かえってきた つりがね

戦時中、お寺のつり鐘が軍隊に供出された。
心の支えを失った村人の悲しみと、
原爆で幼友だちを亡くした戦争体験を、
ごん太じいさんが子どもたちに語り聞かせる。
恒久平和の願いを込めて……。



作/児玉辰春(こだま・たつはる)
1928年、広島県大竹市に生まれる。神奈川大学を卒業後、中学校の教員となる。1988年に教員を退職後、創作活動を始める。原爆や戦争に関する素材を通じて平和の尊さを訴え続け、作品に『伸ちゃんのさんりんしゃ』(童心社)『まっ黒なおべんとう』『よっちゃんのビーだま』(新日本出版社)『まっ黒つちまっ白もち』(農文協)などがある。


絵/長澤靖(ながさわ・やすし)

1958年、広島市に生まれる。広島大学を卒業後、地元の中学校の技術教諭となる。戦後生まれであるが、自身は被爆2世で、平和の尊さを子どもたちに語りかけていくことを長年の課題としている。教員世活のかたわら、独学で油絵やペン画などを描き続け、絵本の作品に『まっ黒なおべんとう』(新日本出版社)がある。



『浄土寺の釣り鐘を絵本に』
                    
読売新聞(1996年3月31日)

「しんちゃんのさんりんしゃ」「まっ黒なおべんとう」など、原爆や平和をテーマにした物語の原作者として知られる広島市佐伯区在住の元中学教員児玉辰春さん(68)が、戦争中、軍隊に供出されたものの半世紀ぶりに豊平町志路原の浄土真宗本願寺派・浄土寺(朝枝思善住職)に戻った釣り鐘を主題にした絵本『ごん太じいさんとつり鐘』(仮題)を出版することを決め、同寺で開かれた「釣り鐘返還一周年記念法要」の席で報告した。
釣り鐘は1942年、鉄砲の玉などの兵器として再生されるため、強制的に供出された。一昨年秋、岐阜県関ヶ原町の寺が鐘を新調するため、依頼された滋賀県湖東町の仏具製造会社が古い鐘を下取りした際、浄土寺の名前を見つけ、同寺に連絡してきた。
鐘が届いた昨年3月、たまたま付近を訪れていた児玉さんは人に教えられて返還を祝う法要に参加。鐘と地元の人々のきずなの深さに感銘し、戦争が引き起こした悲劇の一つとして物語を書くことを申し出た。地元の古老への取材を重ね、1年がかりで絵本の原稿を完成させた。本は今年中に出版する予定。
物語は同寺の近くに住む老人「ごん太」が主人公。53年ぶりに見つかった釣り鐘をめぐる思い出と、それを供出で奪われた悲しみ、その後の原爆投下で友人を亡くした戦争体験を子どもたちに語り聞かせ、平和の尊さをかみしめさせる。
児玉さんは,
「寺の釣り鐘は時計代わりであり、地域のシンボルだった。それを奪うような戦争は二度と起こしてはいけないことを子どもたちに訴えたい。」
と話している。
法要には同寺の信徒ら約120人が参加。記念の読経のあと、朝枝住職や鐘を見つけた仏具製造会社社長らが挨拶。「平和を希(ねが)うつり鐘」と名付けられた鐘を撞き、恒久平和を願っていた。



平和を希(ねが)う釣鐘

あとがきにかえて(児玉辰春)

私が小学4年の夏、日本は中国への侵略戦争を広げていきました。(日中戦争 1937年)それまでも日本は南満州鉄道の線路を爆破し、「中国軍がやったのだ」とうそをいって満州を独立させ、日本の思うように支配していったのです。(満州事変1931年)国語の教科書も、1年から「ススメ、ススメ、兵隊 ススメ」です。遊びも「水兵ごっこ」といって、海軍の真似ごとです。また、松ぼっくりを投げ合って、当たったら戦死。女子は看護婦になって、傷ついた者の世話をする遊びもしていました。こうして戦争は当たり前のことだと思い込んでいました。
そして中学2年の12月8日、日本は世界の多くの国を相手に、さらに大きな戦争を始めました。(太平洋戦争1941年)そのとき、
「やったー。」
と、私たちは手をたたいて喜びました。正義の戦争だと思っていたからです。
しかし、生活はどんどん苦しくなりました。砂糖も米も服も、配給制といって、キップがなければ買えません。私のクラスでは40人のうち5人も病気で死にました。それでも、
「欲しがりません、勝つまでは」
「贅沢は敵だ」
といって我慢させられたのです。外国は日本に物を売ってはくれません。石油も鉄もなくなりました。とうとう家にある金物も出さされ、お寺のつり鐘も供出といって、軍隊のために無理やり出さされたのです。
日本の空には、毎日のようにアメリカの飛行機が何百とやってきて爆弾を落とし、東京や大阪など、大きな都市はみんな焼け野原になりました。だから、子どもは町にいては危ないし、邪魔だからと、学徒疎開といって、小学生は親元を離れ、無理やり田舎のお寺や学校へ行かされたのです。豊平の浄土寺にも広島から20人ばかりの小学生が来ていました。中学生も勉強どころではありません。工場で兵器作りをさせられました。私も飛行機の部品を作ったのです。そしてクラスの半分以上が、卒業もしないで兵隊に行きました。ところが、1945年8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8月15日、日本は降伏し、とうとう戦争に負けたのです。
戦争が終わっても大変でした。工場は壊され仕事はありません。兵隊や海外にいた人たちは帰ってきます。給料は安いのに物価はどんどん高くなり、買い物もできません。たくさんの人がさまよい歩き、世の中は乱れ、悪いことも平気で行われるようになりました。そのころ、「つり鐘が工場にあるらしい」という噂が流れてきました。村の人たちは町の工場へ探しに行ったけれど、見つかりません。「やっぱり鉄砲の玉にされたのか」とあきらめていました。
それから50年も過ぎた1994年の秋のことです。滋賀県の「金寿堂」という仏具を作る工場から、
「芸州山懸郡志路原村浄土寺と書いてある釣り鐘を預かっている。」
という電話がかかってきたのです。町の人はさっそく行ってみました。間違いなく浄土寺の鐘でした。そのつり鐘は1942年に供出され、1947年から岐阜県のお寺で使われていましたが、そのお寺が新しい鐘を造ったので、古いつり鐘を下取りに出したのです。
1995年3月、豊平町では町をあげてそのつり鐘を迎えました。そして、戦争の悲劇を知る証人として、その鐘には、
「平和を希(ねが)うつり鐘」
という名前がつけられました。
この年、東広島市の慶徳寺にも同様の運命にあった釣り鐘が帰ってきました。「ほかのお寺の鐘を使っているところは、元のお寺に返して欲しい」と両寺の住職さんは切望されています。

1996年5月