本願の歴史
(児玉暁洋先生のお話)

釈迦弥陀二尊の教えを説いて、七高僧の伝統へと移りゆく、そのちょうど中間に、今回お話申し上げます四つの句が置かれているのであります。そして七高僧の生涯とお仕事の意味が、
「大聖興世の正意をあかし、如来の本誓、機に応ぜることをあかす。」
という二句に要約されているのであります。
今から2500年以前に、ゴータマ・シッダルタという一人の人間が正覚を成就して自ら仏陀と名告られました。釈迦牟尼仏の出現であります。この大聖釈迦牟尼世尊が五濁の世に出現されたという出来事を、すでに過ぎ去ってしまった過去の出来事としてではなく、
「現在を生きる私のためにこそ、釈尊は世に出現くださったのだ。」
と受け取ることは、なかなか容易ではありません。
しかし、もし、この出来事を現在のこととして受け取ることができないならば、私たちは、
「人は何のために生きるのか。」
という、人生の根本問題に答えを見出すことはできません。その時々の欠乏を満たすために、その時々の欲望に振り回されて、一生を虚しく過ごすことにもなりかねないのであります。V・フランクルは『苦悩の存在論』という本を書かれました。
「人間とは苦悩するものである。」
というフランクルの人間理解は、不思議にも仏教に、釈尊の人間理解に通じているのであります。そしてこの本の冒頭には、
「苦悩そのものが問題なのではない。何のために苦しむのかという問い叫びに対して解答がないのが問題なのだ。」
という、F・ニーチェの言葉が掲げられています。ここの「何のために苦しむのか」という言葉は、
「苦はどこからくるのか。」
とも読むことができます。この問いに答えがない時、あるいは、この問いに誤った解答が与えられる時、我々はやみくもに苦をなくそうとします。この問いに解答がない限り、我々は平和を求めて核兵器を造り、住みよい社会を創るために公害をもたらし、病気の治療を求めて薬害に遭い、長生きを求めて老いの苦しみをかこつという構造から解放されることはできません。
この問いに答え得る人は、苦の原因を極め、苦から解脱した仏陀のみであります。まことに、
「唯仏独明了(ただ仏のみ独り明らかにさとりたまえり)」
であります。

苦の原因を極め、苦から解脱した仏陀は、「何のために苦しむのか」という問いに応えて、
「仏になるためにこそ、浄土を願う者になるためにこそ苦しむのだ。」
と教えられます。人間が苦しむのは人間を超えるため、世間に苦があるのは世間を超えるためであります。苦を縁とし、より深い、より高い次元の生命に目覚めること、苦のある世界で苦しむ人間が、新しい主体を獲得し、新しい世界に生れること、そのためにこそ苦しみがあるのであります。凡夫が菩薩となり、限りなく涅槃への道を歩むこと、そのことこそが人生の意味であります。もし、仏陀釈尊の出現がなかったならば、私たち人類はいつまでたっても虚しく迷い続けねばなりません。仏陀釈尊は過去の人ではなく、かえって、未来の人であります。人類の行く手を照らす光であり、教主であります。しかし、このことを、私たちは有縁の知識に遇うことなくしに知ることはできません。親鸞聖人もまた法然聖人に出遇うことによってこのことを知らされました。
「曠劫多少の間にも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし」
という感動に満ちた法然聖人への讃嘆は、やがてそのまま七高僧を貫いて、釈尊に至るのであります。無数の諸仏を生みだし、常に釈尊との同時代性を保ちつつ、時と処と人に応じて、人類の「いのち」を根底から支え、そのつど危機を克服して、人類の未来を開くもの、そのものこそが応機する如来の本願であり、如来の本願こそ、生きとし生けるものに「いのち」の方向を与える歴史の原動力であります。



三国の相承(桐渓順忍和上のお話)

仏教では自分自身の信ずる教え、自分の説く教えが釈尊から自分に至るまで、いかにして伝えられてきたかということを非常に大切にするのであります。それは自分の信じている教え、自分の説く教えは、決して自分自身の独断ではなく、正しい拠り所のあることを示して、その教えの正しさを主張するためであります。それを、
「相承」
と言っております。
特に一宗を開く場合には、自己の主張の拠り所と、それを相承してきた人々について明確に示す必要があるのであります。 特に親鸞聖人は、
「自分の勧める教えは、決して自分勝手なものではない。」
「親鸞は珍しき法門を説くのではない。」
という態度であったから、殊更に相承を明らかにする必要があったのでありましょう。



七高僧の選定@
(桐渓順忍和上のお話)

親鸞聖人の相承を示されるものには二、三の形がありまして、ただ法然聖人の仰せだから信じていくという態度もありますが、その正しいものとしては印度、中国、日本の三国に亙っての七高僧の相承であるというべきであります。しかも、その七高僧の相承を明瞭に示されてあるのは、『正信偈』のここの文と『高僧和讃』でありますから、七高僧の相承の正確な親鸞聖人の意志を知るのには、これ以下の文は非常に大事なものであります。
古人は七高僧を選ばれた理由として次の三つを示しております。
@    自ら西方を願生した人。
A   浄土教に関する著述がある人。
B  本願についての新しい解釈をもつ人。
この三つの条件にかなった人が七高僧であると言われるのであります。が、やはりそこには法然聖人を中心にし、善導大師・法然聖人の関係が重要なものであったように思われます。すなわち法然聖人は親鸞聖人の直接の師匠であり、その法然聖人は善導大師の思想を中心にして自己の教えをお示しになったものであり、その善導大師は道綽禅師の教えを受けた直弟子であり、道綽禅師は「曇鸞大師の事跡に感じて浄土教に入りたまうた」と伝えられておるから師弟関係があり、曇鸞大師は龍樹・天親の思想によって浄土教思想を発揮したのであり、日本の源信和尚は比叡念仏の先達として法然聖人の念仏に大きな影響を与えた人でありますから、かく考えてくると龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空と相承されて親鸞聖人ときたのには、逆に言えば親鸞より法然へ、法然より善導へという線が中心になって七高僧の相承が考えられたとみるべきでありましょう。
これが『歎異抄・第二条』に、
「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず、仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず、善導の御釈まことにおはしまさば、法然のおほせそらごとならんや、法然のおほせまことならば、親鸞が申すむね、またもてむなしかるべからずさふらうか。」
と、明らかにされたものと見るべきでありましょう。



七高僧の選定A(宮城先生のお話)

けれども、間違えてならないのは、この三つのことを一つの条件として立てまして、そして親鸞聖人がこの三つの条件に当てはまる人をずっと探して、そして選び出されたと、そういうことではないということです。もし三つの条件に当てはまる人を選び出されたのであれば、親鸞聖人が、
「自分の目にかなう人を選んだ。」
ということですから、親鸞聖人が一番偉いことになります。この三つのことを一つの規定にしましても、三国の中で無数の念仏者がおられたわけですから、そして色々書物を書いておられる人もたくさんいらっしゃる。そういう人々の中で、この条件に合う人を親鸞聖人が選び分けられたということになりますと、七高僧より親鸞聖人が偉いということになれば有り難いことのうようですが、何かそういうことでは、親鸞聖人の七高僧を仰がれるお心というものと外れるように思います。親鸞聖人は、そんなことで七高僧を選ばれたのではないのです。
これは考えてみますと、私たち自身はよくそういうことをするわけです。やはり自分で先生を選ぶ。自分のもっている規定で、
「この先生、あの先生。」
と、先生を選ぶ。あるいは、例えば明治維新で西洋の思想がどっと入ってきました。そこで、従来の仏教というものが根本から見直され、
「何が本当の宗教か。」
ということを、それぞれが、それぞれの規定を当てて選び分けた。そういうことがありました。その時に内村鑑三という方が、この人はキリスト教の方の有名な方ですが、こういうことを言われたのです。
「近代人というのは外でもない、自分自身を神として仰ぐものである。」
と。つまり、

「色々な宗教をそれぞれに選んで、宗教を生きているようだけれども、自分の持つ規定に合うものを選んでいる。その時には自分を神にしているのではないか。」
「近代合理主義というけれども、合理主義といっているものは、結局、自己の理性を絶対的なものにすることになりはしないか。」
そういう批判を内村鑑三という人がしたのです。
聞法ということにおいてもそういうことです。自分が今まで育ててきた規定に合わせて教えを聞くのです。それを蓮如聖人は、「得手に聞く」あるいは「意巧に聞く」と、こう仰しゃっているのです。私たちが教えを聞くといっても、自分の得手に聞いている。あるいは自分の心に合わせて聞いている。ひたすら聞いているつもりでも、そうなっているのです。



七高僧の選定B(仲野良俊先生のお話)

七高僧にはそれぞれ立派な著書がございます。
著書があるということは、それだけで大変なことでありまして、なまじの学問ではできることではありません。いわば七高僧は、その時代、その時代の仏教界を代表するような大学者であったわけです。
最初の龍樹菩薩は、「八宗の祖」と言われております。この方を祖師と崇めているのは浄土真宗だけではない、八つの宗旨で祖師とされているのです。例えば真言宗もそうです。真言宗では「龍樹」と言わずに「龍猛」と言っていますが、同じ人なのです。龍樹の原名はナーガールジュナと言われるのですが、経論を漢訳する時に龍樹と訳した。これは唐以前の古い翻訳です。新訳では、龍猛と訳してあって、真言宗ではこの方を採っているわけです。八宗の祖というのは、八つの宗旨がみな、自分の宗旨の拠り所とするものを龍樹菩薩の教学の中にもっているわけですから、教えの範囲が非常に広いのです。仏教の教えを広く身に着けられ、広範な著作をしておられる。広いということが龍樹大士の特徴であります。
これに対して天親菩薩は、千部の論師と呼ばれております。千部の著作があるということです。この人の著作もまことに多い。そして天親菩薩の教学は、内容がきわめて厳密なのです。物事をきちっと押えていく人なのです。厳密性というのが天親菩薩の教えの特徴です。
それから曇鸞大師は中国の方ですが、天親菩薩の『浄土論』の註釈を作られました。この人も教養の非常に広い人です。道綽禅師も『安楽集』という著作がありまして、非常に深く浄土の教えを学んでおられますし、善導大師には『観経』を解釈された、いわゆる5部9巻の著がありまして、その文章を読んでみますと、やはり厳密な文章を書いておられます。
源信僧都は日本の方ですけれども、平安時代には仏教を代表する学者として、朝野の尊崇を集めておられました。当時、比叡山には東塔、西塔、横川と三つの学問のブロックがあったのですが、源信僧都は横川の寮頭でありました。今で言ったら「比叡山大学・横川教室の主任教授」というところでしょうか。静かに念仏しながら、天台の教学を深く学ばれた人です。主著には有名な『往生要集』がありますが、著述の実に多い方でありまして、全部で70部150巻あったと申します。
法然聖人という方は『選択本願念仏集』を著わされたのですが、世の人から、「智慧の法然房」と言われたほどですから、学問、人格ともに極めて優れた方であったに違いありません。
もっともご自身は「愚痴の法然」と言っておられます。親鸞聖人は、「愚禿親鸞」と言われた。だから、自分は賢いか馬鹿かということは、自分に聞いてみたら一番よく分かる。
「わしは賢いと思っておるか、アホと思っておるか、どっちだろう。」
と。もし自分を賢いと思っておったら、これはもう混ぜ物なしの馬鹿です。間違いなく生なりの馬鹿です。
そんなわけで、七高僧というのは大した人ばかりです。今の言葉で言うならインテリ。それも、そんじょそこらのインテリとはインテリが違う。普通、インテリというものは、何か一般大衆に対して指導的立場をとり、声高にものを言う、そういうインテリが多い。しかし、七高僧はそうではない、「愚かな我々の代表」というふうな意味のインテリです。つまり、我々と同じ場所に身を置いて、お念仏の教えをいただかれた、そういうインテリです。我々の代表者、愚かな民衆の代表。いわゆる凡夫のところに身を置いて、本願のおいわれを明らかにされた。そういうところに、この七人の高僧方の大事な特徴があるのです。
だから、この七人の方々には、すべて、いわゆる信仰告白というものがあります。懺悔がある。これが非常に大事なのです。親鸞聖人が七高僧として選ばれた基準は、そういう点にあったのでしょう。ただ偉いというだけではない、我々と同じところに身を置いておられる。そこに浄土真宗の祖師としての資格が一つあるのでしょう。もちろん著作があるということも非常に大事です。それから、その人その人が、浄土真宗のある一面の大事なものを発見し、それを明らかにしてくださっているという点も非常に大事なのです。同時に我々と同じところに身を置いて、念仏をいただいておられるということ、この三つの条件が、親鸞聖人が七高僧を選ばれた基準になっているのではないかと、私は感じるわけです。



本願念仏の伝統(広瀬杲先生のお話)

すでにご承知のように、前の「依経分」において、聖人は、
「釈尊がこの世におでましになった本懐は、ただ限りなき阿弥陀の本願を一切の衆生に説き明かさんがためであって、されば五濁の世に生きる苦悩の衆生は、この如来の如実なるみ教えに信順するのみではないか。」
と、私たちに呼びかけてくださいました。しかるに、その「依経分」は最後の処へまいりますと、
「弥陀仏の本願念仏は、邪見@慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし。」
という厳しいお言葉をもって終っております。そこには、我執・我慢の心を捨てることのできない私一人のためにご出世くださった釈尊のご恩徳の有り難さと共に、私の身の上からすれば、救済にあずかるべき縁の一分さえもないことへの限りなく深い懺悔とがあるばかりであります。仏のお心に背き続けるこの身にかけたもう如来大悲のご恩徳が、「依経分」を貫いてひしひしと迫ってきます。
しかし、こうした極難信の事実をふまえて、大聖世尊ご出世の正意を、今の私の身の上にまで伝達 し成就してくださる、永き世をかけての歩みがありました。それこそ、印度・中国・日本と三国を亙って本願念仏の大道を念持し続けてきた歴史であります。それでは聖人が七高僧を選ばれたお気持ちはどこにあったのでしょうか。すなわち、それは阿弥陀の本願海を全世界に解き明かそうという、大聖釈尊出世の正意を解説したものでも論証したものでもなく、ただ弥陀の本願が、「機に応ずる」ことを明らかにするという、そのこと一つをもって、大聖興世の正意を明らかにされたのは、三国を通じてこの七人の高僧の外にはなかったということでありました。
「如来の本誓、機に応ぜることを明かす。」
ということは外のことではなく、ただ阿弥陀の本願念仏の道に帰することなくしては、我が人生を全うすることができないという、そういう自分自身を発見されたということでありましょう。つまり、自分自身を本願の正機として発見されることを通じて、その時代、その社会の全ての人々の救済の道を証明してくださったのであります。阿弥陀の本願の正機とは、
「阿弥陀の本願に遇わずしては、救済の縁なき身。」

ということでありましょう。ここに選ばれた七人の方々は行徳学智共に並びなきご高僧方でありました。しかし、親鸞聖人にとっては、この七人の方だけが人間の業苦の限りなき深さを悲しんで、阿弥陀の本願のお御法に全ての人間が救われていく道を求められた仏弟子として仰がれたのであります。この人間としての血縁の深みにおける感応の心こそが、やがて全ての差別を超えて、万人の救済を成就する阿弥陀の本願に遇わしめるものなのでありましょう。
まことにご自身の救いを通して阿弥陀の本願の虚しからざることを証しつつ、念仏の大道を伝統してくださった、遠くして深いこの生きた歴史があればこそ、今私の上に南無阿弥陀仏の法が与えられたのであります。



伝統と歴史(宮城先生のお話)

一つの教えが本物といいますか、真実であるという、本当に生きた素晴らしい教えであるということを、何が証明するかといいますと、歴史であります。本物は必ず本物を呼び起こしてくる。真実なるものは必ず歴史を生み出すということがあります。歴史にならないということは、人間の「いのち」の真実に触れていないということなのでしょう。歴史にならないものは本物ではないのです。
これは、色々のお仕事の上でもそうだろうと思います。老舗というものが貴ばれるのは、その店が歴史をもっているからです。歴史をもっているということは、ただ何十年、何百年と年が経っているということではありません。年月の流れには内容があります。つまり時の流れの中には、色々な事件、社会の変化があります。にもかかわらず、その年月を貫いて、変わることなく人々に喜ばれ、貴ばれる商品を売り続けてきた店が老舗として残ったのです。また私たちも、そういう老舗と呼ばれる店を、その歴史ゆえに信用しているということがあるのだろうと思います。
そういう意味で、親鸞聖人はその教えが真実であることを、教えを説いた人自身が、いくら、
「これが本物だ。」
と叫んでもだめなのであって、教えが真実であることを証明するのは、その教えによって生れ出た人の、その歴史が証明するのだと仰るのです。だから、弥陀の本願が真実であることを証明なさるのは諸仏なのです。弥陀の本願が真実であることを、弥陀自身がどれだけ主張してもだめなのであって、その本願に生きた人、本願から生み出された人が、自分を生み出したものの真実を証しするのです。そしてそのように脈々と流れ伝わってきている歴史に目覚め、その歴史を貫いている「いのち」に自分もまた呼び覚まされ、押し出されて歩んでいくもの、それこそが真仏弟子であると讃えられているのです。
ですから、親鸞聖人は『信巻』で、
「弟子とは、釈迦、諸仏の弟子なり。」
と明らかにされているのです。この場合の諸仏とは、親鸞聖人にとって具体的には三国七高僧です。印度、中国、日本と、国を超え、時代を超えて本願の教えに生き、本願の歴史を伝えてくださった方々です



因習と伝統(宮城先生の話)

因習と伝統ということがあります。私たちが、因習に生きるということと伝統に生きるということ、これは、どう違うのだろう。因習という場合は、
「昔からそうしてきた。」
「昔から間違いないこととして、みんながそうしてきたのだから、今もみんなそれに従って生きるべきだ。」
そういうことです。ですから、因習というのは過去によって現在を生きる生き方として具体的です。過去で決められてあるもの、決められてきたもの、そういうものを間違いのないものとして現在を生きていく、絶対的な導きとする。そこでは、その過去のものに対する問い返しは許されないのです。あるいは問い返しはしなのです。
「みんなそうしてきた。」
「みんなそれによって生きてきた。」
ということですから、そこでは、伝えられてきたものを、もう一回考え直すということはないのでしょう。つまり、因習という言葉で抑えられ、表現されるものは何かというと、過去によって現在に眠る心であります。自分が生きている現在というものを自分では問わないで、いつも、過去にもたれかかってまどろむ。
「みんなそうしてきたのだから。」
ということで従っておれば、一応、波風が立たない。そこでみんな決まった通りに生きていけば衝突も起こらないということです。そういう形で、決して問い返さない、問い返すことを許さない、それに従っている限りは、みんなその範囲内で平和である、そういう生き方が因習ということです。
それに対して、本当の意味の伝統というのは、私の中に見出す歴史なのです。歴史によって私が生きることではなくて、
「みんなそうしてきたから。」
と、そういう言い伝えで自分を眠らせていくのではなくて、自分が一人の人間として生きていく中に、脈々と伝えられてきていた一つの歴史を見出す。つまり、伝統というのは、一人一人が発見するものなのです。一人ひとりがそれに目覚めるものなのです。一人の人間として一生懸命自分の人生を生きる中で、実は、私が初めてその問題を、あるいは、そういう苦しみを生きてきたのではない、
「私に先立って、その問題をすでに問うて、一生懸命生きた人があった。」
と気づくことなのです。そこにおいて歴史というものから、常に自分の生き方が学ばれ、自分の生活の事実をもって、また歴史に問い返すのです。ですから、
「龍樹、天親と、ずっときて、私は法然聖人の次にいる者だ。」
こう仰しゃっているのではないのです。親鸞聖人は、自分の20年に亙る求道生活、比叡山に登られて20年間、ひたすら、
「本当の仏教、本当の仏道とは何だろう。」
「本当に自分が生きることが、そのままみんなと共に生きるというような道があるのか。」
そういう問いを持って、ずっと、もがき、悩み、迷ってこられた。その親鸞聖人が法然聖人に出遇われて、はじめて確かな道というものを見出された。親鸞聖人は、善き人法然聖人に遇われたのです。

ところが、法然聖人に遇ってみたら、その法然聖人は、
「私はひたすら善導大師に依る。」
と仰しゃるのです。

「私は、善導大師の言葉によって生きていく力を、生きていく道を見出したのだ。」
と仰しゃる。つまり、法然聖人は、ひたすら親鸞聖人に善導大師の言葉を伝えてくださったのです。しかも、その法然聖人をして善導大師に出遇わせた、その大きな円となり、善導大師を日本に伝えてくださった方として源信僧都がいらっしゃるのです。
ですから、親鸞聖人は、遡っておられるわけです。その時、吉水での親鸞聖人の世界は源空、源信、善導という方でしょう。ところが越後に流罪になった。そして越後での生活の中で、今まで思いもしなかった大きな問題を担われるわけです。それは親鸞聖人が今まで知らなかった人間の問題であり今まで、
「もう分かった。」
と思っていた、その思いだけでは応えきれないような問題であったわけです。その中で、源空、源信、善導という、これらの人々が伝えてくださっているその教えというものを、もっと根本返って深く学び直していかれた。それが善導以前の方々です。
ですから、越後から関東へ行かれてから、「親鸞」と名告られたのですが、この「親」は天親の「親」であり、「鸞」は曇鸞の「鸞」だと言われています。このお二人の名前を自らの名告りとして「親鸞」と名告られている。ある意味で、越後から関東という時代に、親鸞聖人は法然聖人、それから源信、善導という方々が生きておられる世界の、その根本に、もう一度返っていかれた。その根本にあったものが、この龍樹、天親、曇鸞、道綽という方々によって伝えられている世界であったのです。
ですから、親鸞聖人においての七高僧は、源空聖人から始まって遡っていかれるのです。『正信偈』は、龍樹菩薩から始まっておりますけれども、親鸞聖人のご体験といいますか、本当に歴史に出遇っていくということは、決して遠いところから「これは本物だ」と選び分けていくというものではないのです。本当に善き人に遇った時に、その善き人が生みだされてきた、善き人が生きておられる世界というものに、また、出遇っていかれる。そして次第次第に遡っていかれたのが、この七高僧なのです。



釈尊の予言(桐渓順忍和上のお話)

そして、龍樹菩薩は釈尊の予言によって現われたということを述べて、その徳を示したのであります
釈尊が、印度の南海岸にある楞伽山で説法されていた時、大衆のために特に大慧菩薩に対して、自分が入滅した後には、南印度に龍樹という菩薩が出世して、有に執着する邪見、無に執着する邪見を破って、如来の本意である大乗無上の法、即ち阿弥陀如来の本願を説き、自らも歓喜地を証り、仏に成るに定まった位になりながら安楽国に往生するであろうと予言されました。
その予言に応じて出世されたのが龍樹菩薩であると、菩薩の徳を讃嘆するのであります。
この『楞伽経』の予言は、親鸞聖人にとっては大きな問題で、『和讃』でも龍樹を讃嘆したものに、
「南天竺に比丘あらん
龍樹菩薩と名づくべし
有無の邪見を破すべしと
世尊はかねてときたまふ」
と、このことが出てきます。
菩提流支の翻訳した『楞伽経』に、
「我乗の内証智は妄覚の境界に非らず。如来滅世の後、誰か持して我がために説かん。如来滅度の後、未来当に人あるべし。大慧よ、汝、諦らかに聴け。人あり、我が法を持せん。南天竺国中に大徳の比丘あり、龍樹と名づく、能く有無の見を破して、人のために我が法大乗無上の法を説き、歓喜地を証得して、安楽国に往生せん。」
と示されてありますが、親鸞聖人はこの予言によって、龍樹菩薩が釈尊の意志を継いで弥陀法を説いたと見て、法然上人が相承の中に加えなかった龍樹菩薩を、釈尊の意志によるもの、第二の釈尊として相承の第一に置いたのだと見るべきでありましょう。この意味では、この釈尊の予言によって現われたということが、親鸞聖人の龍樹菩薩観に大きく影響したといえましょう。