鄯善国(ぜんぜん国)に一月滞在し、また北西に行くこと15日で烏夷国(うい国)に至った。
烏夷国の僧もまた4000余人いる。皆小乗学で、教義、儀式は厳格に守られている。中国の僧がその国へ行くと、すべてその国の僧たちの儀式、慣例の仲間に入らない。法顕は符行堂(ふあんどう)公孫(こうそん)の出資を得て2か月余り滞在した。そして、ここでまた宝雲らと一緒になった。烏夷国の人は礼儀知らずで、非常に粗末に一行を待遇したので、ついに智厳(ちごん)慧簡(えかん)慧嵬(えかい)は引き返して高昌国(こうしょう国)に移り、旅行の資金を求めようとした。法顕らは符行堂公孫の行資の供給を受けたので、西南方に直進することができた。
この行路中には住む人もなく、砂漠旅行の艱難、経験した苦しみは到底この世のものとは思われなかった。こうして旅すること35日、于闐国(うてん国)に到ることができた。
[註]
【烏夷国】(うい国)バグラシュ湖北のカラシャール、漢の焉耆国(えんぎこく)、『大唐西域記』の阿耆尼国(あぎにこく)。
【符行堂公孫】(ふあんどうこうそん)出家するための寺内に住む者(行者・あんじゃ)の寮を行堂(あんどう)といい、転じて行者も行堂という。符公孫はおそらく苻堅の一族で、382年前秦の西域遠征に従軍し、焉耆(烏夷国)に留まって仏門に入ったものであろう。
【高昌に移り】『高僧伝』巻3によれば智厳は罽賓(けいひん)に到り、高僧・仏駄跋陀羅(ブツダバツダラ)を迎えて帰国し、長安大寺に止まった。後、仏駄跋陀羅が中国僧の排斥を受け、山東に逃れた。晩年、再び海路インドに到り、次いで罽賓に行き、78歳の天寿を全うした。慧嵬(えかい)については『高僧伝』巻11に「後に晋隆安3年に法顕と共に西域に行き、終わる所を知らぬ」とあり、慧簡(えかん)は『高僧伝』に記録がない。
【高昌(向唱)】今のトルファン付近のカラコージョ。漢の車師前王庭、晋の高昌郡。ここは漢人植民地で、王は仏教に理解があった。屯皇=敦煌と同じく向唱は高昌の異字標記。
【この行路中には住む人もなく、砂漠旅行の艱難、経験した苦しみは到底この世のものとは思われなかった】原文「行路中居民なく、沙行の艱難、経るところの苦しみは人理比いなし」とある。
【于闐国】西域南道の要衝ホータン、かつての都は今のコータンの西南にあるヨートカン。ここは古来中国とインドを結ぶ重要な中継都市であった。烏夷国(うい国)から于闐国(うてん国)までのルートは甚だ不明確だが、「行路中居民なく云々」という叙述から見ると、コラルからタリム川沿いに西進し、東経81度付近からコータン・ダリヤ沿いに南下したのであろう。少なくもクチャ(亀茲国)には立ち寄らなかったものと思われる。