― 親鸞さまの奥様 ―
恵信尼さま 


切絵  廣兼至道
文   小池俊文
刊行  山口教区仏教婦人会連盟





(1)
恵信尼さまは、浄土真宗というみ教えを弘められた、親鸞さまの奥様です。
800年も前のお方ですが、そのお手紙が残っていますので、どんな方であったか、分かります。

800年前というと、源氏と平家が争い、平家が壇ノ浦で滅んだころです。
恵信尼さまは、こぶしの花の咲く越後(
新潟県)に生まれられ、越後で亡くなられました。

(2)
1173年、親鸞さまは京都の南、日野の里でお生まれになりました。


(3)
親鸞さまは、ご両親に早く別れられ、9歳のころ「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」といって、得度されました。


(4)
比叡山に登られてからは、来る日も来る日も厳しい修行を続けられました。


(5)
親鸞さまは、比叡山に満足できず、京都の六角堂の観音さまの夢のお告げにより法然さまのところに行かれました。

(6)
法然さまは、「お念仏こそ、すべての人の救われる道だよ」と話されました。
親鸞さまは、法然さまを一生涯の先生と仰がれました。

(7)
法然さまやお弟子は、それまでの寺々から訴えられ、念仏停止の罪を受けて、京都から追い出されました。親鸞さまは越後(新潟県)に追放されました。

(8)
恵信尼さまは親鸞さまより9年遅れ、1182年に生まれられました。
雪深い越後で幼いころを過ごされました。恵信尼さまは、やがて京都に上って九条家という大きな家に奉公されました。

(9)
九条家には、たびたび法然さまがご法話においでになり、阿弥陀さまのお慈悲の話をされました。恵信尼さまも法然さまの話を聞かれることがありました。




(10)
京都の法然さまのご縁で、親鸞さまは越後で恵信尼さまと巡り逢われました。
やがてお二人は結婚され、お子さまもお生まれになりました。





(11)
越後にこられて5年目に「罪を取り消す」という知らせがありました。
しかし、親鸞さまと恵信尼さまは、京都に帰らず、越後に止まって人々にお念仏を伝えられました。

(12)
恵信尼さまが33歳のころ、ご一家は関東に向かわれました。
「関東にお念仏を伝えたい。」
というお気持ちがあったからです。
(13)
利根川の上流、佐貫(さぬき)という所に来られた時、旱魃(かんばつ)による飢饉で多くの人々が苦しんでいました。

(14)
親鸞さまは、苦しんでいる人々を救いたいと願って、三部経を1000回読むことを始められました。しかし、思い直して、
「お念仏を人々に伝えることこそ、本当の救いになる。」
と読経を止められました。
(15)
親鸞さまご一家は、常陸(茨城県)の稲田に長く住まれました。
親鸞さまは、山を越えて、あちこちとお念仏の教えを弘めて歩かれました。
親鸞さまの話を聞きに遠くから訪ねてくる人々を、恵信尼さまは温かく迎えられ、心からお世話をされました。
(16)
恵信尼さまが43歳のとき、末娘の覚信尼さまが生まれられ、お子さまは6人になりました。


(17)
親鸞さまは、お念仏を伝える旅の途中、宿を断られ、雪の中に休まれることもありました。
親鸞さまは怨むこともなく、静にお念仏されました。


(18)
弁円という山伏が親鸞さまを憎み殺そうとやってきました。
ところが、反対に阿弥陀さまのお慈悲に頭が下がり、弁円は親鸞さまのお弟子になりました。
(19)
そんな中で、親鸞さまは南無阿弥陀仏ということについて『教行信証』という本を書かれました。
そのおかげで、今日、私たちは正しいお念仏の意味をいただくことができます。

(20)
恵信尼さまが53歳のころ、ご一家は懐かしい京都に移られました。
東山が緑に包まれる春、
加茂川がきらきら光る夏、
西の山や谷が紅葉で彩られる秋、
比叡おろしの雪降る冬…。
恵信尼さまは、親鸞さまのお側でお念仏を喜ばれる日暮しでした。



(21)
親鸞さまは、絶えず筆をとって本を書かれました。
また手紙を書いたり、時には語り合って、恵信尼さまとともに、人々に阿弥陀さまのお慈悲を伝えることに一生懸命でした。

(22)
その後、恵信尼さまは生まれ故郷の田畠を守り、お子様の世話をされるため、越後に住まれることになりました。
不作で食べるものが充分でないこともありました。

(23)
恵信尼さまは、親を亡くした孫を引き取られることもありました。越後では次々と事件が起こり、歳をとられた恵信尼さまは再び親鸞さまの側に帰ることはできませんでした。しかし、どんな事にもくじけず、明るくお念仏を喜ばれました。
(24)
京都の親鸞さまは90歳の冬、病の床に伏せられました。
末娘の覚信尼さまたちに見守られて、静かにお念仏の息を引きとられました。
(25)
越後の恵信尼さまは、京都からの悲しい便りを読まれました。
そして京都の覚信尼さまに返事をかかれました。
「親鸞さまがお浄土にご往生なさいましたこと、申すまでもございません…。あなたのお父さまの親鸞さまは、阿弥陀さまの慈悲の姿である観音さまの化身と思ってお仕えしてきました…。」
と。
(26)
恵信尼さまは最後の便りには、
「私は極楽に今すぐにも参ることでしょう。何につけても明るく過ごさせていただいております。あなたさまも必ずお念仏を申されて、極楽でお目にかかりましょう。」
と書いてありました。
京都の覚信尼さまは、深く感動されました。
(27)
京都の覚信尼さまは、お母さまの心をくんで、親鸞さまの廟堂を建てて守ってゆかれました。


(28)
越後の恵信尼さまは88歳のころ、親鸞さまの待っておられるお浄土にご往生なさいました。生前に恵信尼さまが建てられた石塔の側には、こぶしの木が立っています。毎年花が咲いて、恵信尼さまを偲ばせます。



(おわり)