師子国

ここから商人の大船に乗り、海に浮かんで西南行した。冬の初めの信風(しんぷう)を得て、昼夜14日で師子国に到った。かの国の人が言うには、「ターラムロプティ国から師子国まで隔てることおよそ700由延(ヨージャナ)である」という。
この国は元々島国で、その島は東西50由延、南北30由延である。左右の小島は何と100余りもあり、島々の間隔は、あるいは10里、20里、時には200里もある。1里は約400m。それらは皆大島に統属され、珍宝や珠璣
(しゅいく)をたくさん産出する。中に摩尼珠(まにしゅ)を産出する島があり、四方およそ10里ばかり、王は人にこれを守護させており、もし採る者があれば3割を徴収している。
この国には元人民がなく、まさに鬼神と龍のみが住み、諸国の商人と交易していた。交易の時、鬼神は自らは身体を現わさず、ただ宝物を出して、その値段をつけておくのみである。商人は即ちその値段により値
(あたい)を置いて品物を取る。そこで商人は往来して住
(とど)まる。ゆえに諸国の人はこの地の安楽なことを聞き、悉くまたやって来る。こうして多くの人が住み、遂に大国となった。この国は気候穏やかで冬夏の別がなく、草木はいつも茂っている。したがって、種播きなどの時節は決まっておらず、農耕は人の都合のいい時に行われる。
仏はこの国にやってきて悪龍を帰依させたいと思い、神足の力をもって、片方の足は王城の北を踏み、他の足は山頂を踏んだという。二つの足跡の距離は、隔てること15由延である。
王は城北の足跡の上に大塔を建てた。高さ40丈で金銀で装飾し、衆宝で合成してある。塔のほとりにまた一つの僧伽藍を起こし、無畏山と名づけ、そこには5000人の僧がいる。また一つの仏殿を建て、金銀を刻み鏤
(ちりば)め、悉く衆宝をもって飾ってある。中に高さ2丈ばかりの一つの青玉(せいぎょく)の像がある。全身に七宝が光り輝き、形相はいかめしく顕れ、その素晴らしさは口では言い尽くせぬほどである。この玉像(ぎょくぞう)の右の掌の中には測り知れぬ貴重な宝珠がある。
法顕は漢の地を出発してからすでに年久しく、交わる人々は皆異域の人のみで、山川も草木も、目に触れるものは一つとして見慣れたものはない。また同行者も分かれ分かれとなり、ある人は留まり、ある人は亡くなり、顧みればただ自分一人だけで、心に常に悲しみを懐いていた。たちまちこの玉像の傍らで、商人が晋の白絹の扇で供養するのを見て、思わず悲嘆に暮れ涙が両目に溢れたのであった。
その国の前王は、使節を中インドに遣わし、貝多樹
(ばいたじゅ)の種子を持って来て仏殿の傍らに植えさせた。この木は今高さがおよそ20丈もある。その樹は東南に傾いたので、王は倒れることを恐れ、そこで8~9本の囲い柱で樹を支えた。ところが、樹を支えた所に芽が生じ、遂に柱を穿(うが)って、しかも下に向いて地に入り、やがて根となり、太さも4尋(ひろ)ばかりになった。柱は中を裂かれているが、なお根の外側をすっかり包み、人もまたこれを取り除かない。
貝多樹の下に精舎を建て、中に坐像があって、道人も俗人も敬仰してやまない。城中にまた仏歯の精舎を建て、皆七宝で造られている。
王はヒンズー教の教義を良く守り、城内の人々の敬信の念も厚い。この国は建国以来、飢饉や戦乱もなく、衆僧の倉庫には多くの珍宝や測り知れぬ高価な摩尼珠がある。その王はかつて僧の倉庫に入って遊覧し、摩尼珠を見てたちまち貪心を生じ、これを奪取しようと考えた。しかし、3日目に反省し、王は僧たちの所へ行き、頭を地につけて先の罪心を悔いた。そこで僧に次のように言った。「どうか今後は法制を立てて、王が倉庫に入って宝を見ることを許さぬよう、また比丘は40臘
(ろう)を経た後に入ることができるようにしてください」。
その城中には居士
(こじ)、長者、薩薄商人(サールタヴァーハ)が多い。家々は美しく、街路は整然としている。東西南北の街頭には、皆説法堂を造り、月の8日、14日、15日には高座を補設し、道俗四衆皆集まって法を聴く。その国人の話によると、この国には全てでおよそ60000人の僧がおり、悉く衆食がある。王は別に城内で5~6000人に衆食を供養している。これを須
(うけ)る者は本鉢を持って行って取り、器の大きさに従い皆満たして還るのである。
[註]
【信風】
信風とは季節風のこと。インド洋では12月から2月(冬季)にかけては東北の風が起こり、6月から8月(夏季)にかけては西南風が起こり、この季節風を利用して古来南海貿易が盛んに行われた。冬初の信風とは、義熙5年12月の東北風を利用したものであろう。
【師子国】シンハラ。僧伽羅、執師子等とも訳す。一名楞伽州ともいう。今のセイロン島。
【島国】原文「洲上」。
【珠璣】珠は海産の円玉、璣は海産の丸くない玉。珠璣で海産の宝玉の総称。
【摩尼珠】龍王の脳中にあるという貴重な宝玉。仏教徒が珠数にしている美しいパールをいう。セイロン島は宝州ともいわれる如く、サファイヤ、ルビーやムーンストーンの産多しという。
【交易】いわゆる沈黙貿易の記録である。
【農耕】原文「田種は人に従い、時節あるなし」とある。
【仏の来国】仏は在世中3度セイロン島を訪れたという伝説がある。第1回目は夜叉を教化し、第2回目は龍王を教化し、第3回は百比丘と共に獅子洲に赴いたという。
【王城】当時の王城は今のアヌラーダプラで、古跡が多い。
【山頂】王城の南15由延の仏足山は、いわゆるアダムス・ピークである。西欧ではこの山を天国を追われたアダムの足跡のある山として、アダムス・ピークと呼んだ。
【無畏山】アバヤギリの訳。阿跋耶祇釐、阿婆耆梨とも訳す。『翻梵語』には「阿婆耆梨寺は伝えて無畏寺という」とある。
【貝多樹】師子国への菩提樹移植の説話は、『善見律毘婆抄』に詳しい。この菩提樹は今も仏殿の遺跡メーガヴァナ跡に繁茂しているという。アショーカ王は王子マヒンダを師子国に派遣し、仏法の弘布を図った。マヒンダはセイロン副王マハーナーガの王妃アヌラーのため、妹サンガミッタとブッダガヤの貝多樹を乞い、はるばるアショーカ王はこれをセイロン島に送ったという。
【薩薄商人】薩薄はサールタヴァーハの訳。商主、隊商の長の意。薩宝、薩保とも訳す。
【衆食】公給の食物と訳される。国王が食事を用意して、衆僧を供養すること。
【本鉢】聖衆は鉢で受ける。仏は石鉢、沙門は鉄鉢を持つを本則とする。本鉢とは沙門本則の鉄鉢をいう。


仏歯と各精舎

仏歯は常に3月中に仏歯精舎から出す。
これを出す10日前、王は大象を装飾し、一人の弁説の立つ人に王の衣装をつけて、象の上に乗せ、太鼓を打って次のように唱えさせる。
「菩薩は三阿僧祇劫
(あそうぎこう)にわたる無限の長時間苦行を行って身命を惜しまず、国と妻子及び自らの抉(えぐった目を人に与え、肉を割いて鳩を飼い、頭を切って布施し、身を餓虎に投げ、髄脳を惜しまなかった。このように種々の苦行をしたまい、衆生のためなるが故に成仏し、この世に在(おわ)すこと45年、説法教化して不安な人を安心させ、済度しない人を度し、衆生の縁が尽き般涅槃(はつねはん)したもうた。仏の涅槃以来1497歳、世間眼が入滅されて衆生は長く悲しんでいる。この後10日に、まさに仏歯は仏歯精舎を出で、無畏山精舎に到るであろう。国内の道人、俗人で福徳を得ようと欲する者は、おのおの道路をよく手入れし、街路を美しく飾り、もろもろの花香や供養の具を整えよ。」
と。このように唱えさせ終わると、王はすぐさま道の両側に菩薩の500身以来の種々の変現変相を造る。あるいはスダーナを作り、あるいはサーマの変を作り、あるいは象王や鹿、馬などを作る。このような形像は皆彩色で画いて装飾し、その形状は生きている人のようである。このように飾った後、仏歯はようやく道路の中央を進む。路々において供養し、無畏山精舎の仏堂の上に到る。ここに道俗は雲集し、焼香、燃燈、種々の法事は昼夜を分かたず行われる。かくて満90日経つとようやく仏歯は城内の精舎に還る。城内の精舎では、斎日には門戸を開き、法の如く礼拝恭敬する。

無畏精舎の東方40里に一つの山がある。中に跋提
(ばつだい)という精舎がある。僧はおよそ2000人いる。これらの僧の中に達摩瞿諦(ダルマクテイ)という大徳の沙門がいて、その国の人民は皆共に崇敬している。一つの石窟の中に已に40数年も住んでおり、常に慈悲心を行い、よく蛇や鼠にまで感化を与え、同じ室内に一緒に住まわせ、しかも互いに害し合わないほどである。
城の南の方7里に一つの精舎があり、摩訶毘訶羅
(まかびから)という。ここに3000人の僧が住んでいる。その中に一人の高徳の沙門がおり、戒行清潔で、国民は皆羅漢ではなかろうかと疑っていた。臨終の時に、王はここにやって来て見舞い、法通りに僧を集めて、「比丘は既に得道されたか」と問うた。すると僧たちはすぐさま実成を話し、「彼は羅漢でございます」と答えた。彼は永眠したので、王は直ちに経律を調べ、羅漢の葬法でこの沙門(しゃもん)を精舎の東方4~5里の所に葬った。そこに質の良い大きな薪を縦横高さ共に3丈余りの大きさに積んだ。上の法には旃檀(せんだん)、沈香(じんこう)などの諸香木を乗せ、四辺に階を作り、その上には清らかな白木綿を張り巡らし、草を包み、その上に大きなベッドを作った。その形は中国の喪車に似て、ただ龍魚の飾りがないだけである。
荼毘
(だび)の時には王や国民、四衆が皆集まって華香を捧げて供養し、輿(こし)に従って墓所に到った。王は自ら華香を供養し、供養が終わると輿を薪の上に担ぎ上げ、酥油(そゆ)をあまねく潅(そそ)ぎ、その後でこれを焼いた。火が燃える時には、人々は崇敬の心を持ち、おのおの上衣や旗などの飾り、傘蓋などをはずし、はるかに火中に投げて荼毘を助けた。荼毘が終わると灰を集め調べて骨を取り、直ちに塔を建てた。
法顕がその地に到った時には、すでにこの羅漢は生きておらず、ただ葬るところを見ただけであった。

王は篤く仏法を信じ、衆僧のために新精舎を造りたいと思った。まず大会
(だいえ)を設けて食事を衆僧に供養した。供養が終わると上等の牛一対を選び、金銀宝物で角の上を飾り、美しい金の鋤(すき)を造り、王自ら田百畝(ひゃくほ)の四辺を耕し、その後で民戸、田宅を支給し、そのことを鉄券に書き記した。これ以後、このことは代々相承け継がれ、敢えて廃(や)めたり変えたりする者はいない。
[註]

【仏歯】セイロン島の仏歯は古来有名で、多くの求道僧が仏歯礼拝のためこの地を訪れている。仏歯は宝光光り輝き、昼夜遠望され、明星の如く輝いていたという。
【三阿僧祇劫】阿僧祇は無量の数、阿僧祇劫は無量の時間を指す。釈尊は三期の阿僧祇劫の修行により成道したので、その期間を三阿僧祇劫という。
【髄脳】いわゆる仏本生譚、すなわちジャータカと呼ばれる釈尊の前世物語である。例えば国と妻子を与える説話は『六度集経』に見える。スダーナ太子説話もその一つである。挑眼と割肉貿鳩説話は、いわゆるシビ王(尸毘王)本生である。眼を施すのはスディラ王本生にも見える。頭を切って布施するというのは、月光王本生譚の一。投身餓虎は有名な雪山婆羅門本性とマハーサッタ(摩訶薩埵)王子本生などに見える。後者は法隆寺玉虫厨子台座絵で名高い。かかる本性譚は諸本に見える。
【世間眼】仏を指す。仏は人の眼のように世間に正道を示すからである。
【スダーナ】
(須陀拏)前施、善与とも訳す。本生譚の一。釈尊が前世において葉波国薩闍王の太子に生まれ、菩薩行を行っていた時の名。スダーナは羅闍和大檀白象を八梵士に与えたため国を追われ、天帝釈は次々に車、馬、全てのもの、二児を乞うて太子の堅志を試し、遂には妃をも乞うて捨与を受けたという。後二児が母国に売られ、太子は許されて国に帰り、大いに治績を収めたという。
【サーマ】
(睒)商莫迦とも音写す。本生譚の一。釈尊かつて睒仙人として、山中に盲目の老父母と住み、父母のために水を汲んでいる時、迦夷国王は鹿を射んとして誤って睒を射殺した。父母は知らされて現場に赴き、睒仙人の遺骸を抱いて悲嘆慟哭した。天帝釈、その至誠至孝に感動し、天の神薬をサーマの口に入れて蘇生させたという。
【象王や鹿、馬】いずれも本生譚を示すための像であろう。例えば、象は六牙白象本生譚、鹿は鹿王本生譚、馬は雲馬本生譚など。
【一つの山】旧王城アヌラーダプラの東方約12㎞(40里)のミヒンタレー、チェトィヤリギ(支帝耶山)、ミサカ(眉沙迦山)とも呼ばれた。『善見律毘婆沙』巻2に「アショーカ王の登位18年(前246)に王子マヒンダがスーマナラ大徳5人を率いて師子国に行き、師子王ティッサを教化し、仏法を弘布した」という。このマヒンダが師子王ティッサと初めて会ったのは支帝耶山であったといわれる。現在ミヒンタレーにはマヒンダ住址が残っている。
【跋提】今ミヒンタレーにあるアムブスタラ精舎の前身。
【達摩瞿諦】ダルマプッタまたはダルマグッタの訳。跋提の高僧。
【摩訶毘訶羅】マハーヴィハーラ。『飜梵語』巻8に、「摩呵比呵寺はまさに摩訶毘訶羅と云うべし、訳して大寺という」とある。王城アヌーラーダプラの南、今のルヴァンヴェーリ塔付近にその遺跡がある。先の菩提樹及びマヒンダの妹サンガミッタを迎えたのもこの精舎である。
【喪車】中国風の喪車で、本来先頭か四隅に龍蛇の形を作るが、この場合その飾りはついていない。
【荼毘】ジャーピタの訳。耶維と訳す。火葬のこと。


セイロン島での研究

法顕はこの国でインドの道人が高座上において、経を朗読するのを聞いた。
それによると、仏鉢は元ヴァイシャ―リーにあったが、今はガンダーラにある。しかし、幾百年か過ぎると、きっとまた西月氏
(げっし国)に到るに違いなく、さらに幾百年かで于闐国(うてん国)に到るに違いない。于闐国にあること幾百年かで屈茨(きじ国)に到るに違いない。また幾百年後には必ず漢の地に到り、ここにあること幾百年かで、また師子国(しし国)に帰り来たり、さらに幾百年かで中インドに還るべく、中インドに到れば、仏鉢は必ずや兜卒天上に上るに違いない。
弥勒菩薩はこれを見て、喜びに感激して「釈迦仏の仏鉢が来た」と言い、すぐさまもろもろの諸天と共に7日間香華を捧げて供養する。7日過ぎると、仏鉢はこの世、閻浮提
(えんぶだい)に帰り、海龍王はこれを持って竜宮に入る。弥勒がまさに成道しようとすると、鉢はまた分れて四つになり、元のヴィナタカ山の上に戻る。弥勒が成道すれば四天王はきっとまた仏を念じ、先の仏の法のようにするに違いない。賢劫(けんごう)千仏は共にこの鉢を用いるのである。鉢が他所へ行けば、仏法も次第に滅する。仏法が滅した後は、人の寿命はだんだん短くなり、5歳にまでなってしまう。5歳の時、粳米(うるちまい)、酥油(そゆ)は皆悉く滅び、人民は極悪になり、草木を取れば即ち刀杖に変わり、共に相傷つけ合うのである。この中に福徳を持つ者があり、避け逃れて山に入る。悪人たちが互いに殺し尽し終わると、また福者は帰って来て、共に次のように言い合う。すなわち「昔は人の寿命は極めて長かった。ただ人が甚だ悪いことをし非法を行ったため、我々の寿命は遂にかくも短くなり、5歳にまでなってしまったのである。我々は今こそ共にもろもろの善を行い、慈悲の心を越して信義を修行しよう」と。このようにしておのおの信義を行い、次第に寿命は倍増し、すなわち8万歳にまでなる。
弥勒が世に現れると、初めに法輪
(ほうりん)を転ずる時、まず釈迦の遺法の弟子、出家の人、及び三帰、五戒、斎法(さいほう)を受け、三宝を供養する者を度し、第二第三に有縁の者を度するであろうと。
法顕は、この時、この経を写したいと思ったが、その人の言うには「これは経本がなく、私がただ口にするのみである」とのことであった。法顕はこの国に2年間滞在し、さらに求めて弥沙塞律蔵の本を得、また長阿含と雑阿含、一部の雑蔵の書を得た。これらは悉く漢土にない経典ばかりである。

[註]
【屈茨国】
漢の亀茲国、今のクチャ。
【ヴィナタカ山】原文「頻那山」。毘那多多迦山、毘那多山とも訳す。須弥山の七金山の一で、その中腹にある。四天王の住処。
【斎法】三帰は仏・法・僧の三宝に帰依すること。五戒は不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五つの戒律を守ること。西方は、八斎戒の略で五戒のほか、さらに①装身、化粧をやめ歌舞を見聞きしないこと、②高くゆったりしたベッドに寝ないこと、③昼以後食べないこと、合わせて八つの戒を守ること。
【経本】法顕の頃、インドでは経典は皆僧が口伝し、経典が少なかったことを示す。
【2年間滞在】法顕は義熙5年(409)冬、師子国に渡り、義熙7年(411)秋、師子国を出発した。410~411を指す。
【弥沙塞律蔵】マヒーシャーサカ。沙弥、化他とも訳す。律部は薩婆多部、弥沙塞部、迦葉遺部、摩訶僧祇部、曇無徳部の5部に分かれ、弥沙塞部の律を指す。弥沙塞部和醯五分律、略して五分律ともいう。法顕はこの経を訳さぬまま遷化し、後仏駄什、沙門智勝らが訳した。
【長阿含】ディールガーガマ。仏陀弥舎伝によれば、『長阿含経』は弘始12年~15年にかけ、仏陀耶舎の誦するところを涼州沙門仏念によって訳されたという。弘始15年(413、義熙9年)は法顕の帰国した年で、滞印中の法顕はもちろん中国でこの経が翻訳中とは知らなかった。
【雑阿含】サンユクターガマ。法顕将来の『雑阿含経』50巻は、元嘉中(424~453)に天竺求那跋陀羅、宝雲らによって訳出された。
【雑蔵】法顕、仏駄跋陀羅訳出経の項に見える『雑蔵経』巻1がそれであろう。

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