阿弥陀経の十六羅漢と釈迦十大弟子

阿弥陀経の十六羅漢

ラーフラ(らごら)
() 羅の出家
羅の父は、まだカピラ城にあった当時のシッダッタ太子、つまり後のお釈迦さま。母はヤショーダラー妃。インド名のラーフラは「障害、碍り、束縛」を意味すると言われ、別の説では月蝕の日に生れたからともいう。羅がその父に会ったのは、お経によっても違うが、9歳から12歳の時であったという。母に連れられてお釈迦さまの前に進み、教え込まれた通りに「父よ、私は貴方の子のラーフラです。いずれ王位に就けば財宝が必要ですから、私に財宝をお譲りください」と言った。そして、「お側に居ると、とても気持ちがいい」と言って、そのままお釈迦さまが弟子たちと止まっていたニグローダ園に付いて来た。
お釈迦さまは「この子には欲望の元になる財宝ではなく、絶対的な価値を持つ真実という財宝を与えよう」と考えられ、そのまま舎利弗を授戒の師として剃髪させた。また、年若く、一人前の比丘とは扱えないので目連に指導を依頼された。羅羅は舎利弗、目連というこの上ない師を得たことになった。
この頃、カピラ城内では羅羅の姿が見えないと、大騒ぎになっていた。もしやと、ニグローダ園に人を使わすと、確かにそこに居た。ただし、頭はくりくりに剃られ、沙弥、正式な具足戒を受ける前の少年僧の粗末な黄衣姿であった。祖父の浄飯王は驚き、嘆き、そして憤った。羅羅の出家に先立ち、お釈迦さまは異母兄弟の難陀も出家させていたので、王は正当な王位継承権を持つ者を失ったことになったからである。浄飯王はお釈迦さまの前に出て、涙ながらに言った。
「仏陀よ、御身が出家した時、私の苦しみ、悲しみは言葉では言い尽くせないほどであった。でもまだ難陀がいると諦めた。その難陀が出家した時も同じ苦しみ、悲しみであったが、まだ羅羅が残っていると思った。今その羅羅が出家したと知って、私の胸は張り裂けんばかりである。いかに御身が今は優れた存在であろうと、子を思う親の愛はまた別である。どうか、これからは両親の許可なしに子どもを出家させて、かかる苦しみ嘆きを与えることのないようにしていただきたい。」
と。お釈迦さまは父であった王の嘆きを黙然として聞かれ、「これから、父母の許しのない者を出家させてはならない」と定められた。

()お釈迦さまの大叱責
羅については、当初は育ちゆえの驕慢があったとも伝えられ、また、時々たわいない嘘をついて人を騙し、喜ぶ風もあったと『根本有部律』などにはある。
例えば、王舎城近くの温泉林にいた彼の元に人々がやって来て、「世尊はどこにおられるか」と尋ねると、お釈迦さまが迦蘭陀(カランダ)竹園におられる時は「霊鷲山にいる」と答え、ピッパラ屈におられる時には「西尼迦(セニカ)屈にいる」と嘘をついた。そして、人々が二キロも三キロも無駄足を踏むのを面白そうに眺めていた。
舎利弗は時々叱っていたが、中々悪戯は止まない。とうとう比丘たちはこれをお釈迦さまに告げ、お釈迦さまは托鉢のために王舎城に入られた後、羅羅がいる温泉林に来られた。そして、次のように水器を使って譬喩を以て諭された。
お釈迦さまは、先ず羅羅に足を濯ぐタライを持って来させ、足を洗った後に「その水が飲めるか」と尋ねられた。羅羅は「飲めません」と答えた。「そうだ、初めは飲めた水だが、足を洗って汚れたために飲めなくなった。羅羅よ、お前も同じである。せっかく出家して清い道を歩みながら、嘘をついて人を困らせ、それを喜ぶという汚れた心になってしまっている」。
次にお釈迦さまは、「そのタライで食事ができるか」と尋ねられ、羅羅は「否」と答えた。「そうだ、お前の心もこのタライと同じだ。お前の心は人を騙し、愚弄するという汚れた水を入れたために、比丘にふさわしい教えを容れられなくなった」。こう言うと、お釈迦さまはいきなりそのタライを思い切り蹴飛ばされ、タライが転がると、「壊れるかと心配したか」と尋ねられた。羅羅が「安いタライなので、壊れても困りません」と答えると、厳しい顔と声でこう言われた。「羅羅よ、物の値打ちは、値の高い安いで決まるものではない。あれだけ多くの水をお前の手に汲み、運ぶことができるか。物はその使い方を知って値打ちが決まる。お前のように嘘を弄ぶ者は、蹴られて転がるタライの如く、人に疎まれ、風雨にさらされ、やがては朽ちてしまうだろう」。
ここに至って、羅羅は自分のしたことを深く恥じ、お釈迦さまに心からの三拝をして懺悔した。また、師の舎利弗の元にも出向き、三拝して許しを願ったと伝えられる。

()便所に寝た羅
以後、羅羅はお釈迦さまがその父であるという難しい立場を超えて、よく行に謹み戒律を守ろうとする心において第一と言われるようになった。その謙虚な精進振りを伝える話に「便所に寝た羅羅」がある。
羅がまだ正式な具足戒を受けていない時、夜の説法が終わると先輩格の比丘はそれぞれの部屋に戻って眠り、若い比丘たちは在家の信者と一緒に一つの部屋で寝ていた。それが、ある時お釈迦さまに思うところがあって、「これからは具足戒を受けた僧が、戒律を受けていない者と同じ部屋に寝てはいけない」という規則を作られた。次の夜、羅羅は困った。その前夜まで好意的に色々世話を焼いて寝場所を提供してくれていた比丘たちが、規則を破ることを恐れて誰も知らない顔をしていたからであった。寝る場所を探し回った末、羅羅はお釈迦さまの便所に潜り込み、不平一つ述べる訳でもなく、そこに休んだ。次の朝、お釈迦さまが便所の入り口で咳払いをされると、中にいた羅羅も咳払いをし、出てきて事の次第を説明した。
お釈迦さまは考えられた。「我が実子であると多くの比丘が知っている羅羅にしてこのようでは、新たに入門してくる修行の者はどうするであろうか」と。そこで舎利弗に言われた。「舎利弗よ、羅羅は昨夜便所に寝ていた。誰かが世話を焼いてやらなくては、せっかく出家して来た者があっても、戒律を受ける前は寝る場所がないではないか。私はこれから先日の戒律を変更し、具足戒を受けていない者でも、一日二日は比丘と同室を許し、三日目までに自分の部屋を見つけるように指導したり、世話をするということにする」。
このことについて、多くの書物では、お釈迦さまが心配されたのは我が子羅ではなく、「戒律だけが一人歩きして、戒律とはそもそも人間の集団生活を快適に営むためのものであるという本質を比丘たちが忘れていたことにある」と解説がなされてある。

()父として、子として
お釈迦さまが羅羅に対する態度は細やかで優しい。羅羅もまた悟りを開く前は難しい問題に直面する度に尋ねて教えを請うている父と子の姿がいくつものお経の中にある。
例えば、ある時、羅羅がお釈迦さまに「どのようにすれば、人間につきまとう心の驕りや、我が身への執着や、悪に傾く心をなくすことができるか」と質問した。これに対してお釈迦さまは「目、耳、鼻、舌、身、意は無常である。無常なるものは苦である。このように移り変わり定まらぬものを〈これは我れに非らず、我がものに非らず、我が体に非らず〉と正しく観て、それに動かされず、貪りを離れて解脱すべきである」と丁寧に説き聞かせておられる。時には羅羅を托鉢に伴って道々細やかに諭され、彼が樹下で坐禅をすると、雑念が生じないように息の出し入れ毎にゆっくりと数を数えて心を静められたという。
それでも羅は中々悟りを開けずにいたが、お釈迦さまはその成長の度合いをきちんと知っておられ、「このまま正しく行ずれば、程なくであろう」と、他の比丘に話されたこともあった。また、羅羅自身も「阿羅漢果を得たい」と思った時、誰よりも先にお釈迦さまの元を訪れた。するとお釈迦さまは、人のために五蘊、六根、縁起を能く説くように勧められた。羅羅はお釈迦さまの教示されるままに実践して、遂に阿羅漢となったという。
(五蘊:生き物の五つの機構要素)
(六根:精神活動が起きる心と五感)
(縁起:因縁)

()密行第一
羅は密行第一あるいは禁戒第一である。羅羅は人前に出ることを好まず、険しい山野で修行をし、独り瞑想することを好んだ。
お釈迦さまが近く涅槃に入られるだろうという知らせが羅羅の許に届いた時も、彼は旅の途中であった。何よりも父との死別が辛く、彼は逃れるように旅を続けていたとされるが、遂に意を決してクシーナガルのサーラの林に来た。そして、偉大な父との最後の別れの時、彼は幼い日に父に分けてくださいとねだった「財宝」が「永遠の真理」という形で自分に与えられていたことを知った。
お釈迦さまの亡くなられた後の羅羅についての記載は、お経にはほとんど見受けられない。(中村晋也)