![]() (歎異抄第三条の1) |
この悪人という言葉は非常に難しいのですが、親鸞の時代にはどんな人が悪人と言われていたかということを、少し歴史的に見なきゃならないと思います。これは現代と少し違う面もあります。それは親鸞の時代には、実は、差別を受けている人々が悪人だと言って差別されていたのです。
「栴陀羅」というのはお経に出ていて、とにかく悪人として使われるのですが、実はインドに現実に存在した人々で、差別を受けていた人々で、「チャンダーラ」と言われていたんです。それをお経では「栴陀羅」という漢字で書いているのです。
ところが、親鸞の時代というのは非常な激動期で、それまで支配してきた貴族を武士が打ち倒していくという革命期で、世の中の価値観も大きく変わっていくという、それまで抑圧されていた人々も非常に生き生きと活躍し始める、そういう時代です。そういう時代の中で、悪人として差別されてきた人々は、ただ差別されて縮こまっていたかといったらそうじゃないんですね。逆にですね、「俺は悪人だ」ということを名乗って、そして力強く生きていく姿というのがあった。
それはちょっとそこに例を挙げておきましたけれども、例えば、平安時代末期から鎌倉時代に、狩人とか漁民というのは非常に強い差別を受けていた。例えば『今様』という当時の歌なのですけれども、こんなのがありますね。
「はかなきこの世を過ぐとて、海山稼ぐとせしほどに、万の仏にうとまれて、後生我が身をいかにせん」(梁塵秘抄)
という『今様』があります。これはどういうことかというと、「はかないこの世をすごすために」、つまり、はかないこの世で生活するために、「海や山で稼ごうとする人は」ということですから、狩人、漁民を指すわけです。つまり、はかないこの世を過ごすために海や山で一生懸命狩猟している人々。漁民、狩人、こういう人は、「万の仏にうとまれて」非常に厳しい言い方ですね、総ての仏さまに疎まれる。そして「後生」というのは、この前も言いましたように、死んだ後に生まれるという、死んだ後の世界で、極楽か地獄かということですね。極楽に生まれるか地獄に生まれるか、これが後生ですが、「後生の我が身をどうしようか、どうしようもない」。「仏に見放されているのだから、これは地獄は間違いない」という意味になるわけです。つまり狩人や漁民は地獄に堕ちるというふうに、当時歌われていたわけです。そのように言われていたんですね。
この時代は、やはり地獄の恐怖というのはかなり一般的だった。そんな時代に、「お前みたいなことをやっていたら地獄に堕ちる」というような言い方がどんなに厳しく、残酷な差別であったかということを考えてみなきゃならないと思いますね。
あるいは、この狩人や漁民と武士とは、平安時代には一体だったのです。武士といえば支配者のイメージがあるんですが、長い徳川時代を経ていますから、現在では武士といえば支配者ですが、平安時代は、武士というのは貴族の召使なのです。あの「侍」という字は「さぶろう」という言葉からきたものです。「さぶろう」というのは、これは「お仕えする」という意味で、平安時代の文章に「侍」というのが出てきたら、これは「家来」という意味なのです。「召使」という意味なんですね。だから、武士というのは平安時代には貴族の召使だった。しかも、武力を使う召使ですから用心棒、番犬みたいなもの。身分は非常に低くて馬鹿にされていました。当然差別されていました。それで、武士というのは狩人と一体なのです。
例えば、あの有名な源平合戦で、那須与一が弓を射た有名な話がありますね。あの那須与一の出身地はもちろん那須ですが、今の栃木県ですが、今は天皇の別荘がありますけれども、この那須地帯は那須野という原野、広い野原がありまして、これは頼朝なんかもそこで狩りをしています。狩人なんですね、那須与一が弓の名人だったりするのは。これは、弓というのは狩人の武器ですから、これはもう狩人と一体だったということです。つまり、平安時代の武士というのは、狩人、漁民なんかと一体になっていて、未分化の状態にあって、そして一緒になって差別されていたのです。やはり、悪人として差別されていました。
武士が悪人だと言われている例は幾らでもあります。そうした中で、その武士がようやく立ちあがってですね、貴族を倒していこうとする、そういう機運が生まれてきた時に、その武士の一人が「悪源太義平これにあり」というふうに名乗るわけです。つまり、自分の名前に「悪」をつけているわけです。初めから。悪源太義平と、こういう言い方の中には、長い間差別されてきた、悪として差別されてきた、そういう数百年の歴史が、この背後にあると思うのです。
差別されているが故に、人間をいたわることが何であるか解るんです。差別されているが故に、平等とは何であるかが一番よく解る。恐らく、阿弥陀仏がいう平等の慈悲心という価値を一番知っていた人は誰か、これは差別されていた人々だと思うのです。悪だとされている、その自分の存在を名乗ることによって、自分がその悪い何とかだと名乗ることによって、彼らが持っている可能性を発揮していくわけです。ここなんですね。本当に差別されている人々、そういう人々が本当に阿弥陀仏の価値を知っている。本当の信心に向かえるのです、進むことができるのです。
親鸞はやはりそれを見たというふうに思います。親鸞はこんな経験を持っていました。親鸞が迷う時期がやはりあったということを物語る話なのですが、これは親鸞の奥さんの恵信尼が手紙の中に書いているのです。
ある時親鸞は三部経を千部読誦しようとしたんです。とにかく大変な修行です。もう明らかに自力の修行です。これは恐らく親鸞に焦った時期があったんでしょうね。これはちょうど飢饉で、民衆が苦しんでいる時期があったのです。自分は一体何ができるかということを性急に考えて、焦った時期があったのでしょう。もう必死になって、親鸞は三部経を千部読もうとして修行していたのです。しかし、途中で、
「やっぱりこれは間違っている、念仏を称える以外に何も要らないと法然に教えてもらって、自分もそれを説いているのに、何でまたこんなことをしたんだ。」
と言って止めたという話があります。ここで大事なのは、親鸞は反省して止めたことです。自力というのは親鸞にとっては、ともすれば陥りがちな道なのです。できるのですよ、親鸞には。三部経千部読むということは、やろうと思えばできる。できるから親鸞はその自力に陥りかけるのです。ところが、親鸞の周辺にいた東国の民衆は文字が読めないのです。そういう人々は三部経を千部読もうという自力の行に走ることはないのです。ここなんですね、親鸞が見たものは。つまり、そういう田舎の人々、文字の心も知らない人々は決して三部経を千部読もうというような自力に進むことはないわけなんです。つまり、生まれながら他力しか生きていけない存在なのです。
差別されている人々もそうです。例えば、動物を殺して生きている人。殺生は悪だと言います。しかし、こういう人は悪だから改めようということにはならないのです。仕事なんですから。改めることなんかできないのです。悪だと言われても改めずに進んでいくのです。それなんです、親鸞が言っているのは。悪を捨てようなんて思っちゃいけない、改めようなんて思っちゃいけない、その煩悩を持ちながら救われていくんだという、それが親鸞の教えです。親鸞の思想というのは、実はそういう差別をされて生きている、最低辺に生きている人々の、その生き様そのもの、これを総ての人々が、やっぱりその生き様を目指して生きていく、そういう生き方であったわけです。
だから、私は、親鸞が思想を築いていった根本には被差別者の姿があると思います。だから、親鸞がこの『歎異抄』でいう「悪人」というのは被差別者に通じるのですが、ただ被差別者のことを言っただけではないのです。被差別者だけではなくて、それ以外の総ての人々、それ以外の人々も総て、やはり被差別者が生きているその姿、真の平等を求め、熱烈に阿弥陀仏を求める、そして人間をいたわることが何であるかを知っており、そして自力に走ることのない、そういう被差別者の置かれている状態、これを見て、親鸞は人間の生きていく本来の姿を見出したのではないかというふうに思うのです。ですから、親鸞が「悪人こそが救われる」という、この背後には、やはり悪人として差別されていた当時の人々が、その差別から逃げるのではなくて、その悪人であることに徹することによって自分の可能性を発揮していった。武士が悪源太と名乗って、自分の可能性を発揮していった。日蓮が海人の子だと名乗ることによって法華経の差別を克服していった。そういうふうに悪人であることを隠すのではなくて、捨てるのではなくて、それに徹することによってたくましく生きていった人々が、この当時沢山いたということです。これは親鸞の思想が生まれたことと無関係ではないというふうに思います。
![]() (歎異抄第三条の2) |
悪人、悪というのは何なのかというと、意外と解っていない言葉ですが、親鸞の場合は、ここでは「煩悩具足の凡夫」という形で悪人というものを示している。善人というのは、この中で言い換えている言葉を使えば「自力作善の人」です。これが善人。
善人は余り強く阿弥陀仏を頼んでいない。自分で往生できることをやっているわけですから、余り強く望んでいない。悪人はひたすら頼りにする、阿弥陀仏をひたすら頼りにする。親鸞に言わせればこれが信心です。親鸞の考えでは、信心を持つ人間が一番尊い。悪人が一番尊い。つまり悪人は本当に悪人であることを自覚すれば、ひたすら阿弥陀仏を頼りにする。ということは、ひたすら阿弥陀仏を頼りにするというのは、熱烈な信心を持つということです。だから、信心を持つという、この人間の輝きは悪人なるが故に持つことができる。
この「悪人なるが故に」という論理が親鸞の一番大事な論理だと思います。悪人だから、ひたすら頼りにする、阿弥陀仏を頼りにするという信心を持つことができる。こういう信心を持つ人間が一番優れているということですね。
悪人正機説というのは親鸞の時代に幾つもあります。何も珍しいことではないのです。法然も言っていますし、周遍の人も幾らでも言っています。親鸞と非常に違うのは、他の人が言う悪人正機説というのは、悪人というのは価値が低い、つまり善人より価値が低いから往生が難しい、往生が難しいから慈悲深い阿弥陀仏は一番往生の難しい人から先に救うんだと。こういうのが普通の悪人正機です。往生がもっとも難しいから、その人から先に救う。これが親鸞と同じ時代に言われていた、あるいは、それ以前に言われていた悪人正機説です。
ところが、親鸞はそうじゃないんです。悪人というのは熱烈な信心を持つんだと。だから悪人は優れているのです。善人は熱烈な信心を持たない。親鸞は何で人間の価値を認めるかというと、熱烈な信心をもつか持たないかで決めているわけです。自分で善の行ないを行って、修行ができるかどうか、こんなものによっては親鸞は人間の価値を認めていない。熱烈な信心、これによって親鸞は人間の価値を認めている。だから、悪人は善人よりも価値が高いわけです。だから救われる。これが親鸞の悪人正因思想です。
つまり「悪人なるが故に救われる」ということです。「他力を憑みたてまつる」ということが悪人が往生する条件。しかし、大事なのは、善人の場合は「心を翻す」。ところが、悪人の場合は「他力を憑みたてまつる」のですが、これは、実は悪人が自分が本当に悪人であるという自覚に徹すれば、自然に生まれてくるものなのです。つまり、悪人は本来持っているものなのです。他力を憑むというのは。本来悪人に目覚めれば他力を憑むようになるのです。だから悪人の条件は悪人であることに徹することが条件になるわけです。
自分が阿弥陀仏になった気持ちで、ちょっと阿弥陀仏のところに立ってみましょう。そうするとですね、例えばこちら側に自分の力でちゃんと全部行える人がいるわけです。「阿弥陀仏なんてあってもなくても、俺は自分で往生できる」と言っている人がおるわけ。そしてあちら側に悪人がいる。悪人は阿弥陀仏に憑む以外何もない、自分じゃ何もできない。何をしてみても、みな悪から煩悩から離れられないから「阿弥陀仏を憑む以外ありません」と言っている。どちらを助けますか、阿弥陀仏は。決まっていますよ、これね。その悪人を助けるために弥陀仏はいる。これ、考えたら当たり前のことなんです。
しかし、ちょっと現実に当てはめて考えてください。それが当たり前になっていないのが現代社会ですね。学校の先生を例に上げましょうか、学校の先生ね。こっちにたいして先生の手を借りんでも勉強できる生徒がいる。またこっちに全然勉強できん生徒がいる。先生はどっちのためにあるか。普通に考えたら、今この考えでいったら当たり前でしょう。勉強できない生徒のために先生はいるのですから。ところが、現実の先生は何をしているかというと、何かできる子の方に一生懸命向いているわけですね。この方が間違っているわけでしょう。
これは、学校の先生の立場をもうちょっと詳しく言いますと、勉強できない生徒というのは、本当は先生を求めているのです。求めているけれども、そういう生徒というのは、現実にはどんな姿をしているかと言ったら、「先公なんか要るかよ、勉強なんかするかよ」と言うている。その言葉こそ本当に先生を求めている言葉なんだということを先生は知らなきゃいけない。つまり、一番先生を必要としているわけです。「もう先公なんて要らん、勉強なんか面白くない、そういう必要ない」というぐらい求めている。それぐらい必要としているわけです。求めているというのは必要としているということです。
親鸞が現実に当面したのは、さらに難ずかしいと思いますよ。だから、親鸞が具体的に、やっぱり悪人と呼ばれている人々に接した時、一番それがしんどかったと思います。だから悪人という人々は、本当なら目覚めれば素晴らしい存在なのです。阿弥陀仏をひたすら求める存在なのです。しかし、現実には、目覚めてなければ、むしろ一番反発する人、親鸞が何かを説いても一番反発する人です。「俺はそんなの要らん」、そういうふうに言っていると。しかし、それが実は本当に求めている人ですね。
今度は、阿弥陀仏の立場に行政を置いてみましょう、国家を置いてみましょう。国家や市などの行政。片方にお金持ちがおります。自分でちゃんと生活できる人が。そして、こっちの方に行政の力を借りなければ生きていけない人々がいます。身体障害者とか差別を受けている人とか、あるいは生活が困難な人々。どっちのために国家はあるのか、どっちのために行政はあるのかということを考えてみたらよいと思いますね。
これも現実には、国家といったら、力があって金を儲けている人々のために政治をしているみたいなところがありますね。どうも、それが中心です。公害なんかの問題が起こっても、なぜ国家がきちっとした態度を取れないかと言ったら、国家は企業から金を貰っているんですね。企業の代表みたいな形で出ているわけです。だから企業の不利になることはできないわけです。だから企業の立場に立って、公害の被害を受けた者を説得するような感じになってしまう。本当に、公害を受けている者のためにやらない。公害の問題でも何の問題でも、皆やっぱり、政府や国家が益々儲けようとしている人の立場に立つから、だから本当に困っている人の立場に立てない。
要するに、国家にしても先生にしても何にしても、ひたすらその人を求め、その人がいなければできない、それがなければできないというふうに求めている人と、助けを借りなくてもやっていける人とがおったら、どっちを助けるか、どっちのためにあるかと言うたら、当り前のことなのです。
阿弥陀仏の助けを借りなければならない者と、自分で何とかやっていける者とがいたら、阿弥陀仏は誰のためにある。これは親の気持ちと一緒です。そっちのためにあるということになる。つまり、阿弥陀仏というのは悪人のためにあるということですね。だから悪人が往生する。ところが、阿弥陀仏は慈悲深いもので、あんまり阿弥陀仏を求めていない善人でも、まあ救ってやるわけです。だから、善人でも往生できる。阿弥陀仏をたいして憑んでいない善人でも往生できる。まして阿弥陀仏を憑んでいる悪人は言うまでもない。ここから「悪人正因思想」というものが生まれてくるわけです。だから、よく読めば当たり前のことを言っています。何も難しいことは言っていません。
親鸞が「悪人こそが救われる」という、この背後には、やはり、悪人として差別されていた当時の人々が、その差別から逃げるのではなくて、その悪人であることに徹することによって自分の可能性を発揮していった。武士が「悪源太」と名乗って、自分の可能性を発揮していった、日蓮が「海人の子だ」と名乗ることによって法華経の差別を克服していった、そういうふうに、悪人であることを隠すのではなくて、捨てるのではなくて、それに徹することによってたくましく生きていった人々が、この当時沢山いたということです。これは親鸞の思想が生まれたことと無関係ではないというふうに思います。
もう少し、これを現代の色んな問題に考えてみますと、「なるがゆえに」というこの論理ですが、これによって世の中を見れば、世の中の色んな姿がやはり違って見えてきます。
例えば、以前にこんなことがありました。身体障害者の女の方で、手が不自由なんですが、足でタイプライターを打って、そして勉強して高校を卒業した人が九州のある市に採用されたのです。それは福祉課らしいのですが、そんなニュースがありました。そんな時に、
「ハンディキャップを背負いながらも、がんばって市の職員になれた。」
と。このような言い方をするのですが、つまり、この論理はどういうことかというと、「身体障害者であるにもかかわらず仕事ができる」というものの見方です。これが普通の見方です。身体障害者でも仕事ができる。ところが、これをひっくり返してみるとどうでしょうか。「身体障害者だからできる」というものの見方をしたらどうでしょう。この人は福祉課に勤めています。恐らくは他の人には見えないものが、その人には見えるはずなんです、福祉行政として何を為すべきかということについて。私は、その人に期待したいのは、身体障害者であるがゆえにできる仕事をして欲しいということです。そういうものを持っているんです、人間は。普通、ハンディキャップと呼ばれているもの、こういうものは本当はハンディキャップかどうか解らないのです。普通は「~だけれどもできる」と言ってしまいがち。ところが、実は、本当はそうじゃなくて「~であるがゆえにできる」というもを見出していくことが大事なんじゃないかというふうに思うのです。
だから、身体障害者の問題を扱う場合は、ただ差別するなと言うだけじゃなくて、「そういう人々でもできるんだ」というような見方をしてはいけないと。むしろ、「そういう人々なるがゆえにできる」という道を発見していかなければというふうに思います。それは必ずあるはずです。そういう問題なんです。
アメリカの映画で、『新しいアプローチ~障害者雇用のすすめ』という映画があるのですが、その中で、この映画がまたものすごく明るい映画なのです。身体障害者が出てくるんですけれど、みな車椅子で出てくるのです。車椅子で走り回って踊り回るんです。『ウェストサイド物語』といって、昔のミュージカルがありましたけれども、あれを思い出させるぐらい。つまり人間より速い動きができるのですよ、車椅子に乗っている人々は。その速い動きをサーッとやりながら、上半身で踊りながら歌う、そういうミュージカルです。その劇そのものが、映画そのものが、明らかに、身体障害者でもできますなんてもんじゃないんです。車椅子に乗ってるからできる踊りを彼らは考えているわけなのです。車椅子に乗っているがゆえにできるミュージカルを考えているわけです。つまり、健常者の真似をしているんじゃないんです。障害者の独自の世界を作っているのです。
そして、その映画の中で、こういう歌の文句がありました。
「レイ・チャールズは目が見えないから偉大な音楽家になった。」
ここで「から」となっています。「にもかかわらず」とは言っていないのです。これが素晴らしい。これが親鸞の教えに私は通じると思います。目が見えないにもかかわらず、頑張って偉大な音楽家になったとは言っていないのです。目が見えないから偉大な音楽家になった。
「ミッキー・ルーミは背が低いから偉大な性格俳優になった。」
と、こう歌っています。私はこのレイ・チャールズやミッキー・ルーミとか、どんな人か知らないのですが、アメリカ映画を見たことがないので知らないのですが、言っている趣旨は善く解ります。つまり、例えば背が低いなどというのも、こんなものは身体障害とまでは言えないけれども、しかし、どの程度、障害と言われるほど低かったのか知りませんけれども、とにかく普通ならハンディキャップと言われているもの、「そういうものは隠そう」とか「そこから逃げよう」とかするのではなくて、むしろそれに徹することによって、それゆえに持っている人間的輝きに到達できるのだという、この道なのです。
親鸞の「悪人なるがゆえに」というのは、そういう道を説いているというふうに思うのです。煩悩を持っているというのは一応ハンディキャップみたいに見えます。しかし、そうじゃなくて、実は親鸞は、「煩悩を持っているけれども救われる」とは言わないのです。「煩悩を持っているがゆえに救われる」、それゆえに救いがあるのだという論理です。これはやはり人それぞれに、自分のハンディキャップだと思われているようなもの、実はそれを抑えるのではなくて、それを捨てるのではなくて、むしろそれに徹していく。その中に本当の人間解放の道があるのではないかと思うのです。
例えば、勉強のできない子がいる。「これは駄目だ」なんて考えちゃ駄目なんですよ。あるいは、学校の校則についていけいない、そういう人々がいる。「これは駄目だ」というようなものではなくて、みな人それぞれに、その人なるがゆえに持っている輝きというものが必ずある。それを見出していくことが大事です。例えば執念深い人。執念深いというのは性格の長所と短所。よく学校などで書かせますね。そうした時に、執念深いといったら短所ですが、しかし、執念深いといったら、これをもし勉強に活かしたら、とことんまでやり抜くということにもなるわけです。そういうものなんで、自分の欠点というのは無くそうというものではない。一見欠点だと言われているようなことを、欠点だから改めましょうなどという努力じゃなくて、むしろそこに徹していくことによって、自分を見つめていくことによって、そして、実はそのゆえに、できる仕事というものに進んでいくことができると、そういう広がりを私は持っていると思うのです。
この、親鸞の悪人正因思想というは、悪人であるにも関らず救われるのではなくて、悪人であるが故に救われるという論理。この論理の中には、そういう人間社会を見る、人間の可能性を引き出していく、そういう深い論理が含まれていると思います。人でも、「あいつは~でもあるにも関わらず、これだけやりおった」と言っている時にふと考えて、「そうであるがゆえに実はそれができた」のと違うかと。障害を持っているがゆえにその仕事ができたんだと。事を成し遂げた人というのは、かなり障害を持っている人が多いですね。スポーツ選手で、小さい時から身体に障害を持っていた人というのはかなり多いです。ベートーベンも耳は非常に悪いんですね。ルノワールなんかも下半身不随でしょ。ゴッホなんかも絶えず病気に悩まされていた。こんなものいったい何なんだと考えてみたら、むしろ病気であるにもかかわらずじゃなくて、それゆえに成し遂げられた仕事ではないかと。それゆえに何か普通の人に見えないものを見ている、そういう世界があるのではないかというふうに思うんです。
ちょっと別な話をすると、大阪で文楽、人形浄瑠璃があります、あれ好きでよく見ていたんですが、これも途中で見方が変わりました。初めはこのように思っていたんですよ。あの人形はまるで人間みたいに動くと。人間そっくりだと。人間みたいに動くと初めは思っていた。つまり、人形が人間の真似をしていると思っていた。ところが、ある時、「逆と違うか」と。つまり、人形なるがゆえにできることをやっているのではないか、人間にはできないことをやっているのではないか、人形だから人間を超えることができるのではないかと。例えば、男と女が抱き合う場面一つにしても、こんなのは今では当たり前だけれども、江戸時代の俳優だったらできない。人間だったらできない。日常生活でもできない。それが人形だからできる。
あるいはゲラゲラ笑うものすごく愉快な人形の芝居がある。その笑い方たるや、ものすごく身体をよじらせて笑う。あるいは男を慕う女性の非常に美しい踊りがある。現実に江戸時代の人はあんなことはできなかったのです。あれほど身体を動かして自分の感情を表現することはできなかった。女性の美しさをあんなに発揮できないし、あんなにゲラゲラ笑うこともできないし、あんなに男と女が熱烈に抱き合うことも、江戸時代には、現実にはなかっただろうと思うんです。
つまり、あの人形は江戸時代という時代の中で考えると、人間にできないことをやってきたのと違うかという感じがします。つまり、人形であるにも関らずではなくて、人形であるがゆえにできることをやっている。これが文楽だと思います。人間の真似ではなくて、人間を超えているのだと。むしろ、人間にできない演技を、人間の動きを文楽は引き出しているのではないかというふうな見方になりました。
「~であるにも関らず」というのは人間にとってもそうだし、一人の人間の性格についてもそうだし、すべてのハンディキャップだと思われているもの、そういうものを捨てようとするのではなくて、逆に、「~であるがゆえに」として、その中に潜んでいる可能性を見出していく。そういう道を、この『歎異抄』では悪人正因思想として説いているのではないかと思うのです。