ゴビ砂漠からロプ・ノール

一行は共に敦煌に停
(とど)まること一月余り、法顕ら5人は使節に従って先発することとなり、また宝雲らと別れた。
敦煌太守李
(りすう)が資材を供給してくれたので、沙河(さか)を渡った。沙河中はしばしば悪鬼、熱風が現われ、これに遭えば皆死んで、一人も無事な者はない。空には飛ぶ鳥もなく、地に走る獣もいない、見渡す限りの広大な砂漠で、行路を求めようとしても拠り所がなく、ただ死人の枯骨を標識とするだけである。行くこと17日、距離にしておよそ1500里で鄯善(ぜんぜん国)に着くことができた。その地はやせてゴツゴツしており、俗人の衣服は大体中国と同じで、ただ生地が毛織物である点が異なっている。
その国王は仏法を奉じ、国内にはおよそ4000余人の僧がおり、すべて小乗学である。諸国の俗人と僧侶は悉くインドの仏法を行っているが、内容は精粗様々である。この国から西方の通過した諸国は、大体皆このような状態であった。ただ国々の言葉は同じでないが、出家の人は皆インドの言葉を習っている。

[註]
【李暠】
李暠は隆安4年(400)以降、西涼王として敦煌にいた。
【沙河】敦煌~鄯善国間の大砂漠。この地域はゴビ砂漠の西端、タクラマカン砂漠の東端にあたり、古来「流砂」と呼ばれた砂の深い砂漠である。特にロプ・ノール湖周辺はロプ砂漠と呼ばれ、その北岸には白龍堆の険路があった。瓜州~伊州(ハミ)間の莫賀延磧も沙河と呼ばれ、「莫賀延磧(ばくがえんせき)は長さ800余里、古は沙河という。上に飛鳥なく下に走獣なく、また水草なし」(大慈恩寺三蔵法師伝・巻1)という。
【悪鬼・熱風】砂漠中の蜃気楼や熱風については古来多くの報告がある。例えば莫賀延磧については「この時まわりは茫然として人馬ともに影もない。夜には妖魑が火爛をあげてたくさんの星のようだ。昼は驚風が砂を巻き上げ時雨のように降らせる」(大慈恩寺三蔵法師伝・巻1)とあり、鄯善国の西方の砂漠については「ここ媲摩城から東行して大流沙に入る。砂は風に従って流漫集散し、人の踏み後もなく道は迷路が多い。四遠茫々として方角もわからない。そこで往来には遺骸の白骨を集めて目印としている。水草に乏しく熱風が多い。熱風が起きると人畜は惛迷してノイローゼになり、他人の歌を聞いたり号哭を聞いたりする。それらを見たり聞いたりしているうちに行く所がわからなくなってしまう。そのため道に迷ってしばしば人が死ぬが、これは鬼魅のためにそうなってしまうのである」(大唐西域記・巻12)と述べている。
【鄯善国】
(ぜんぜん国)タリム盆地東部、ロプ・ノール湖畔に栄えた古代王国。もと楼蘭王国と称した。楼蘭の名は首都の名クロライナにちなむ。『漢書』巻96上「西域伝」には次のように概述している。「鄯善国、もと楼蘭と名づく。王は扜泥城に治する。陽関を去る1600里、長安を去る6100里。戸は1570、人口は14100人、兵士は2912人いる。官吏は補国侯、郤胡侯、鄯善都尉、撃車師都尉、左右且渠(しょきょ)、撃車師君ら各1人、訳長2人がいる。西北、都護治所を去ること1785里、山国に至ること1365里。西北、車師に至ること1890里。地は砂漠で田は少なく、他国の田に依存し、穀物は傍らの国から求めている。この国は玉(ぎょく)を産し、葭葦、檉柳、胡桐、白草が多い。民は畜牧に従い、水草を逐(お)っている。ロバがおりラクダが多い。戦がよくできることは諾(字:女偏+若)羌と同じである。云々」。この国の主権はしばしば変わったらしいが、大体6~7世紀まで存在した。
【毛織物】
『大唐西域記』巻1にも「阿耆尼国、服飾は氈褐」「跋禄迦国、細氈細曷(字:曷+毛)は隣国の重んずるところ」とあるように、中央アジア各地の人々の衣服は大体毛織物と木綿であった。
【4000人余りの僧】
カローシュティー文書によると全盛期の鄯善国は、国都クロライナに中央大寺があり、王国内各オアシスに僧団が存在していた。
【国々の言葉】
5~7世紀のタリム盆地の国々には、様々な言語が用いられていた。唐代の胡という文字は大体イラン系という意味を持っているが、漢から六朝にかけては広く塞外の民族を指した。法顕の旅行時代の言語は、後世の出土文書から見てカラシャール付近、クチャ付近ではトラハ語、鄯善ではクロライナ語、コータンではコータン語が用いられていたと思われる。