聞き、詳しくその釈義(しゃくぎ)を考えてみると、それぞれ自説をほしいままにし、また聖典を調べてみても、また陰に陽に異なった点があり、どちらが適当であるかよく分らない。
[註]
【五篇七聚】(五ひん七じゅ)具足戒を罪果により五篇(ひん)とし、その罪性と因罪を七聚(じゅ)とする。
【益州】四川省。
【益州における経論】『玄奘伝』には「武徳5年、二十有一にして諸学府の雄伯沙門に心論を講揚す」とある。
【条式】法律。
【荊州】湖北省江陵県。
【摂論】(しょうろん)
【毘曇】(びどん)
【漢陽王瓌】(かんようおうかい)瓌(かい)は唐室の一族で、高祖の時、突厥頡利可汗に使いして功あり、荊州都督となり、大いに治績を上げたという。
【相州】河南省彰徳府。
【慧休法師】548~645。瀛州(河北省河間県)の人。相州の慈潤寺にあり、『華厳』『成実』『婆沙』『摂論』『四分律』などに通ずる多識の碩学として著名。貞観9年(635)、しきりに勅召されて京師に入り、同19年没。年98歳。
【義疑】玄奘は慧休に『雑心』『摂論』を聴講すという。
【趙州】河北省趙県。
【道深法師】道深は襄国(河北省刑台県)の人。志念(535~608)の受学者で『成実』の学僧。
【道岳法師】568~636。河南洛陽の人。志念、智通に『成実』『雑心』を学び、道尼に『摂論』を聞き、後好醜右肩明治において『倶舎疏本并十八部記』を得て、その研究に没頭。『十八部論疏』を著わし世に通行した。貞観10年、長安普光寺に卒した。春秋69。
【法常】567~645。南陽(河南省鄧県東南2里)白水の人。19歳の時曇延に就いて出家、長安の普光寺に住み、皇后の戒師となる。講筵には数千の聴衆集まる。貞観19年住寺に没す。春秋79。
【僧弁】568~642。南陽の人。わずか13歳で出家し、専ら経論を尋ね、智凝法師に学ぶ。『摂論』『倶舎論』などを講ず。貞観16年6月、長安の弘福寺に卒す。春秋75。
【三学】戒学、定学、慧学の三で、戒は悪をやめ善を修すること。定は精神統一を行い雑念を払うこと。慧は煩悩を断って物事の姿を見極めること。この三学の并修が仏道修行の完成をもたらすといわれる。
【摂大乗論】(しょうだいじょうろん)