かえってきた つりがね

      児玉辰春/作

      長澤 /絵











「なあ、みんな、ようきいとけよ」

ごんたじいさんはこういって、みんなを見まわしました。
1994年(平成6年)12月の寒いある日のことです。
ここ、広島県豊平町志路原の浄土寺に古いつり鐘が帰ってくるというので、その話を聞くために、みんなはお寺の保育所に集まりました。
「わしらが小さいころにゴーンいうてなりよったつり鐘が、今度帰ってくるんじゃ。わしらは、あのゴーンという音が懐かしいんじゃ。」





「鐘はあるじゃんか。」
「二つも吊るすんかのう?」
みんなは鐘撞堂を見ながら、不思議そうに顔を見合わせました。
「あるじゃろう。ゴーン、ゴーンとなるじゃろうが、この鐘は新しいのじゃ。わしらが小さいころ聞いとったのは、今度帰ってくる古いつり鐘の音なんじゃ。わしらは、その音を聞くのが楽しみじゃった。それに、その鐘には、わしの悲しい思い出があるんじゃ…。」
ごん太じさんは、自分が小さかった時のことを思い出しながら話し始めました。





そのころ、日本は戦争をぶっぱじめて、男の人はみんな兵隊に引っ張り出されたんじゃ。わしの親父も、
「ごん太、おばあちゃんの言うことをよう聞いて、うちのことを頼むぞ。」
と言い残して、兵隊に出て行った。










村には働き手がいなくなって、わしらは学校から帰ったらすぐに鍬や鎌を持って、よう手伝いをしたもんじゃ。そして、夕方になると、ゴーン、ゴーンと、お寺の鐘が鳴るんじゃ。

「さあ帰ろうか。今日もよう働いたのう。」
おばあちゃんがそう言うと、
「三平、帰るぞー。」
「みちよー、帰ろうやー。」
わしらは、

  夕焼けこやけで日が暮れて
  山のお寺の鐘がなる
   お手てつないでみなかえろ
  カラスといっしょにかえりましょ
と大きな声で歌いながら帰ったもんじゃ。
そのころはあんまり遊べんかったが、楽しかった。鐘の音がすると、みちよと手をつなげるのがうれしかったんじゃ。


ところが、戦争は段々ひどうなってきた。着る物も食べる物も少のうなって、日本は負けそうになったんじゃ。鉄砲を作る鉄もないけえ、家にある金物もみんな出さされた。それでも足らんけえ、とうとう「お寺のつり鐘も出せ」という命令がきたんじゃ。村の者はみんな鐘撞堂に集まって興奮しとった。
「つり鐘はこの村の宝物じゃ。出せるもんか!」
「そうは言うても、戦争に負けてはねえ。」
「代わりに鎌や鍬を出したんじゃあ、米が作れんし…。」
元気だった声がどんどん小さくなって、
「どうせなら、笑顔で送ってやろうや。」
「そうじゃ。赤い襷をかけて、日の丸の旗を振って送り出してやろう。」
ということになったんじゃ。



わしは、
「大変だ。ゴーンが聞けなくなる。」
と思って、三平の家に向かって、走ったはしった。

「おい、三平。か、か、鐘がなくなる。」
「なんや、金がなくなるって?」
「か、鐘よ。お寺のゴーンよ。」
「なして、あの重たいのが、どうしてな?」
「鉄砲の玉にされるんよ。」
「そりゃあ、大変じゃ。」
言うが早いか、三平は草履をつっかけて、2人はみちよのところへ走った。
「みちよ、ゴーンが聞けなくなるんじゃ。」
わしが言うと、
「ごん太、代わりにあんたの頭をたたいたらどう。ゴーンタと鳴りよるよ。」
みちよは笑いながらそう言うんじゃ。わしは、腹が立って腹が立って、
「みちよ、本気か。そんならもうお前とは遊ばん!」
大声で怒鳴って、プイッと、帰ろうとしたんじゃ。


「ゴメン、ごん太。そんなに怒らんといてよ。」
みちよは、すぐに追っかけてきた。

「…だったら、穴を掘って隠したら?」
みちよの言葉に、三平がスコップで穴を掘るまねをしながら、
「掘るのはへっちゃらじゃが、鐘は降ろさりゃあせんぞ。」
「そうだよ、大人が10人もかかってもダメだって…。」
わしがそう言うと、みちよはがっかりしとった。




いよいよ、つり鐘が出される日になった。
村の者はみんなお寺へ集まった。つり鐘には赤い襷がかけられて、みんなは淋しそうに最後の別れをしとるんじゃ。
やがてトラックがやってきて、つり鐘を乗せ、ゆっくりと走り出そうとした。その時、

「いやだ!」
どこに隠れていたのか、みちよが飛び出してきた。トラックの前につっ立って、運転手をにらみつけているじゃないか。
「三平、行こう。」
わしも三平とトラックの前に走った。
「おれも、いやじゃ!」
わしも三平も、兵隊をにらみつけてやった。いや、にらみつけることしかできんかったんじゃ。そしたら、悔しゅうて、淋しゅうて、目からポロポロと涙が流れ落ちた。




「ごん太、しかたがないんよ。おばあちゃんだって、この鐘を出したくなんかあるもんか。でもなあ、御上(おかみ)の命令なんよ。出さんかったら非国民いうて言われて、お寺もつぶされるんじゃ。戦争に勝ったら、また造るんよ。」
おばあちゃんの顔は笑ったように見えていたが、目には涙がいっぱいじゃった。


次の日からは、夕方になってもゴーンという鐘の音が聞こえんのじゃ。

「いつもは、もう鐘が鳴る時間じゃがのう…。」
おばあちゃんが淋しそうに言うんじゃ。みんな黙って帰って行く。
そしたら、カラスの鳴き声までも、淋しそうに聞こえてきてのう。わしら、歌を歌う気にもならんかった。
これまで、わしら、村の者に元気を出させていたのは、お寺の鐘のゴーンという、あの音じゃったんじゃ。




「うち、あの鐘の音が好きじゃったんよ。しっかりしなさいって励まされているみたいで。」

「おれ、あの時のみちよの勇気にはびっくりしたよ。」
わしがそう言うと、みちよはわしをじっと見て、
「うち、勉強する。ゴーンが聞けんでも負けんよ。勉強して、広島の女学校に行く。きっと。」
そう言うて、みちよはよう勉強した。
そして1945年(昭和20年)4月、喜んで広島へ出て行ったんじゃ。



ところが、8月6日午前8時15分、広島の空がピカッと光った。やがて黒い雲がこの村まで広がってきた。
原爆じゃ。

たくさんの人が大怪我をして帰ってきた。みちよも真っ黒焦げになって、ぶくぶく膨れて帰ってきたんじゃが、ものを言う元気もなかった。




そして8月15日、日本は戦争に負けた。戦争は終わったんじゃ。


わしと三平は、みちよを見舞いに行った。

「みちよ、元気を出せ。」
というと、

「ご、ご・・・。」
と言うんじゃ。
「おれが、ごん太じゃ。分かるか、みちよ。」
「ご、ご…。」
また同じことを言う。
「みちよは、ゴーン言いよるんじゃないか。」
三平が言うた。
「そうか、みちよ。ゴーンか。分かった、ゴーンか。」
わしが大きな声で言うと、みちよの顔がほころんだ。
「そうじゃ、みちよ。戦争が終わったけえ、またゴーンを造ってもらおうな。」
わしらはお寺へ行って、和尚さんに頼んだ。そして、あの新しいつり鐘ができあがったんじゃ。
しかし、みちよは新しいつり鐘のゴーンも聞かずに死んでしもうた。


それから50年も経って、岐阜県の工場から電話がかかってきた。
「浄土寺と書いてあるつり鐘がある。」
というんじゃ。わしらは間違いじゃないかと思ったが、とにかく行ってみた。本当に浄土寺のつり鐘じゃった。
わしも和尚さんも懐かしゅうなって、鐘をさすってやった。




わしは50年ぶりに、みちよに逢うたような気がしてのう…。その古い、古ーいつり鐘が帰ってくるんじゃ。みんなも気持ちよう迎えてくれよなあ。



じっと聞いていたみんなは、やっと笑顔になりました。

「おじいちゃん、分かったよう。」
「僕たち、迎える準備をしよう。」
こうして、50年ぶりのつり鐘は町中で迎えることになったのでした。





1995年3月26日。

浄土寺の門にはかわいい鼓笛隊の笑顔が並びました。
小学生や中学生は、帰ってきたつり鐘を大人といっしょに持ち上げて、鼓笛隊の中をゆっくりと進みました。
やがて法要が始まりました。
和尚さんは、
「よう帰ってきたのう。鉄砲の弾にならんで良かったのう。」
と言って、つり鐘を抱きしめるようにしてさすりました。そして、このつり鐘に、
「平和を希(ねが)うつり鐘」
という名前をつけ、鐘を撞きました。



ゴーン…。

志路原に、53年前の響きが戻ってきました。

みちよにも聞かせてやりたかったのう…。