ここから北方へ8由延(ヨージャナ)行くとコーサラ国の舎衛城(しゃえ城)に到る。城内は人民が少なく、すべてで200余家しかない。ここがハシノク王が統治した城である。大愛道(マハープラジャーバティー)の元の精舎があったところ、須達(スダツ)長者の井壁、鴦掘魔(おうくつま)の得道し般泥洹(はつないおん)し焼身した所などがあり、皆後人が塔を建て、すべてこの城中にある。もろもろの外道やバラモンが嫉妬心を起こし、これを破壊しようとするや、天はたちまち激しい雷電を落としたので、遂に塔を壊すことはできなかった。城の南門を出て1200歩で、道の西に長者須達の建てた精舎がある。精舎は東向して門戸を開き、戸の両廂に二つの石柱がある。左柱上には輪形を作り、右柱上には牛形を作っている。精舎内の池の流水は清浄で、林木はよく茂り、多くの花々は咲き乱れ、蔚然(うつぜん)として美しい。これがいわゆる祇園精舎である。
仏は忉利天(とうりてん)に上り母のために説法すること90日、ハシノク王は仏を見たいと思い、そこで牛頭旃檀(ごずせんだん)を刻んで仏像を作り、仏の坐処に置いた。後に仏が還って来て精舎に入ると、像はすぐさま仏座を退いて外に出て仏を迎えた。仏は「座にお返りなさい。私が般泥洹の後、四部衆のために手本といたしましょう」と言った。そこで像は元の座に還った。この仏像はおよそ全ての仏像の初めで、後人が法とするところのものである。仏はそこで移って相去ること20歩の南辺の小精舎に止まり、像と処を別にした。
祇園精舎はもと7層あった。諸国の王と人民は競って供養を興し、絹の幡や蓋を懸け、散華焼香し、燃燈は燃え続け日々絶えることがなかった。ところが鼠が燈芯をくわえ幡蓋を焼き、遂に火は精舎に延焼し、七重伽藍のすべてが燃え尽きた。そこで諸国王や人民は皆、旃檀像は焼けてしまったと大いに悲しみ悩んだ。その後4~5日して東の精舎の戸を開いてみるや、たちまち本像が目に入った。人々は皆大喜びで、共に精舎を建てて2階建てを作ることができ、また旃檀像を元の所に移した。
法顕と道整は初めて祇園精舎に到り、昔世尊がここに25年間住みたもうたことを思い、自らは辺夷の地に生まれ、諸同志と共に諸国を遊歴したが、あるいは還る者あり、あるいは無常の者あるを傷み、今日ようやく仏の廃墟を見て愴然(そうぜん)として心から悲しんだ。
祇園精舎の僧が出てきて、法顕らに、「あなたはどこの国から来たのですか」と尋ねたので、法顕は「漢の地から来ました」と答えると、彼の衆僧は感嘆して次のように言った。「珍しいことよ。辺地の人がよくも法を求めてここまで来られたものだ」。そして自ら次のように言った。「我らの諸師和尚相承けて以来、未だかつて漢の道人がこの地まで来たのは見たことがない」。
精舎の西北4里に榛(はやし)があり得眼(とくげん)と名づけている。昔500人の盲人がおり、精舎に身を寄せここに住んでいた。仏はこの人々に法を説かれ、これによって人々はまた悉く眼を得た。盲人は歓喜して杖を地に突き刺し、頭面で礼をした。杖はそのまま生えて長大となった。世の人々もこれを重んじて敢えて切る人もなかったので、自ずと成長して榛となったのである。このようなことから、この榛は得眼と呼ばれている。祇園精舎の衆僧は、中食(ちゅうじき)後、多くの人々がこの榛中に行って座禅している。
祇園精舎の東北67里に毘舎佉母(ビシャキャモ)が精舎を造り、仏及び僧を請じた所があり、ここはそのまま残っている。祇園精舎の大境内には二つの門があり、一門は東に向き、一門は北に向いている。この園はすなわち須達長者が金銭を敷いて土地を買ったところである。精舎は園の中央にあり、仏はここに最も長く住まわれた。仏が説法し人を渡し、経行(きんひん)し坐らせたもうた所にも悉く塔を建ててあり、皆名がつけてある。またスンダリーが身を殺して仏を謗(そし)った所がある。
祇園精舎の東門を出て、北方70歩の道の西は、昔仏が九十六種の外道と共に論議した所である。この時、国王、大臣、居士(こじ)、人民らは皆雲集して論議を聞いた。その時、外道の女チンチャー・マナヴィカーは嫉妬心を起こし、こともあろうに衣を腹の前につけて妊娠しているかのようにし、衆会中に「あの男が犯したのだ」と仏を謗った。そこで天帝釈はすぐさま白鼠に化身し、その腰帯を齧(かじ)って切り、彼女が懐にしていた衣は地に落ちた。すると、地はにわかに割裂して、彼女は生きたまま地獄に落ちたのである。また調達(ちょうだつ)が毒爪で仏を害しようとし、生きながら地獄に入った所、これらの所は後世の人が皆これを標識している。
また論議のあった所には精舎を建てている。精舎の高さは6丈ばかり、中に坐仏がある。その道の東に外道の天寺があり、影覆という。論議処精舎と道を挟んで相対している。これもまた高さ6丈ばかりである。この天寺を影覆と名づける所以(ゆえん)は、日が西にある時、世尊の精舎の影といえば外道天寺に映り、日が東にある時は外道天寺の影はといえば北に影を落とすので、結局仏の精舎に映らないからである。
外道は常に人を遣わしてその天寺を守り、掃除や焼香をし、燈を燃して供養している。ところが、翌朝になると、その燈明がいつでも移って仏の精舎の中に入っている。そこでバラモンは大いに怒って「沙門たちは我々の燈明を取って、自ら仏を供養している」と言って止まなかった。そこでバラモンは自ら夜に行って様子を窺(うかが)い、その事実を見ようとした。すると天神が燈を持ち、仏の精舎を3度回って仏を供養するや、忽然(こつぜん)と見えなくなった。そこでバラモンは仏の神なることを知り、すぐさま家を捨てて仏道に入ったという。伝えるところによると、このことは近頃のことだそうである。
祇園精舎を繞(めぐ)って98僧伽藍があり、悉く僧の住む所があるが、ただ一か所だけ住まない所がある。この中インドには96種の外道があり、皆現世、来世を知り、各々徒衆の弟子と仲間がある。外道たちも皆乞食するが鉢を持たない。また福を求めて公道の側に福徳舎を建てている。そして屋于、床臥、飲食を旅人や出家の人、往来の客などに供給している。ただ期するところが異なるのみである。調達でさえもまた尊崇する人々がいる。この人々も過去三仏は供養するが、ただ釈迦仏は供養しない。
舎衛城の東南4里に、瑠璃王が舎夷国(しゃい国)を伐(うと)うとした時、世尊が道の側に立った所がある。そこにも塔が建っている。城の西50里で一つの村に到り、都維という。ここには迦葉仏(かしょう仏)の本生の所、父子の相見た所、般涅槃(はつねはん)の所があり、皆悉く塔を建てている。
舎衛城の東南12由延(ヨージャナ)で那毘伽(なびか)という村に到る。ここは拘楼秦仏(くるしん仏)の生まれた所、父子相見た所、般涅槃の所で、ここにも僧伽藍があり塔が建っている。ここから北行1由延足らずで一つの村に到る。ここに拘那含牟尼(くなごんむに)の生まれた所、父子相見た所、般涅槃の所があり、ここにもまた皆塔が建っている。
[註]
【コーサラ国の舎衛城】拘薩羅国、舎衛城はシュラーバスティーの音写。単に舎衛国ともいう。今のパルラームプル。西北約19㎞のラプティー川に臨むサーヘトマーヘト。サーヘトが祇園精舎の跡、マーヘトが舎衛城の跡。
【ハシノク王】波斯匿王。仏在世時代のコーサラ国王。プラセーナジット、勝軍王、明光王ともいう。ハシノク王帰仏の説話は諸本に見える。仏教教団の大外護者。80歳で死んだともいい、庶腹の子ヴィルーダカに位を奪われ、逃れる途中餓死したともいう。
【大愛道】マハープラジャーバティーの訳。釈尊の叔母で養母。仏教教団最初の尼僧となる。大世主、愛道、大愛ともいう。
【須達長者】アナータピンダダの訳。スダッタ(須達多)、善施(ぜんし)ともいう。舎衛城の長者で、黄金を地に敷いて祇陀太子の園林を買い、精舎を建てて仏に献じた。祇陀太子もその徳に感じ、園の樹林を献じた。スダッタは情け深く、常に貧者や孤独の人に衣食を給したので給孤独長者ともいう。そこで祇園精舎は祇樹給孤独園精舎ともいい、略して祇園精舎という。
【鴦掘魔】(おうくつま)アングリマーラの訳。指鬘ともいう。人を殺しその指を首飾りとした。遂にその母や仏を殺そうとしたが、仏の正法を聞いて道に入り阿羅漢となる。
【祇園精舎】ジェータヴァナ。アナータピンダダスヤーラーマの訳。祇陀琳、逝多林給孤独園ともいう。その故事は諸本に見える。
【四部衆】比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷をいう。
【得眼】アンダヴァナ(得眼林)の訳。安陀林ともいう。榛(はやし)は雑木林。
【毘舎佉母】(びしゃきゃも)ヴィサーカー・ミガーラマーターの抄訳。ミガーラ長者の子プンナヴァッダナに嫁した。毘舎佉は星の名。ヴィーサカの生月がこの星に当たるので毘舎佉という。舅のミガーラ長者から母と呼ばれたので鹿子母、鹿母ともいう。ミガーラ長者は初め深く仏法を嫌ったが、ヴィーサカの力により、後仏道に帰依したからである。
【スンダリー】孫陀利。外道は仏を窮地に落とそうと、遊女スンダリーを口説き、常に説法を聞かせ、後にこれを殺して祇園園中に埋めた。死体が発見された後、外道は仏の悪宣伝に利用しようとしたが、かえって真相が明らかとなり世の信用を失った。仏十難の一。
【九十六種の外道】仏教から仏教以外の諸宗教や思想を異端・邪悪視して外道という。正統バラモン思想に対しても異端の立場に立ち、いわば当時の自由思想家を指す。仏在世の時に次の六師がおり、六師外道と呼んだ。
①プラーナ・カッサパ=無道徳論者。人倫の常道を否定し、善悪の業報を認めない。
②マッカリー・ゴーサーラ=宿命論的自然論者。
③サンジャヤ・ベーラッティプッタ=懐疑論者。人知を信ぜず修行による解脱を説く。
④アジタ・ケーサンカバラ=唯物論的快楽論者。
⑤パクダ・カッチャーヤナ=無因論的感覚論者。地水火風、空・苦楽・霊魂を独立の要素と認める。
⑥ニガンタ・ナータプッタ=ジャイナ教の祖。無神論を唱え、輪廻を脱するには五戒を厳守し、苦行生活すべきことを説く。
これらの六師がそれぞれ15種の流派を生じ、90種の外道となり、これに師の6種を加えて九十六種外道という。
【チンチャー・マーナヴィカー】旃柘摩那(せんしゃまな)、バラモンの女性の名。この説話は諸本に見える。
【調達】(ちょうだつ)デーヴァダッタの略音写。天授、提婆達多、調婆達多とも訳す。アーナンダの兄、釈尊の従弟。幼児より仏の盛名を憎み、12年間修行して五神道を得、毒を爪に塗って仏陀を傷つけようとしたが、王舎城に行く途中、地面が破裂して生きたまま地獄に落ちたという。
【福徳舎】プニャシャーラ、ダルマシャーラの訳。インド、ネパール各地にある無料宿泊所。今も各集落付近の公道の傍らにあって、旅人などに利用されている。
【釈迦文仏】シャーキャムニの音写。釈迦牟尼、釈迦、釈尊、世尊などともいう。過去七仏の第七、賢劫第四仏。
【瑠璃王】ヴィドゥーダバ、ヴィルーダカ。毘流璃王ともいう。舎衛国ハシノク王の子。母は元カピラヴァストゥ国大名の婢女であったが、仏縁により舎衛国王の夫人となった。瑠璃王は幼児カピラヴァストゥに遊び、婢女の子として辱しめられ大いに怨んだ。後父王を殺して王位を奪い、カピラヴァストゥを遠征してシャーキヤ族を皆殺しにしたという。この時連れ帰った500人の美女が、あくまで王を罵って惨殺されたので、さすがに慈悲忍辱の教えを説いてきた釈尊も7日後王が火に焼かれることを予言した。これを聞いた王は、その日宮女と船を浮かべていたが、突如船が覆って火焔に包まれ、無間地獄の業火のうちに死んだという。
【舎夷国】舎夷はパーリー語サッキの音写で聖人の意。舎夷国とは聖者釈尊の国カピラヴァストゥを指す。
【側に立った】瑠璃王がカピラヴァストゥを遠征すると聞き、釈尊は道の側の枯れ木の下に立ち、瑠璃王を説得して一度は引き返させた。しかし、王は旧怨を忘れることができず、再度兵を挙げてシャーキヤ族を滅尽したという。
【都維】サーヘトマーヘトの西約15㎞のタドヴァと推されている。都夷とも音写する。
【迦葉仏】カーシャバの音写。飲光ともいう。賢劫第三仏、過去七仏の第六。すなわち釈尊の前出である。父はブラッマダッタ(梵徳)という。
【父子の相見た】般涅槃の所。迦葉仏が正覚を得て、初めて父と会った所と、同じく迦葉仏の涅槃の所を指す。『大唐西域記』巻六・室羅伐悉底(シラーヴァスティー)国の条には、「大城の西北60里に故城がある。賢劫の間の人寿が20000歳の時に迦葉仏が生まれた城である。城の南にストゥーパ(卒塔婆)がある。迦葉仏が悟りを得られて初めて父に会われた所である。城の北にストゥーパがある。迦葉仏の全身の舎利が入っている。これらのストゥーパは皆アショーカ王(無憂王)が建てたものである」とあり、父子の相見た所は故城の南に、全身舎利塔は故誠の北にあったことがわかる。ただし、般涅槃塔の位置は不明。
【那毘伽】(なびか)ナービカの音写。法顕はナービカは舎衛城の東南12由延(約120㎞)とし、玄奘は南約50里の故城に推定している。現在、その位置は不明である。
【拘楼秦仏】(くるしん仏)クラクチャンダの略音写。拘留孫、俱留孫、迦羅加村駄などと音写し、領持、威累、成就美妙などと訳す。過去七仏の第四、賢劫千仏の第一仏である。クラクチャンダ仏の旧跡については『大唐西域記』巻6に次の如く見える。「カピラヴァストゥ城より南行50里で故城に到る。賢劫中の人寿60000歳の時にクラクチャンダ仏が誕生された城である。城の南にあまり遠くない所にストゥーパがある。悟りを開かれてから父に会った所である。城の東南のストゥーパにはその如来の遺身舎利が入っている。前に高さ30余尺の石柱が建っている。上に獅子の像が刻んであり、傍らに寂滅のことを記している。アショーカ王(無憂王)が建てたものである」。
【拘那含牟尼】(くなごんむに)カナカムニの音写。迦那迦牟尼、俱那含などと音写し、金寂、金山人などと訳す。過去七仏の第五、賢劫千仏の第二仏である。この旧跡については『大唐西域記』巻6に次の如くある。「クラクチャンダ城から東北へ30余里行くと古い大城に到る。中にストゥーパがある。賢劫中の人寿40000歳の時に、カナカムニ仏が誕生された城である。東北方に遠くない所にストゥーパがある。悟りを開かれてから父の迷いを開き度した所である。北隣りにストゥーパがある。その如来の遺身舎利が入っている。前に高さ20余尺の石柱が建っている。上に師子の像を刻し、傍らに寂滅のことが記してある。アショーカ王(無憂王)が建てたものである」。この文末に見えるカナカムニの石柱は、1895年、ルンビニーの西北約120㎞のニグリーヴァ村南方1.6㎞のニガーリー・サーガルという池の西岸で発見されている。ただし、この碑文が元々ここにあったものか、動かされたものか論議未定である。