ガンダーラ国から南行4日でプルシャプラ国に到る。
仏は昔、諸弟子を率い、この国に遊行した。その時、仏は阿難に向かって「私が般泥洹(はつないおん)した後、きっとカニシカという国王が現われて、ここに塔を建てるであろう」と語った。後にカニシカ王が現われ、外へ遊覧に出た時、天帝釈(たいしゃくてん)は王の心を啓発しようとして、牧牛の児に化身して塔を建てていた。これを見て王が、「汝は何を作っているのか」と尋ねると、彼は「仏塔を作っています」と答えた。王は「それは大変善いことである」と言って、そこで、すぐさまその小児の作った塔の上に塔を建てた。高さ40余丈で、もろもろの宝で飾ってあり、およそ見てきた塔廟のうちでも、この塔ほど壮麗で威厳あるものはなかった。伝えるところによると、閻浮提(えんぶだい)の塔の中では、ただこの塔が最上であるという。王が塔を作ってできあがると、小塔がすぐに自ら大塔の南に沿って出てきた。高さ3尺ばかりである。
仏鉢(ぶっぱつ)はほかならぬこの国にある。昔、月氏王(げっしおう)は大いに軍事を盛んにし、兵を率いてやって来てこの国を伐(う)ち、仏鉢を取ろうとした。この国を征服し終えると、月氏王は篤く仏法を信じていたので、仏鉢を持って帰りたいと考え、特に供養を盛んにした。三宝を供養し終わると、初めて大象を飾りたて、仏鉢をその上に置いた。象はたちまち地に伏して前に進むことができなかった。さらに4輪車を作って鉢を乗せ、8匹の像で共に牽(ひ)かせようとしたが進むことができなかった。かくて、王は仏鉢との縁がいまだ至らぬことを証(さと)り、深く自ら愧(は)じ嘆き、そこで、ここに塔と僧伽藍を建て、合わせて鎮守を留めて種々供養した。
ここにはおよそ700余人の僧がいる。日がまさに正午になろうとする頃、衆僧はすなわち鉢を出し、俗人らと種々供養する。そして、その後で昼食をとる。暮れとなり焼香の時もまた同じである。仏鉢は、容量はおよそ2升ばかり。色は雑色で黒が多く、4つの縁がはっきりしており、厚さは2分ばかりで、甚だ光沢がある。貧しい人が少しの花を中に投げ入れればすぐに一杯になり、大金持ちがたくさんの花で供養したいと思うと、まさに百千万斛(ごく)入れても、とうてい鉢を満たすことはできない。
宝雲(ほううん)と僧景(そうけい)とは、ただ仏鉢を供養してすぐ還った。一行のうち、慧景(えけい)慧達(えたつ)道整(どうせい)はナガラハーラ国に先行し、仏影と仏歯及び頂骨を供養したが、慧景が病に罹(かか)り、道整は住(とど)まって看病し、慧達一人がプルシャプラ国に帰って来て、宝雲らと相会した。一方、慧達、宝雲、僧景はそのまま秦土(しんど)に帰り、慧景は仏鉢寺で病没した。これにより法顕はただ一人仏頂骨所に向かった。
[註
【プルシャプラ国】弗楼沙はプルシャプラの音写。仏沙伏城、布路沙布羅城とも書く。今のペシャワール。
【カニシカ】原文「罽膩伽」。クシャン朝第3代の王。生没年不詳。即位の年代については西暦78年、125年などの諸説があるが、144年~170年頃とみる説が有力である。彼は西北インドを統一したのみでなく、南はヴィンディヤ山脈から北は中央アジア、イランの一部を席捲(せっけん)し、アショーカ王以来の大帝国を建設した。王の在位中はクシャン朝の最盛期で、文化的にはギリシャ、イラン文化との交流があり、仏教保護政策も著名で、ガンダーラ芸術が栄え、大乗経典の編纂も行われたという。
【天帝釈の啓発】いわゆる雀離浮図である。『洛陽伽藍記』巻5に、「また西南経60里、乾陀羅城に到る。城の南北7里に雀離浮図あり云々」とあって、ほぼ同様の説話を示している。そして塔の高さ400尺、上の鉄柱の高さ300尺、合わせて700尺という。ただし、同書に引く道栄伝には「鉄柱88尺、80囲、金盤15重、地を去ること63丈2尺」という。
【閻浮提】(えんぶだい)ジャンブドヴィーバの音写。シュメール(須弥山)の南方にある四大州の一。もとインドの地を指したが、後この人間世界を指す。
【四つの縁】仏成道の時、四天王おのおの青石の鉢を献じた。仏はこの四鉢を受けて一鉢とした。そこで仏の用いた仏鉢の外側は四つの縁があったという(『大唐西域記』巻8)。雑色とは五彩相合する色どりをいう。
【秦土】(しんど)中国。
【慧景の病没】この部分の原文は「慧景まさに仏鉢寺にありて無常」とあるが、慧景は慧達、道整とナガラハーラに赴いて病に罹り、のち小雪山まで法顕らと同行して病死した。同行7人のうち、慧達、宝雲、僧景の3人はプルシャプラから中国に帰り、慧応(えおう)についてはこの後記録がないので、仏鉢寺で病没したのは慧応であろう。なお、先に帰国した3人のうち、慧達、僧景の帰国後の動きは明らかでないが、宝雲は長安で仏駄跋陀羅(ブッダバツダラ)に師事し、後建康の道場寺に移った。たまたま法顕も帰国後道場寺に赴き、ここで仏駄跋陀羅について『大般泥洹経』6巻を訳し、宝雲がこれを筆受したという。彼らは当時有数のサンスクリット学者でもあった。(『高僧伝』巻3)
西に行くこと16由延(ヨージャナ)でナガラハーラ国界の醯羅城(けいら城)に到る。
城内に仏頂骨精舎があり、悉く金箔、七宝で飾ってある。国王は頂骨を敬重して人に奪われることを恐れ、そこで国中の毫姓8人を選んで、人ごとに一印を持たせ、これによって封印し守護させている。これら8人は朝早く共に精舎に行き、おのおのその封印を調べて、その後で戸を開く。戸を開き終わると香汁で手を洗い、仏頂骨を出し、これを精舎外の高座上に置く。仏頂骨は七宝の円碪(まるいし)を下に置き、上は瑠璃錘(るりつぼ)で覆う。これらは皆真珠で飾ってある。骨は黄白色で、差し渡し4寸あり、上部は隆起している。
毎日、日の出の後、精舎の人が高楼に登り太鼓を打ち、法螺貝を吹き銅鈸(どうばつ)を叩く。王はこれを聞くや精舎に参詣し、華香で供養する。供養し終わると、王と侍臣は順次に礼拝して去る。東門から入り西門から出る。王は毎朝このように供養礼拝し、しかる後に国政を聴く。居士(こじ)長者もまた供養を先に行い、それから家事を修める。毎日毎日がこのようで、初めから怠けない。こうして供養がすべて終わると初めて頂骨を精舎に返すのである。精舎の中には七宝の解脱塔がある。その扉は、あるいは開き、あるいは閉じ、高さは5尺ばかりで、頂骨はここに入れる。
精舎の門前には、毎朝常に華香を売る者がおり、およそ供養しようとする者は色々と買うのである。諸国の王もまた常に使いを遣わして供養している。この精舎の所、縦横40歩は、たとえ天震地裂があっても、ここは不動である。
ここから北行すること一由延(ヨージャナ)でナガラハーラ国城に到った。ここは菩薩がもと銀銭で5茎の花を買い、定光(じょうこう)仏を供養した所である。この城中にもまた仏歯があり、供養は頂骨の供養法と同じである。城の北東一由延で一つの谷の入り口に到る。ここに仏の錫杖(しゃくじょう)があり、ここでも精舎を建てて供養している。錫杖は牛頭旃檀(ごずせんだん)製で、長さは1丈6~7尺ばかり、木筒に入れてある。まさに百千人でも持ち上げて移すことができない。谷口に入って西行すれば仏僧伽梨(ぶつそうかり)精舎があって供養している。かの国土は旱天(かんてん)の時、国の人が相共に衣を出して、この僧伽梨を礼拝すれば、天はすぐさま大いに雨を降らすのである。
ナガラハーラ城の南半由延に石室がある。山を背にして西南に向いている。仏は自らの影をこの中に留められた。10余歩離れてこれを見ると、仏の真形を見るかのようである。金色の姿、相好(そうごう)は光り輝いている。次第に近づけば、それにつれて微(かす)かとなるが、髣髴(ほうふつ)として在(おわ)すがごとくである。諸法の国王は画師を遣わして模写させるが、とても及ばない。かの国の人々は相伝えて、千仏は悉くここに影を留めるといっている。仏影の西100歩ばかりに、仏は在世の時、ここで髪を剃り爪を剪(き)った。そして、仏自ら諸弟子と共に、ここに高さ7~8丈の塔を作り、将来の塔法とした。この塔は今もなお残っている。傍らに寺がある。寺には700余人の僧がいる。ここには諸羅漢、辟支仏(びしゅくぶつ)の塔があり、千にも及ぶほどである。
[註]
【由延】ヨージャナの音写。インドの里数単位。由旬、踰繕那などと訳す。古代インド軍の一日の行程という。法顕の一由延は7km~10kmなどといわれる。
【醯羅城】(けいら城)ジャララバードの東南約7㎞のハツダ村。ハツダは骨の意。古くから仏頂骨城として著名。
【円碪】(まるいし)
【瑠璃錘】(るりつぼ)
【銅鉢】(どうはつ)銅製の楽器、シンバル。
【定光仏】(じょうこうぶつ)ディーパンカラ・ブッダの訳。錠光仏、燃燈仏とも訳す。
【牛頭旃檀】(ごずせんだん)牛頭山上に産する旃檀の意で、牛頭山は南インドの摩羅那山中にあるといわれる。牛頭旃檀は旃檀の中でも芳香があるという。
【仏僧伽梨精舎】(ぶつそうかり・しょうじゃ)サンガーティは袈裟の意。仏の用いた袈裟を保存供養する精舎で、耆賀盤寺という。
【仏は影を】この仏影窟については『洛陽伽藍記・道栄伝』『大唐西域記』『慈恩伝』などに見えている。例えば道栄伝には「瞿波羅龍窟に到り仏影を見る。山窟に入り去ること15歩、西南は戸に向かい遥かに望めば、すなわち衆相炳然、近づいて見ればすなわち瞑然として見えず。手をもってこれを摩すればただ石壁あり。漸々却行して初めてその相を見る。容顔挺特、世に希にある所なり」とある。この仏影は唐代にはすでに見難くなっていたらしく、玄奘が苦労した話は『慈恩伝』に詳しい。
【辟支仏】(びしゅくぶつ)プラティエーカ・ブッダの音写の転訛。縁覚と訳す。「独りで悟り孤独の生活をして、人に説法したり教化したりしない聖者」をいう。独覚ともいう。
ここナガラハーラ国に冬三月の間住(とど)まって、法顕ら3人は南へ進んで小雪山を越えた。小雪山には冬も夏も積雪がある。山の北側を登っているうちに寒風の爆起突発するのに遭い、人々は皆声もなく恐れおののいた。そのうち、慧景(えけい)一人はもはや歩けなくなり、口から白沫を出しながら、法顕に次のように語った。「私はもはや助からないでしょう。どうか都合の良い時に行ってください。一緒に死んではいけません」。こうして慧景はそのまま死んでしまった。法顕は彼の体を撫でて悲歎に暮れ、「我らが真の目的はまだ達していないのに、こんな所で死んでしまうとは。運命は如何(いかん)ともしようがありません」と言って号泣した。
かくて、また自ら努めて前進して嶺を過ぎることができ、南下して羅夷国(らい国)に到った。この国には近頃3000人の僧がおり、大小乗学を兼学している。そこで法顕らはここに止まり夏坐(げざ)した。夏坐が終わると、また南下していくこと10日、跋那国(ばつな国)に到った。ここにも3000人ばかりの僧がおり、皆小乗学を学んでいた。
ここから東行すること3日、またインダス川を渡った。川の両岸は皆平地である。川を渡ると毘荼国(びだ国)という国があった。ここも仏法が盛んで、大小乗学を兼ねている。土地の人は我々中国の僧が往くのを見て大いに憐愍し、「どのような辺地の人ですか。よく出家の意義が分り、道のために遠く仏法を求められますね」と言い、旅に必要な物はすべて供給してくれ、法の如く接待してくれた。
[註]
【冬三月】中国暦の冬は立冬(10月)から立春(3月)まで。晋元興2年正月1日は403年2月9日に当たる。冬3月末は陽暦3月上旬に当たる。
【3人】法顕と仏頂骨寺に療養中だった慧景及び看護していた道整の3人。
【小雪山】ジャララバード南方のセフィド・クフ山脈。スレーマン山脈の東北部。
【羅夷国】(らい国)未詳。足立氏は今のラッキとする。この付近は行程も距離の記載もないが、おそらく小雪山を越えてすぐ南麓にある町、パラチナルまたはクラムであろう。
【夏坐】法顕の第5回夏坐。東晋元興2年(403)4月16日~7月15日まで。
【跋那国】(ばつな国)今のパキスタンのパンヌ地方。おそらくパンヌ地方のラッキ・マーワットか。
【毘荼国】(びだ国)未詳。パンジャブのビダと推される。法顕らはラッキから東方へ直進してインダス川を越え、古来の主要道を通ってマトゥラーに赴いたのであろう。この付近からマトゥラー国までの『法顕伝』の記録は混乱、錯簡があると思われる。おそらく旅行記の元となった原資料が紛失してしまったのであろう。