阿弥陀経の十六羅漢と釈迦十大弟子

阿弥陀経の十六羅漢

マハー・モッガーラーナ(目連)
()舎利弗と共に
目連は、そのインド名はモッガラーナ、幼名はコーリタ。舎利弗の住むマガタ国ナーラカ村の隣村、クーリカ村に誕生した。父は学問、見識共に優れたバラモンであり、目連は父の薫陶を受けて幼い頃から頭角を表わした。舎利弗と同様15~16歳から近隣に名を轟かせ、二人は共にシャジャヤに師事し、後にお釈迦さまの教えを聞いてその門に入り、目連は7日で解阿羅漢に達したと言われる。
その後の50余年間を通して、二人は一双の上首としてお釈迦さまの良き補佐役を務めた。例えば、舎利弗が祇園精舎の建築を取り仕切ったように、目連は毘舎佉(ビシャキャ)、通称「鹿子母」と呼ばれた長者夫人が寄進した東園精舎の建築に腐心した。またの名を鹿子母精舎と呼ばれるこの精舎は、祇園精舎の東北に位置し、二層(2階建)であって、一層毎に500の部屋があったとされている。この完成によって、教団が拡大して何かと手狭になっていた竹林精舎、祇園精舎に東園精舎が加わり、布教の三拠点体制が確立した。多くの弟子たちがここから各地に遊行し、仏教の飛躍的発展をもたらしたと考えられている。
          
二人はまた、共に行動することが多く、提婆達多(ダイバダッタ)によって教団が分裂の危機にさらされた時、唆されて教団を出て行った比丘たちのもとに乗り込み、意を尽くして説得し、連れ戻したのもこの二人であった。

()神通第一
目連は神通第一と称されている。例えば、王舎城にいた彼と舎衛城にいたお釈迦さまが神通力で会話し、「お釈迦さまが、舎利弗は智慧と戒をよく知ることと、心の平静さに於いて最高のものである」と誉めておられたと、訪ねてきた舎利弗に言うぐらい神通力に優れていた。
『仏教語大辞典』などを引くと「仏、菩薩などの具備する六つの不思議な力」として次のような六神通を挙げている。
《神足通》空を飛び、身を隠すなど、意のままの行動が自由にできる能力。
《天眼通》人々の未来、死後の世界などを見通すことのできる願力。
《天耳通》自在に一切の言語、音声などを聴くことができる聴力。
《他心通》他人の心を知ることができる能力。
《宿命通》前世は何であったか、前世で何をなしたかを知る能力。
《漏尽通》煩悩を絶つ、つまりこの世と人生の真理を悟り得る智慧。
人間が持つ五感や五体をベースにした能力であるが、漏尽通だけは智慧である。また仏教で最も重要視されるのはこの漏尽通であり、お釈迦さまは長い苦行の後、菩提樹の下で漏神通を得られ仏陀になられた。漏神通はイコール悟りの智慧である。目連は餓鬼道のお母さんのもとに飛んで行ったり、幽閉された王舎城の韋提希夫人を慰めに牢に出現したりしたと言われているが、根本は智慧であり、目連は舎利弗とはまた違った形での智慧第一なのである。
          
お釈迦さまは弟子たちが漏尽通以外の神通力を無闇に使うことを止められていた。
例えば、お釈迦さまの故郷のカピラ国がコーサラ国に攻められようとした時、滅亡の近いことを知った目連は、「神通力で大きな鉄の籠を作り、それで国全体を覆って攻撃を避けよう」と進言した。しかし、お釈迦さまはきっぱりとそれを退けられた。故国が滅亡するのも言わば自業自得、それなりの原因があってのことであり、それによる結果は誰も代わって受け止めることはできない。原因を早く見抜き、結果を予測して悪しき未来を防ぐのが真の悟りの智慧である。神通力によって問題の解決を図るのは間違いである」と諭されたという。仏教は奇跡を説かない教えである。

()盂蘭盆のこと
目連を十大弟子の中で一番ポピュラーな人にしたのは盂蘭盆会の縁起と深く関わっているからである。
お釈迦さまが祇園精舎におられた時、共にいた目連は六神通によって、亡くなった母にお釈迦さまの教えを伝え、自分を生み育ててくれた恩に報いたいと思い立った。そこで、天眼通で母の姿を探し求めると、その母は何と餓鬼道に落ちていて、飲み物、食べ物は一切口にできず、骨と皮ばかりに痩せ衰えているのが見えた。嘆き悲しんだ目連は、直ぐさま鉢にご飯を盛り、神通力で飛んで行ってそれを母に差し出した。しかし、母が狂喜してそのご飯を食べようとすると、それは口に入らぬうちに炎となり、水を差し出せば沸騰して喉に通らないのであった。この有り様に目連は大声を上げて泣き叫び、泣き泣き帰ってお釈迦さまに一部始終を話し、助けを求めた。お釈迦さまは言われた。「貴方の母は犯した罪が深く貪りの心も強かった。貴方の孝心がいくら篤くとも、一人の力ではどうすることもできない」と。そして、どうすれば救えるか、その方法を次のように教えられた。
多くの僧が夏安居を終え、懺悔のために集う7月15日にご飯とできる限りのご馳走、香油、燈明、敷物を用意してお母さんの代わりに供養しなさい。この日は90日間を坐禅などで過ごした心身清浄な僧の中に六神通を自由に発揮し得る高徳の僧、あるいは僧に姿を変えた高位の菩薩が混じっている。これ等の人が全て力を合わせれば、その力は海の如く広くかつ大きい。これ等の僧に心をこめて供養すれば、父母ばかりでなく、六親眷属といった人々まで三塗の苦しみから救われるであろう。父母が健在であるならば、百年に亘って福徳の楽しみを受けることができるし、もし父母が亡くなっていたら、天に生れることができるであろう、と。
さらにお釈迦さまは比丘たちに対して、その供養を受ける時は、先ず施主の家のために祈願の言葉を唱え、七世の父母たちに福を願い、坐禅をして心を静め、その後に飲食の供養を受けなさいと命じられた。7月15日、目連がしつらえた供養の場には大勢の僧の喜びの声が満ち、目連の悲しみ嘆く声はかき消された。そして、その母もこの日を限りに餓鬼の苦しみから免れた。これが盂蘭盆会の縁起であり、この時を初めとして、毎年7月15日に法要を行って多くの供養をし、父母の恩に感謝することや餓鬼たちに施しをすることが行われるようになった。なお、盂蘭盆会につきものの盆踊りは、餓鬼道の責め苦から逃れた目連母子が抱き合い、歓喜して踊った姿から生れたと説く伝承もあるという。

() 目連の言行
目連には腕っ節の強いところがあったようで、例えば、ある時お釈迦さまは東園精舎で「布薩」の日のために集まった多くの弟子たちに囲まれて座っておられた。夜が更け、9時が過ぎたので阿難陀は気をもみ、「皆も待っておりますが」と説法をお願いした。ところが無言のまま。12時が過ぎ、夜明け近くになっても沈黙のままであった。阿難陀がとうとう三度目のお願いをすると、ただ一言、「今日の会は清浄ではない」と言われた。「はて」と、目連が神通力で全ての比丘の心をよく見ると、比丘の一人が破戒僧であり、悪事を働いて、これを隠していることが分かった。しかも、修行もしていないのに、しているような振りをしていた。「立ちなさい、釈尊はお前の悪事を皆知っておられる。お前はここにいる資格はない」と目連が言ったが、その男は出て行かず、二度、三度言っても駄目だった。すると目連は腕を取って門外に引きずり出した。そして改めて説法をお願いすると、お釈迦さまは説法をされたということである。

() 法難の自若と目連の死
お釈迦さまの教団の力が強くなるに連れて、バラモンを始め六師外道などという対抗勢力は影が薄くなっていった。中でも、目連と舎利弗が懐疑論者サンジャヤの250人の弟子たちを引き連れてお釈迦さまの教えに帰依したことは、彼らにとっては大事件であり、「沙門ゴータマがマガダ国の山に囲まれた都にやって来て、サンジャヤの徒は全て引き入れた。今後は誰を誘うのか」と非難する者もあった。
この非難に対して、お釈迦さま自身が「如来は正法を以て誘いたもう。法を以て誘いたもう智者をなぜ妬むのか」と答えなさいと比丘たちに諭されてもいる。特に目連はサンジャヤの件の中心人物であったばかりか、例えば当時王舎城にあった17名の年少の修行僧の団体(十七群比丘)に具足戒を授けるなど、幅広い布教の推進力であり、能く法で他を説得したので、一番の敵と目された。
また、当時の反対勢力の中に裸形外道と呼ばれる過激派グループがあり、彼らは目連をテロの標的に定めたのだった。目連が選ばれたのは、彼は人目に付かない山中での坐禅思惟を好んだので、襲撃しやすかったと考えられている。
裸形外道たちは自ら手を下さず、金で雇った浮浪者に殺させるという暗殺計画を練り上げた。一度目の襲撃はイシギリ山中で座禅中の目連をめがけて行われた。5~60人の浮浪者がてんでに刀や棒を振りかざして襲いかかったが、気づいた目連が暴漢を睨み付けると、全員がヘナヘナとその場に座り込んでしまい、襲撃は不成功に終わった。二度目の襲撃は、距離をおいて矢や槍を投げる飛び道具攻撃に変更して行われた。しかし、この時も矢は途中で外れて落ち、槍も手前で力尽きて役に立たなかった。
裸形外道たちは三度目の襲撃を石に変えた。つまり、遠くから小石を雨霰と投げ、一つ二つ当たると少し前に出て大き目の石を投げ、さらに大きな石をどんどん投げて、遂には人の形をとどめぬにほどにして惨殺したのであった。
なぜ、三度目も神通力で逃れなかったのかという疑問が残る。その答えはお釈迦さま自身が述べている。
「人の命は無常であることを誰よりも能く知っていたのが目連である。それは病で死のうと殺されて死のうと同じである。二度まで法難を受けながら、三度目に神通力を捨てて従容(しょうよう)として死を受け容れたのは、三度までも襲われる我が身の因縁を内観して知ったからであり、目連ほどの人は、いかに残虐非道な殺され方であっても、心安らかに涅槃の時を迎えられるのである」と。(中村晋也)